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マリー  作者: 沢村茜
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プロローグ 姿を消した少女

 太陽は厚い雲にその姿を覆い隠されている。


 岡崎は辺りを見渡し、ため息を吐くと、足早に歩く。雨に打たれるのを避けたかったのだ。

 だが、そんな労力も虚しく、もう少しで家にたどり着くというときに、頬に冷たいものが触れた。

 一気に視界が悪くなり、傘を持ってこなかったことを心から悔いた。


 だが、岡崎の足は自然と止まる。

 黒髪に濃紺のワンピースを着た少女が、道路の真ん中に立ち尽くしているのに気づいたからだ。この町では高齢化が進み、子供の姿を見ることは少なくなっていた。


 知っている人の子供である可能性が極めて高く、併せて彼女が身動きをしないこともあり少女に駆け寄っていた。


 車が一方通行しかできない道路で、車が通りかかればひとたまりもない。

 彼女までの距離が一メートルほどに迫ったとき、彼女が誰かに気づく。

 彼女は以前の教え子だったからだ。


「白井さん?」


 岡崎は彼女の名前を呼んだ。


 雨に濡れ、いつものようなボリュームを失った髪が体の一部と化していた。

 彼女が振り返っても、髪の毛は体と同じ動きをするだけだった。

 少女の頼りなさそうな黒の瞳が見開かれる。そして、形の良いふっくらとした唇がわずかに震える。


「先生」


 彼女が自分のことを覚えていたことに、ほっと胸を撫で下ろす。

 何があったのか聞こうとしたとき、人伝に聞いた彼女の情報を思い出す。

 彼女が何らかの辛い経験をしていてもおかしくない。

 だからこそ、あえて理由を聞かずに、彼女をなだめることにした。


「このままじゃ風邪を引きますよ。わたしの家が近くにあるから、雨宿りでも」


 そう言いかけた岡崎の手に白い手が触れる。

 大きく伸びた背丈とは対照的に、彼女の手は小さいままだった。

 岡崎の体温を奪い去ってしまいそうなほど冷たい手に思わず身震いする。


「いいんです」


 雨音にかき消されそうなほど、小さな囁くような声が届く。

 彼女は目を細めていた。だが、その目に光はない。

 岡崎は目を見張る。

 白井美佐は自分の気持ちを悟られることを拒絶したのか、目を閉じる。

 そのとき、岡崎の目に、雨に打たれながらも艶やかさを失わない、茶色の髪の毛がバッグから飛び出しているのが映る。


 洋風の人形は決して今は珍しくはない。だが、岡崎はその人形が誰の持ち物かすぐにわかる。

 その少女の記憶も岡崎にとって良いものではなかった。


 頭で考えるより先に言葉が飛び出す。


「白井さん、その人形はもしかして彼女の」


 その言葉に白井美佐は体をびくつかせる。


「今日、わたしをみたことは忘れてください」


 彼女は自分で口にして、首を横に振る。


「そうじゃない。わたしのことを忘れてください。後、学校の先生でしかない先生にこんなことをお願いするのは差し出がましいですが、お兄ちゃんのことをお願いします」


「お兄ちゃんのことって君は何をするつもりで」


 とっさのことだったこともあり、岡崎の声が震える。


 彼女の腕をつかんだとき、手首にざらつきを覚える。反射的に腕を引くとそこには血の塊と思われる黒い塊が付着していた。


 彼女が何をした跡かはすぐに分かった。



 小学生の笑みで満たされていた頃の彼女を思い出し、目の前の光景が信じられずにいた。


 少女は手首を体に引き戻すと、傷口を隠すように握りしめていた。

彼女が腕の位置を変えたからだろう。バッグから人形が飛び出し、そこからライトブラウンの瞳が覗いていた。

その引き込まれそうな澄んだ金に近い色に身震いをする。


「さようなら」


 辺りの雨音に解け入りそうな声が響く。


「白井さん」


 彼女の名前を呼んだが、呼び止める力はなかったのだろう。

 軽い足音とともに彼女の姿が小さくなっていく。

 岡崎は意味深な言葉を残した彼女を放置しておくことができずに、その遠ざかっていく姿を追った。

 運動が得意な彼女であったが、成人した男とまだ十五歳の彼女では体力差もあったのだろう。すぐに彼女との距離は狭まっていく。彼女との距離があと一息だと感じたときだった。


