冷たい水の中で
知美は深呼吸をして、リビングの扉を開ける。
「どうかしたの?」
伊代は目線を手元の本から、知美に向ける。
もう世間は夏休みに入っていた。
知美はあれ以降一度も小学校に行っていない。
伊代と将は学校で机に落書きがされたことを岡崎から電話で知らされたようだ。二人が優子に事情を聞こうとしたが、彼女は知らないの一点張りだった。
二人の間では前の家に戻ることが話し合われており、知美もそのこと自体は嫌ではなかった。だが、それよりも引っかかるのはマリーの存在だ。
「友達に会うから、出かけてくるね。前、手紙が来ていた子」
「そうなの? 良かったわね」
伊代の顔が明るくなり、彼女は口元をほころばせた。それは知美が考えた精一杯の嘘だった。
知美は前の家を見ておきたいからと、前住んでいた家の鍵を借りる。
彼女は知美が語った以上は聞かず、立ち上がるとリビングにある小物入れからキーホルダーのついた鍵を取り出すと知美に渡す。
知美は心の中で謝り、鍵を受け取る。そして、駅まで送ると言ってくれた伊代の言葉に甘え彼女と一緒に家を出た。強い日差しが降り注ぎ、思わず腕で顔を隠す。
「その子ってどんな子なの?」
間の抜けた声を出し、自分のついた嘘を思い出した。
「運動が得意で、明るい子です。お母さんがいつも仕事で忙しかったから、その子、有菜とお母さんが休みの日は良く遊びに連れて行ってくれました」
「良いわね。ずっと友達でいられると良いわね」
知美は悪気のない伊代の言葉に頷いた。
車は駅の閑散としたエントランスに止まる。知美は伊代にお礼を言うと、車を降りた。
切符を買い、電車のホームに入る。そこでやっと一息吐いた。
右手に持ったバッグの中にはマリーが入っていた。今まで知美の周りで、ここまでけが人が相次ぐことはなかった。だから、これをもとの持ち主である美佐のもとに戻せば、これ以上自分の周りで不可解な事件は起こらないと思ったのだ。
汽笛が空気を震わせ、電車が入ってくる。知美は青い電車に乗り込むと、ため息を吐いて天を仰いだ。
目的の駅につくと、電車から飛び出し、階段を下りて、改札口をくぐる。そして、以前住んでいたアパートに到着した。
知美は家の中に入ると、バッグを握りしめ、辺りを見渡す。
やはり最初に置いてあった場所に帰すのが一番だろう。知美は美佐の部屋に入り、押し入れでたたまれたビニール袋を広げる。そして、マリーを取り出すと、そのビニールの中に入れ、押し入れを締めた。
そのまま家を飛び出し、鍵を閉める。
将とこの家に戻る話が上がっているのは分かっているし、彼にこの人形を見せるわけにも渡すわけにもいかない。もし、知美の仮説が当たっていたとしたら今度は彼にとって身近な人が命を落とす可能性もあるからだ。
だが、夏休み明けに戻るとしても、一か月近い猶予がある。
その間に問題の解決法を探そうと心に誓った。
知美はあまり早く帰ると、伊代に嘘がばれると思い、近くの繁華街に行く。
そこで何気なく本屋に入る。
マリーをどうしたら良いか載っている本を探したが、それらしい本を見つける事はなかった。
解決策が見つからなかったことに対する不満はあるが、少なくとも一か月は知美の周りで不審なことは起こらないはずだという安堵を胸に帰宅した。
伊代は帰りも迎えに来てくれた。彼女の「どうだった」との問いかけに、知美は「楽しかった」と答えた。
家に戻ると、鞄を片づけるために真っ先に部屋に戻る。だが、鞄を床に置こうとしたとき、妙なふくらみがあるのに気づいた。中を見た知美の腕から鞄が滑り落ちる。そこからは栗色の髪の毛が流れ出る。
「確かにお母さんの部屋においたはずなのに」
おいたつもりになっていたのだろうか。
だが、電気のつかない美佐の部屋をあけ、ふすまを開け、ビニールの中にマリーを片づけた記憶が鮮明に蘇る。知美はビニールの感触が残る手を凝視していた。
翌日、知美はまだ太陽の日差しが弱いうちに、電車に乗っていた。辺りには背広を着た人や制服姿の人が時折欠伸をしながら、けだるそうに座っている。
