変わった物を愛する人の名前。
辺りがどんどん暗くなる。
もうすぐ夕日が沈み月が昇るのだろう。
私は振り返りもせず手を振り去って行く彼の背中をずっと見ていた。
彼の名前は『ディオニュース・カルヴァドス』
綺麗な黒髪の色に、吸い込まれそうになる悲しいげな黒い瞳。
絵本物語に出てくる騎士の様な強さ。
本当に今日の出来事は現実だったのだろうか?
あまりにも色々起こり過ぎて、逆に現実感がない。
しかし夕日が沈むと共に、黒いシルエットになるその背中は紛れもなくディオニュース様の背中だ。
顔が紅潮するのがわかる。
胸が高鳴り、今はまだ形容し難い気持ちが沸き起っているがそれは今、まだわからなくても良い事なんだろう。
あの方は私を悪漢達から救ってくれた後、私の身を案じて館まで送り届けてくれた。
私としてはその後、館にお越し下さるものばかりと思っていたのに本当にあっさりと帰ろうとする。
ばあや達に事の顛末を一緒にお話したかったのに。
今まで知り合い、見てきた方々は、私達に何か頼まれれば嫌な顔せずなんでもし、結果を出してくれた。
出した結果に対して私達はお礼や褒美を差し上げる事が当然であったし慈善活動ではないのだから、見返りを直接的に言わなくても、求めている事ぐらいはわかる。
『何かをして貰ったから。何かを与える』
私の常識はあの方によって見事に打ち砕かれた。
「じゃあね」
なんてあっさりとした別れの言葉か。
そして踵を返し今来た道を戻ろうとする。
(待って!待って下さい!)
そう思った時にはあの方の袖を握っていた。
何の見返りも求めない。ねだらない。催促もしない。
今までになかった反応に、私の思考は一気に混乱した。
とにかく捲し立てた。
思いつく言葉を思いついただけ話した。
(あぁ、どうしましょう…私は今どういう風に見られているのでしょうか)
それでもあの方は、私からのお礼を困ったようにお断りをする。
(何か、何かこの方を引き留める方法は…!そうだ!)
私は咄嗟にお姉様達から以前教わった、女性だけが使う事が出来ると言われる『ナキオトシ』と言う技を思い出し、初めて使う事にした。
結果で言えば、効果は抜群だった。
お姉様達もこの『ナキオトシ』と言う技を使った事があるのだろうか?
聞きしに勝る効果だった。
嘘泣きがばれる前に、なんとかこの方への感謝の気持ちを形で伝えようと私がどれほど本気なのか知ってもらおうとする。
観念して下さったのだろうか、少し困った表情で受け入れて下さった。
私に出来る事なら何でもしようと思う。金貨?名剣?それともお召し物でしょうか?しかし予想に反して帰ってきた言葉は、驚く程意外なものだった。
「腹っぱい飯を食わせて貰っても良い?」
(え?えっ?それだけ?)
お食事をご一緒出来る事は素直に嬉しいのですが何か形ある物をお渡ししたかったのに。この方は無欲と言うか、無邪気と言うか私の今までの常識では通用しない方だと思った。釈然としない私の様子を見かねてなのか、優しく諭してくれた。
「あまり背負わないでくれ」
ハッとした。身体に衝撃が走るかのようだった。
この方は今、私を気遣ってくれたのだ。
私はこの方に受けたご恩を返す事ばかりで、自分の事しか考えていなかった。
これではまるで我が儘を言うだけの、聞き分けのない子供の様だ。
『絶対にご恩を何かで返す。絶対にお礼をさせて頂く』
それ自体が悪い事ではなく、当然の行いでしょう。しかし私は気遣われた。
「あまり背負わないでくれ」と。
この場においても、誰かを、私を気遣うお方…。
(あ~っもうっ!私はなんて自分本位の子供なのでしょうか!自分が嫌になります!)
それを理解してしまった時、私はもうこの南部海で身を清めたくなる程に恥ずかしく落ち込んでしまった。
(でも!しかし!せっかく、自ら仰って頂いたご提案です。後悔と反省は後でします。必ずや今出来る最高のおもてなしをご用意させて頂きます!)
この方の、ご提案を受け入れ、早速日取りを決める。
明後日には私はここを離れてしまう。早いほうが良い。
(そうですわ、明日にしましょう!明日の夕食をご一緒して是非とも堪能して頂きましょう)
先程、教えて頂いたご宿泊先もこの後、使いの者に調べてもらいましょう。明日の会食が待ちきれない。
「お嬢さんもこのまま真っ直ぐ帰って、家族かお付きの人に精々怒られてこい」
この方は私の軽率な行動を嗜めて下さった。
家族や身の回りの者達に心配をかけさせた事を。
「今度こそ、じゃあな」
そう言って再び私の前から去ろうとする。
今度はもう袖を掴んで止めたりはしない。
明日にまたお会い出来るのだ。
何をお話しよう。何をお聞きしよう。
喜んで頂けるかどうかの不安もある。
でも私は出来る限り、今日と言う日に起こった事に報いたい。
あの方の背中を見つめながら、ふと気づいた。
(…あっ!!)
私はまだあの方のお名前を、お聞きしていなかった事を。
なんと言う事でしょうか。
私が一気に話し続けたから、自己紹介をする時を失わせてしまったのかもしれない。
慌ててあの方に向かってお聞きする。
「あのっ・・!!最後に!!・・・あなた様のお名前は!!」
私は大きな声を出して訊いた。
普段では、滅多に出したりしないくらいの、大きな声で。
「ディオニュース・カルヴァドス。くたびれた芋と廃棄寸前のパンをここ最近愛してやまない男の名前だ」
そう言って、『ディオニュース・カルヴァドス』様はこちらを振り返らず手を振りながら夕日に吸い込まれる様に去って行く。
「ディオニュース様…」
私の言葉は誰にも聞こえていないだろう。
すぐ後ろから、慌ただしく駆けつけてくる足音が聞こえる。
きっといなくなった私に気づいた館の者達だろう。
あの方に言われた通りこの後、ばあや達にしっかり怒られよう。
そして反省しよう。
そして今日と言う日を大切にしよう。
マリーベル・フェイメール・リングベルの世界の中できっと何かが変わった日の事を。