少年探偵1:「探しています」
少年探偵1:「探しています」
和人はなにかあるたび、こう言い訳をする。
「ぼくは労働をしているわけじゃない。単なる趣味で探偵ごっこをしているだけさ。だから、だれであろうと、ぼくの行動を止めることなんてできない」
そして、生えかわったばかりの真っ白な歯を輝かせながら、底のない吸い込まれそうな黒い瞳で見つめてくる。
吐いている台詞は大人びているが、その見つめる真摯な視線はじつに、幼く、あどけない。11歳という年齢が、つくりだす大人と子供のバランスが、和人の場合、このひとことの言い訳と、その表情に凝縮している。
授業中も、休み時間も、その大半を心理学の読書の時間に当て、午後から姿を消すのが、彼の常であり、歴代の担任教師はそろって、その奇怪な行動に悩まされてきた。
だから今回、進級するにあたってクラス替えの職員会議が揉めたことはいうまでもない。もちろん和人の知ったことではないのだが…。
杉野和人。
小学五年にして、もはや手におえる大人はいないと思われたが動じない人間が、一人だけいた。川合真理。担任になってまだまもない先生だったが、彼女のおおらかさは、和人を受け入れるのに、十分だった。
和人の奇行にたいしては、一応の注意はするが、執拗に叱りつけることはなかった。授業がつまらないのなら、興味のある心理学の本を読むように、促すことさえあった。学校から出て行こうが、なにをしようが、彼女は、ただ、おおらかにわらって、ときおり原稿用紙10枚以上のレポートを提出するよう、宿題を出すだけだった。
この宿題は、真理が和人の担任になって、すぐにできた約束事の一つだったが、和人はこれが気に入っていて、いつも、20枚以上のレポートを資料付きで提出していた。
小学生の小論文にもかかわらず、専門用語が遠慮なく飛び交い、常用漢字はおろか、旧漢字を平然と使いこなすものだから、読む真理のほうも丸一日、読解に費やしてしまうが、かならず添削し、真理自身の意見と感想をつけ足してから、返却をした。
しかし、和人は一度だしたものに興味はないらしく、真理から返却されたレポートは、全部ぞんざいに、机の引き出しの奥に突っこんでいた。ただ、たまに、
「真理先生、先月出したレポートの感想に、他者の宗教観もときには、救いになることがあると書いてありましたが、たとえば、それは…」
などと、感想に対する質問を口にしたりもすることもあったので、あとで、こっそり、読んでいるときもあるらしい。
真理は真理で、「ああ、それは」と、こだわりもなく応えてみせるから、この師弟は、ある意味、いきのあったいいコンビになりつつあった。
「川合さん、杉野のペースに巻き込まれたら、大変ですよ」
と、周りの先生方はご忠告してくださるが、そんなときは、
「大丈夫。まだ、私のペースですから」
と、おおらかに微笑み返すだけで、およそ、この世に心配事のないような顔で鼻歌交じりに、テストの採点をしていた。
「先生、川合先生」
昼の休憩に入り、ランチボックスからサンドイッチを取り出した真理に、となりのクラスの浮田が呼びかけた。
「杉野が、コンピュータールームに、向かってましたが、また、なにかやらかすんじゃないですか? 川合先生のクラス、来週まで実習なかったでしょう」
「ふぁい」
スクランブルエッグをはさみこんだ耳ありサンドにかぶりつきながら、真理がうなずく。
「杉野の奴、最近、パソコンとかに興味があるんじゃないですか? だとしたら、いたずらに機材とかをいじくりまわす可能性、大ですよ」
「ひょおでふか?」
「そうですよ! 以前も視聴覚教室のビデオデッキを2台壊して、問題になったんですから!」
「んぐ。でも、コンピュータールームは、いつもカギをかけてるでしょう?」
「杉野に南京錠なんて、無意味ですよ。視聴覚教室も授業時間外にやられましたからね」
「へー」
シュガーホットミルクをゆっくりと啜りながら、真理が感心する。そこまで知っていて、どうして、和人にひとこと声をかけないのだろうか。二年前に担任だったわりには、えらく冷たい感じがする。どの先生も、そうだが、みんな距離をとりたがっているような気がしてならない。
真理は、なんとなく職員室を見回しながら、ランチボックスを鞄にしまい、ゆっくりと立ち上がった。