将が仕事に行くときについでに駅まで乗せてもらったのだ。
将と伊代どこに行くのか心配そうに聞いてきたが、知美は気晴らしに近くの駅に行ってみたいと言ったのだ。帰りは伊代に迎えに来てもらうことを約束し、電車に乗った。
その時、何度も脳裏に刻んだ駅名がアナウンスで告げられ、知美はそこで降りる。
この学生で埋め尽くされた駅にはほとんどいったことはない。だが、この駅の近くには大きな川があり、海に通じていることは社会科の授業で学んでいた。
知美は駅の裏口から外に出ると、駅の傍に流れる川から身を乗り出した。
この川の難点は水量が少ない事だ。だが、数日前に大雨が降ったからか、水かさが増し、水流も早い。
知美は右手を胸に当て深呼吸する。そして、マリーを入れた前の小学校の家庭科の時間に作った布製のバッグを橋の上から落とした。
すぐに水の流れの一部となったバッグが、時折、水の上に顔を出しながら、ゆっくりと流れていく。
美佐の人形を勝手に捨てる事に対する罪悪感はある。だが、このまま身近な人が傷つくのは辛すぎた。これが知美には精一杯の決断だった。
「ごめんなさい」
罪悪感から逃れるために、言葉をつづる。
知美はバッグが見えなくなったのを確認して、念のため周囲を見渡す。
何もないのを確認して、駅に戻ると、家に帰る事にした。
部屋に戻り、マリーも鞄もないのを確認して、知美はほっと胸をなでおろした。
もうこれで全て終わったのだ、と。
……知美は暗闇の中にいた。
足を強い力で引っ張られる。目を凝らそうにも、暗闇の中では何も見えない。
その力から逃れるためにもがくが、足を引っ張る力が強くなる。
何かが右の頬を掠め、目を凝らし、それが空き缶だと気付く。
その直後、左の頬に痛みが走る。破片となったガラス瓶が知美の頬に刺さってたのだ。
知美が痛みから声を出そうとしたとき、開けた口から水が流れ込んできた。
先ほどより手をしきりに動かし、その場所から逃れようとするが、知美の体はより深く沈んでいく。
「苦しいよね」
耳の奥に声がダイレクトに届く。長い栗色の髪が知美の首に絡みつき、声にならない声をあげた。
「わたしも痛かったんだよ」
知美の視界を栗色の髪が覆い、目の前に夢に出てきた少女がいた。その目は冷たく、氷を連想させた。
彼女の手が知美の手に伸びる。知美の手が動かなくなる。それを待っていたかのように強い流れが押し寄せる。彼女は自由の利かない体を案じながら、自分の意識が遠ざかっていくのを感じていた。
体を起こし、辺りを見渡す。そこは自分の部屋だった。
夢だったことに胸をなでおろすが、心臓の心拍数が全速力をしたときのようにあがっている。胸に手を当て、呼吸を整えようとした。だが、すぐには整えることもできない。
先程の呼吸できない苦しみがやけにリアルに知美の脳裏によみがえる。
もう夜が明け、カーテンの隙間から明るい光が舞い込む。
水でも飲もうと立ち上がった時、知美の足に冷たいものが触れた。
バケツの水をこぼしたように水が小さな川を作っていた。わずかなあかりを頼りに、その水が太くなっている部分を目で追っていくと、反射的に体を震わせていた。
床に落ちていたのは知美が昨日川に捨てたはずのバッグだった。ファスナーは丁寧に開けられており、そこからも水が毀れていた。
水滴が床に落ちる音がした。そこには水滴の塊があった。滴り落ちる雫の出どころは机の上だ。そこを確認した時、知美は声にならない声をあげる。
そこには金の瞳の人形が無機質な笑みを浮かべていたのだ。
「どうして」
誰かが嫌がらせをしたのかと考えるが、川に投げた人形をどこのだれが拾えるというのか。
状況を否定しつつも、知美は部屋を飛び出し、リビングに行く。
リビングには伊代と将の姿があった。ふたりとも知美を見て驚いている。
二人なわけがない。優子がいくら自分を嫌っていても、そこまでするとも思えない。もっとも彼女は昨日から友人の家に泊まりに行っているので家にいない。
「おはよう」