 無数の雨粒が光を帯びる。その光の先には発生源と思しき、視界をくらますほどの強い光がある。岡崎の意識はそちらに移る。気づくのが早いことと、ライトが灯っていたことが幸いしたのだろう。

 手を伸ばせば触れそうな距離で、岡崎の目の前をトラックが抜けていく。


 そのトラックが走り去ったのを確認し、胸を撫で下ろす。そして、走り去る少女の姿がフラッシュバックのように蘇る。

 辺りを見渡すが、道路には彼女の姿はない。もう、彼女の姿はどこにもなくなっていた。

 目の前には森があるし、その脇には民家に通じる道がある。

 そして車の流れに沿うように道があり、その脇には奥に入る細い道もある。

 彼女がどこかの道を行き、姿を認識できなくなったとしても不思議なことではない。


 彼女の名前を呼び、辺りを探すが、どこにも見当たらない。

岡崎は身震いした。闇雲に探しても時間が過ぎ、体温を奪われるだけだ。


幸い家は近い。一度家に帰り、彼女の家族に連絡を取ろうと決めたのだ。


 家に戻ると、靴下を脱ぎ、素足になる。そして、タンスからバスタオルを取り出し、髪の毛から滴り落ちる雫を拭く。


着替えようかと考えたが、そのタンスの隣に昔クラスで配布した連絡網を入れていたことを思い出し、引っ張り出す。


 岡崎の手は白井美佐と記された番号をプッシュする。


 引っ越しているかもしれないという不安はあったが、心配は不要だった。すぐに電話がつながり、白井と名乗る男が出た。


 低い声だが、言葉の節々にあどけなさを感じる。恐らく、彼女の兄だろう。


「わたしは小学校のとき、白井美佐さんの担任をしていた岡崎といいます。今、美佐さんが」


 岡崎は先ほどの一連の流れを説明する。電話口の向こうにいる男性が息を呑むのが分かった。


「美佐はどの方角に向かいましたか?」


「わたしの家の前の道路を横切って。それからは姿が見えなくなりました」


 息遣いさえも聞えない静かな時間が流れる。そして、電話口から押し殺したような声が届く。


「ありがとうございました。こちらで探してみます」


「行きそうな場所があれば、教えていただければ、わたしのほうでも探してみます」


「御心遣いありがとうございます。でも、大丈夫です。わざわざありがとうございました」


 彼は丁寧に言葉をつづり、電話を切った。


 受話器を電話に戻す。


 彼女の家族からそう言われ、少なくとも自分の役目は終わったはずだ。


 だが、彼女の笑みを思い出すと、心の奥がうずく。


 岡崎は唇を軽く噛む。


 まだ終わっていない。


 最後に目撃したのは自分なのだ。


 そう考えると岡崎は洋服を真新しいシャツに替える。


 先ほど入ってきたばかりの玄関まで戻ると、靴箱の上に置いてある合羽を袋から取り出す。


 それを羽織り、家の外に飛び出す。


 先ほどとは比べ物にならないほど激しい雨になっていた。


 景色が白く霞んで見える。


 手提げ袋しか持たない白井美佐がどこか遠くに行くことは不可能だろう。それに、一刻も早く見つけ出さなければ彼女が危険な目に合う可能性もある。


 雨に打たれながら、岡崎は足が動く限り彼女の姿を求めた。だが、日付が変わる頃になっても白井美佐は見つからなかった。





 その日を境に白井美佐の消息が途絶えていた。



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