「浮田先生が、そこまで心配されているんでしたら、わたし、ちょっと見てきますよ」
「ええ、ちゃんと監視しておかないと、川合先生も、いまにひどい目にあいますよ」
浮田は、自嘲気味に鼻を鳴らしながら、机の上を片付け、頭をかきながら、給湯室のほうに消えていった。
「…不思議なひとだなぁ」
だれにも聞こえないようにつぶやきながら、真理は職員室の入り口にかけてあるコンピュータールームのカギを取り、別棟へむかった。
二階の渡り廊下をわたり、低学年のクラスをあがると、視聴覚教室などの特殊教室がならんでいる。真理は廊下で遊んでいる二年生たちと、しばらく遊んでから、三階奥のコンピュータールームをのぞいてみた。ドアについている窓から見る限り、だれもいない。南京錠も、きちんとおりていたが、真理は一応、カギをはずし、なかにはいった。
20台のコンピューターが、しずかにならび、どれも電源は入っていない。
が、それらのコンピューターを管理するホストコンピューターのある準備室から、かすかにキーボードの音が聞こえてきた。真理はためらわずに、準備室のドアをあけた。
「杉野くん、また事件なの?」
「いえ、真理先生、これは事件じゃなくて、ちょっとした謎ってとこかな?」
べつに驚く様子もなく、和人は画面から顔をあげずに応えた。人さし指を口にあてながら、うれしそうに眼をかがやかせている。
「なにをしているの?」
「警察のホームページにアクセスしてたんですが、おもしろいものを見つけたんで、ちょっと、調べてみようかな、と」
「ふうん。なにがおもしろいの?」
準備室のコンピューターがいつのまにかネットと繋がっている、という些細な問題には触れず、真理も画面を覗きこんだ。「新山署家出人リスト」と書かれたページが開かれていて、ズラリと名前がならんでいる。ほかにも、背格好や、その人の特徴、失踪した場所や時期が、簡潔に書かれていた。
「なに? 人探し?」
「…うーん。人探しだけど、たぶん、ちがうと思います」
「たぶん?」
ふだん自信たっぷりの和人が、めずらしく曖昧な答え方をするのに、真理は興味をおぼえた。いったい、この子を悩ますほどの、謎がこの世にあるとは思えない。そう思ってしまうと、ついつい、今どんな謎に、はまっているのか、知りたくなってしまう。
和人も心得たもので画面から顔をあげ、真理に見てもらいやすいように、イスをひきながら、説明をし始めた。
「昨日から、新山署があつかっている行方不明者のリストを見てたんですが、一人だけ、ちょっと変わった人がいて、この人なんだけど」
カーソルを動かしながら、和人は「夏目徳次郎」という名前をクリックした。すると、次の画面があらわれ、詳細の書かれたページが出てきた。
「ね、おかしいでしょう?」
「なにが?」
真理が見るところ、べつにおかしなところは見当たらない。
夏目徳次郎。昭和十三年生まれ。男性。身長一六〇センチ前後。
新山三丁目にて、蕪の栽培をされる農家。平成十五年に失踪し、行方を探されています。
捜索届人は、事情により匿名。
「だって、情報がひどく不自然じゃないですか。これだけの情報で人なんて探せないでしょう。ほら、ほかの人と比べて、この人だけ、異様に情報がすくない」
たしかに、ほかの人のページには、顔写真がついていたり、そのときの服装や、失踪した当時の経緯などが、書かれているのに、夏目徳次郎氏のページには、先ほどの三行たらずの説明文があるだけだった。
和人がいうように、これで人を探せといわれても、見つけることは不可能だろう。
「たまたまじゃないの?」
「たまたま? たまたま情報が少ない状況って、どんなときですか? 捜索届を出してるくらいだから、この人たちは真剣に情報公開してるわけでしょう? だったら知っている情報は、なるべく載せるんじゃないですか?」
和人はいたずらっぽく笑って、言い返した。ちょっとはにかんだような表情が、その少年を、天使のようにみせていたが、言っていることとやっていることは、大人顔負け、皮肉の塊そのものだ。
「そりゃあ、そうだけど。あまり、大げさにしたくないのかも。ほら、近所の人たちには、あまり知られたくないから、具体的な特徴は、警察だけが知ってるのかもしれない」
「真理先生、それじゃあ、このページムダじゃないですか。知られたくないんなら、このページに載せることを、拒否すればいいんだから。」