朝ご飯を食べている将の言葉に返事をすると部屋に戻る。
眠る前に彼女はいなかった。だが、起きたら部屋にいた。
考えてもその方法が分からない。
知美はマリーをどうやれば完全に自分の前から消せるかを考えていた。
その中で思いついたのが燃やすという選択肢だ。
「わたしを殺す、良い方法でも思い付いた?」
笑いを含んだ言葉に、マリーを凝視する。
確かにその声はマリーから聞こえてきたのだ。
その声は夢の中の少女の声とも一致する。
「まあ、燃やしても死なないんだけどね。どうせわたしはもう死んでいるし、別の器を探せばいいだけ。あなたの体とか」
彼女の声のあどけなさが余計に知美を震わせた。
「何が目的なの? 伯父さんと伯母さんも傷つけるの? これ以上周りの人を傷つけないで」
「あなたって単純ね。三浦伊代か。この家におかあさんの写真がないのも、友達から返事がこないのもおかしいと思わないの?」
「何を言って」
だが、知美はその二つに共通するものを知っていた。
「この部屋を出た突き当りに物置があるでしょう。物置の一番奥にノートサイズの水色の箱があるわ。そこを見てみたら良いわ。あなたが本当に目の前の人達を信じて良いのか」
知美は頭に浮かぶ嫌な予感を打ち消すべく、部屋を出て物置の扉を引く。伊代と将に制限されていたわけではないが、ここにははいったことがない。
中は几帳面な伊代らしく、物置の中は綺麗に箱が積まれ、整理整頓されている。
彼女の言っていた水色の箱は物置の奥手にぽつんと置かれていた。
その箱には目立ったほこりもついていない。その箱に伸ばしながらも、心臓が鳴り、指先が震える。
伊代が困ったように笑っていた笑顔が頭を過ぎる。
自分がここにいるのは将がいるからだ。それは分かっていた。
だが、箱を開けた時、それが確信へと変わる。彼の妻も娘も、知美の存在を望んでいなかった。
そこに入っていたのは知美が少し前に友達に書いた手紙と、あどけない笑顔を浮かべた美佐の写真だったのだ。今の自分と同じか、それよりも下だろう。
知美はそこに入っていた写真をかき集め、部屋に戻った。
部屋に戻り、写真を床に広げると、その写真も無事なものだけではなく、何枚か破られた跡や燃やされた跡があった。誰かがこれをしたのだ。
「それでもあなたはこの家の人を信じるの?」
「信じるよ。信じないと、わたしはどこに行けばいいの?」
唇を噛み、拳を握るとマリーをつかんだ。
将だけは伊代や優子と違うと思ったのだ。
「結局あなたも彼を信じ続けているのね」
「彼って誰?」
「白井将」
その言葉に知美の心が震えた。否定する言葉を喉の奥から絞り出しても、言葉にする事が出来ない。
「これから二人で生きていこうね。友達だから」
「やめて。伯父さんには何もしないで」
マリーを揺さぶったが、彼女は何も言わない。
知美は嫌な予感に背中を押され、階段を駆け下りた。
今日は彼に仕事を休んでもらおうと思ったのだ。
知美はリビングの扉を開けた。だが、先ほどいたはずの将の姿はそこにはない。
「伯父さんは?」
「今、出かけたところよ」
耳元をマリーの笑い声が掠め、家を飛び出した。
家の隣にある駐車場に向かう。将の車はまだそこにあった。知美は安堵をし、どう伯父に事情を伝えようか迷う。
「伯父さん」
知美は将の車のフロントガラスを叩く。彼は知美と目が合うと、窓を開けてくれた。
「どうした?」
「危ないの。逃げて」
将の向こうに栗色の髪がなびくのが見えた。
生臭い匂いが鼻先をつく。そして、車の助手席には先程まで知美の手の中にいたはずのマリーが座っていた。
「マリーが、どうして」
知美は身動きがとれず、その場に立ち尽くす。
将は知美の視線に気付いたのだろう。肩越しに振り返っていた。
「これは麻里の……」
将の口から言葉が漏れる。その言葉とほぼ同時に、知美の視界から消えるように車が動き出す。
次の瞬間ガラスの砕ける音が静寂を打ち消した。知美の体はその場に崩れ落ちる。そして、家から出てきた伊代が将の車に向かうのが見えた。