「あ、そうか。そうだよね」
「第一、失踪して九年もたってるのに、知られたくないもなにも、ないと思うけどなぁ」
和人は大きな伸びを一つしてから、もう一度キーボードに向かい、カチャカチャと、電子メールを送信するため、文章を打ちこみ始めた。
昨日、夏目徳次郎氏と思われる人物を目撃いたしました。
是非とも、ご報告いたしたいのですが、万一、人違いであった場合、
双方にご迷惑をおかけいたしますので、できましたら、確認のため、
さらに詳細な情報をお教えいただきたいと存じます。
ご返信は、お手数ですが、以下のアドレスに、お願いします。
********
杉野和人
こういうことに慣れているのか、和人は数秒で入力を終えてしまい、真理が止めるまもなく、さっさと、送信してしまった。真理ができたことといえば、唯一、
「あ」
と間抜けな声をあげることくらいだった。
「どうして、あんなメールを送ったりしたの? 探してもいないのに」
「どうして? そんなの簡単じゃないですか、これから、この、いない人を探すからですよ。この見つけることができない人をね」
子供のようにはしゃぎながら(子供だけど…)、和人は立ち上がり、コンピューターの電源を切った。そして、キーボードの指紋を拭き取りながら、真理にうながした。
「真理先生。もうすぐ、予鈴がなりますよ。行かないと」
「? どうして、キーボードを拭いたの?」
真理の質問に、和人は苦笑した。
「人間は、日々、学習するっていうでしょう」
それ以上、なにもいわず、廊下の気配をうかがっていた和人は、真理よりもさきに部屋を出ると、午後から姿を消した。
残された真理は、静かになった準備室で黒い画面を眺めながら首を傾げ、整った眉を少し歪めて、つぶやいた。
「ふつう、気がつくかしら、こんなこと?」
しばらく、黙って考えていたが、真理は謎を残したまま、コンピュータールームを後にした。
六時間目が終わり、終礼になっても和人は帰ってこなかった。いつもなら、清掃が終わるころには、ひょっこり、あらわれるのだが、今回は少し、帰りが遅い。
真理は、主人のいないランドセルと一緒に教室に残り、人気のなくなった放課後で、テストの採点をしながら待った。陽がずいぶん傾き、教室が少し冷え込んできた。
明かりをつけ、ストーブの火を入れようかどうしようか、迷っていると、和人の声が聞こえてきた。
「やあ、真理先生。残業されているところ、申し訳ありませんが、ぼくのお願いを聞いてもらえませんか?」
大きな封筒と、何冊かの本を抱えた和人は、疲れた様子もなく、ランドセルをひっつかみ、その抱えていた荷物を、全部放りこんだ。
「なに、家まで送れっての?」
「いえ、そんなつまんないことはいいません」
「じゃあ、なに?」
「コーヒーをおごってください」
「コーヒー?」
真理は広げていた答案用紙をかたづけながら、聞き返した。なにをどうしたら、そういう話になるのか、わからない。だが、和人は、満足そうにうなずいた。
「はい!」
こういうときだけ、元気よく子供っぽい。
「…なるほどね」
一番奥のテーブル席に陣取り、真理は持ってきたカフェオレを和人に手渡しながら、いった。
「これが、目的だったのね」
さきほどの大きな封筒から書類を何枚も取り出し、テーブルに広げている和人は、画面から、顔をはなさずに、応えた。
「ええ。昼間のメールの返信を確認したくて。あ、カフェオレいただきます」
「でも、どうして、ネットカフェなの?いままで、学校のコンピューターをつかってたのに?」
「…真理先生、そういうことは、あまり大きな声で、話さないほうがいいと思うんだけど」
和人に言われ、真理は、首をすくめながら、あたりを見回した。
木目のやわらかな色調で統一された、小さなカフェは、仕事帰りのサラリーマンや、高校生たちで、にぎわっていた。だれもこちらのことなど、気にしている様子はなかったが、真理は、小声で質問を続けた。
「なんで、コンピュータールームを使わないの?」
「この人探しには、謎が隠されています。でも、その謎は、秘密にしておかないといけない。ただ、記録には残す必要がある…真理先生の質問に正確に答えるなら、あのコンピューターだと、どんなふうに、使っていたかが、他人にしられてしまう可能性があるし、記録を残すわけにはいかないからです」
「うーん。全然わからん」
「とにかく、返信の確認をしましょう。ぼくの予測だと、メールが二件返ってきているはずです」
和人は、説明を中断し、昼休みに見た新山署のページを呼び出しながら、個人で持っているメールアドレスのボックスを開いた。
何件かの返信メールがならび、和人がいうように、リストの一番上に、新山署からのメールが、二件届いていた。
「ほらね」
うれしそうに、マウスを動かし、和人は先にきたメールのほうから順に開いた。
お問い合わせの件について
貴重な情報を提供していただき有難うございます。
申し訳ございませんが、こちらの詳細については、捜査の関係上、
ネット上での、開示を禁止しています。
お手数ですが、お近くの警察署・派出所においでいただき、捜査にご協力いただけるよう、
お願いいたします。
新山警察署
そして、もう一つのメールをクリックする。
お訊ねの詳細について。
お見かけになられた方の詳細は、以下のとおりです。
頭髪は、やや薄く。中肉中背。東京浅草生まれ。
尋常小学校を卒業の後、実家の農家を継がれるが、
戦中に、新山市の前身、新山水里郡に学童疎開をされ、
以降、定住され、農家を営まれていました。
また、俳句の嗜みもあり、町内の俳句の会にも、句を寄せられていました。
多趣味な方であり、多方面で、評論のような文筆活動を行われていた時期もありました。
失踪されたのは、平成十五年の12月27日です。
参考にしていただけると、幸いであります。
新山署広報課 山賀俊一
「…内容が、まるで正反対ね」
真理は、ブレンドコーヒーを飲み干しながら、手を振って喜んでいる和人に聞いた。
「うん。でも、これで、謎は解けましたよ」
「はあ?!」
元気よく宣言する和人の横顔と、ディスプレイを交互に眺めながら、真理は肩をすくめた。
一体、この小学五年生の頭の中はどうなってるんだろう?
「あのー、なにがおきているのか、説明してくれますか?」
「いいですよ。ただし、このメールを送るまで、待ってください」
細い小さな指を、キーボードの上で躍らせ、和人は、新山署広報課の山賀俊一宛にメールを作成した。
山賀さまへ。
いただいた、詳細により、夏目徳次郎氏を発見いたしました。
氏はさきほどまで、新山小学校付近のインターネットカフェで、
お茶をされていたのですが、迂闊にも、私が話し掛けてしまったため、
なにかを感づかれてしまったのか、逃げるように店を出られ、
駅前商店街の人ごみの中に消えてしまわれました。
矍鑠とされ、とてもお元気なかたで、追いつくことができず、
今回、取り返しのつかないことをしてしまいました。
今後、このような、出すぎたマネは行わないよう、肝に銘じ、
ご協力してゆきたいと思います。申し訳ありませんでした。
********
杉野和人
人さし指を口にあて、しばらく読み返した後に、ゆっくりと送信ボタンを押した。
「さあ、これで謎解きは終わり、と。あとは、真理先生に説明するだけですね」
「わかりやすく、お願いします」
「そんな、大袈裟な。すごくシンプルな謎ですよ。でも、その前に…」
「その前に?」
「カフェオレのおかわりもらえませんか。ここのカフェオレおいしいです」
「……いいけどね」
途轍もない脱力感にみまわれながら、真理は腕時計を見ながら、席を立った。
「じゃあ、教えてもらいましょうか。探してもいない人探しの顛末を」
二杯目のコーヒーを抱えながら、真理は和人にうながした。
「いいですよ」
カフェオレを啜りながら、和人は,テーブルいっぱいに広げた本と書類の中から、一枚の紙をとりあげ、真理に見せた。
「なにこれ?」
「戸籍謄本のコピーです。おもしろいでしょう」
「……これが、おもしろいの?」
真理は首をかしげながら、その戸籍謄本を見た。そこには、すでに明らかになっていた生年月日と、本籍地(東京浅草)が記載されていた。
「で、つぎはこれです」
付箋のされた分厚い本を広げ、指さした。囲碁の対局後の対談ばかりを集めた本らしく、夏目氏関する記事が、数行だけ出ていた。
白木:おっ、黒部の長考が始まった。
石川:でも、夏目徳次郎氏も、ずいぶん長いですよね。髪が黒くて、フサフサしてるときから、知ってるけど。
黒部:夏目徳次郎氏?…って、誰なんですか?
石川:日曜囲碁クラブの名誉会長。むかしは、よくこっちにも来て、打ってましたよね。
白木:打ってた。
黒部:ベテランなんですね。プロの方ですか?
石川:いや。でも、囲碁歴は、長いよ。七十年だったかなぁ。
白木:それはウソだと思う。(笑)
地元の囲碁クラブの機関誌に、取り上げられた、とりとめのない会話を黙読し、真理は感心した。戸籍謄本のコピーといい、この対談集といい、いったい、どうすればこんな資料を見つけてこれるのだろう。
それと、もう一つ。どうすれば、この二つの手がかりを見て、おもしろいと思えるのだろう?
屈託なく笑い、勝ち誇ったようにカフェオレを飲んでいる和人の顔と、目の前に置かれた資料を見比べながら、小さく嘆息した。
「真理先生、この二つを見て、なにがわかります?」
「なにって、囲碁好きのお爺ちゃんでしょう?」
「ほかには?」
「ほか? うーん…この、石川さんと、白木さんとは、古くからの知り合いだってことくらいかなぁ」
「この対談全体から感じることはないですか?」
「対談全体から…ねぇ」
もう一度、ていねいに読み返し、あやしいところを探したが、どこにも見当たらない。
「普通にしゃべってるって、感じかなぁ」
真理は素直に感じたことを、述べた。すると、和人は意外そうな表情で、首を傾げて、いった。
「真理先生、これは、全然、ふつうになんか、しゃべってませんよ? 不自然な会話を無理やり成立させています」
「どこが?」
「うーん。たとえば黒部という人が、長考になった途端、石川って人が、夏目徳次郎氏をたとえにあげてますけど、ふつうの会話として考えた場合、そこにいない人物で、間遠になっている人を、すぐに想起することはありえません。」
「はあ…」
「それにつぎに置く石のことを、じっくり考えている黒部が、のんきに「誰ですか?」なんて質問をしているのも、不自然でしょう?」
「それはそうかもしれないけど、じゃあ、どうして、そんな不自然な会話をする必要があるっていうの?」
「夏目徳次郎氏を登場させるためですよ。この対談は、そのためだけにあるようなものだもの」
真理は首をかしげた。わざわざ不自然な対談を用意してまで、夏目徳次郎氏を登場させる理由が、わからない。和人は、真理の疑問を見透かしているかのようにほほえみ、質問するよりもさきに応えた。
「これは、一種のお遊びなんです。実在しない人間を、存在させて、遊んでいるんです」
「ええ?! 何のために?」
「理由なんてないと思いますよ。ただ、おもしろいから、やってるだけで…」
「でも、戸籍謄本もあるし、評論も書いてるんでしょう?」
「たしかにね。でも、評論は、偽名でだれでも書くことができるから。問題はこの本物の戸籍謄本だけど、いたずらの発案者が、役所の戸籍係の人間なら、なんの問題もないでしょう? これはぼくの推測だけど、たぶん、この戸籍謄本を作った人物は、時代的にも、昭和初期、シュールレアリスム全盛のころに、おもしろがってやったんだと思う。文学に興味がある人で、一人じゃなく、同好の士数人で、秘密を共有してたんじゃないかァ。で、職場や大学の後輩たちに、秘密が受け継がれたりして、偽名で、評論を書く人とか、捜索願を出す人が、でてきたんだと思うんです」
珍しく饒舌に語る和人をながめながら、真理はごく自然な単語のように出てきた、シュールレアリスムに困惑した。
既成概念にとらわれることなく、ものの本質を見出すために、ありとあらゆる表現方法をとる芸術思想。文学だと思いついたものを、片っぱしから、書き記していった、ジョイスの「ユリシーズ」や、ありもしないものを、あたかもあるようにみせたボルヘスの「伝奇集」があった………はずだけど。
なんで、知ってるんだ、この小学五年生は?
真理が不思議そうに、和人を見つめると、透きとおった黒い瞳も、不思議そうに見つめ返してきた。なにが不思議なのか分からない、といったように。
「楽しいと思いませんか? 一部の人たちだけが秘密を共有し、七十年以上も続いてる遊びがあるなんて。それだけで、ぼくは楽しいし、すごいと感心してしまいます。ただ、それも、九年前から、だんだんと、知っている人が少なくなってきてたみたいですけど」
「ふうん。それで、秘密を知ってる山賀氏が捜索願を、わざわざ目立つように出してたのね。たしかに、スケールの大きさには、感心するけど…ん?」
話していると、ディスプレイ上にメールの着信を知らせるアイコンが、点滅していた。
「新山署の山賀さんからですね」
「なんの返事?」
「さあ?」
和人は、首を傾げながら、クリックした。
杉野和人 様
今回、あなた様のご活躍を参考に、夏目徳次郎氏を捜索し、発見するに至りました。
長らく、失踪されていましたが、その理由も、すぐに明らかになることと思います。
心から、お礼申し上げます。
新山署広報課 山賀俊一
P.S.夏目氏から、伝言を頼まれましたので、伝えておきます。
「あまりに、久しぶりに、声をかけられたので、とても、驚きました。
あの時は、思わず逃げてしまいましたが、今度、ゆっくり、三人で、お茶でもしましょうね」
読み終えた和人は、こらえきれず、くすくすと、笑いだした。
「真理先生。警察にも、おもしろい人がいるんですね」
「そうみたいね。わざわざ、三人でお茶だなんて……三人?」
真理は、慌てて店内を見回したが、それらしい人は、見当たらなかった。
「どうかしましたか?真理先生」
「いや、三人で、お茶ってことは、夏目さんと、杉野君と、私の三人でしょう?どうして知ってるのかなーって、疑問がね」
「ああ、それは、簡単ですよ。夏目氏がいってる三人ってのは、夏目氏と、山賀さんと、ぼくの三人のことですから」
和人の説明に、真理は釈然としなかった。
「それは、ウソでしょう」
「さあ、それはどうですかね?」
和人は、いたずらっぽく微笑んだ。
「その答えは、今度のレポートで提出したいと思います」
「……わかったわ。では、楽しみに待つこととしましょう」
真理は腕時計を見ながらいった。カップの乗ったトレイを返却し、和人を連れて、店を出ると、木枯らしが二人の間を通り抜けていった。
真理は自分のマフラーを、和人の首にかけ、並んで歩き出した。
「真理先生」
顔をマフラーに埋めながら、和人は、小さな声でつぶやいた。
「さっきから、時計ばかり見てますけど、なにかあるんですか? もしかして、デートの約束があったとか? だったら、すみません、こんな遅くまで…」
「杉野君」
「はい」
「わざと言ってるでしょう」
「……わかりますか?」
先ほどまでと、表情が全然ちがう。うれしそうにおどけた顔で、視線だけを真理に向けて、ほほえんだ。
「ほんとうは、連ドラの再放送を見たかったんでしょう? 「迷宮のラビリンス」の六話目。東城が、光の催眠術に気づいて、香織のもとに駆けつける、いいところですよね」
「………どうして、わかるの?」
「簡単ですよ。時計を気にし始めた時間が、ドラマの始まる三十分まえからだったし、いつも、授業中の余談にドラマの話をしてるんだから」
「そんなに、してたっけ?」
普段の授業を思い出しながら、真理は少しだけ、顔を赤らめた。
今度から、ドラマの話は控えよう……。
「でも、大丈夫ですよ、真理先生」
「ん?」
「ちゃんと、タイマー録画してきましたから」
得意満面になっていう、和人の顔を見て真理は思わず吹き出した。
「あはは、かなわないなぁ、探偵さんには」
「カフェオレのお礼です」
「うん。じゃあ、そういうことにしときましょう」
真理は、缶コーヒーを二つ買い、カイロ代わりに、和人にも持たせ、澄み切った月の下で、少年の顔を、もう一度見た。
少し上気した頬に、好奇心大盛な瞳を無防備なまま、こちらに向けている。
さきほどまでとは、別人だ。
だから、真理は思った。
わたしは、この子の先生にはなれない。
でも、いい友達には、なれるかもしれない。