第3話「礼拝堂も書簡も安全地帯ではなかった」
私は机に向かったまま、しばらく動けなかった。
紙の上には、自分で書いた検証結果が並んでいる。
『第一項。婚約破棄を切り出すと死ぬ』
『第二項。人目は意味がない』
『第三項。父王も宰相も意味がない』
ひどい記録である。
もっとこう、王太子らしい公的な文書を書きたい。税制改革とか、隣国との交易とか、そういう真面目な議題に人生を使いたかった。なぜ私は朝っぱらから婚約者の刺殺傾向を分析しているのか。
「……いや、まだだ」
私はペンを握り直した。
「まだ試していない方法はある」
言い方を変える、場所を変える、時間を変える、人払いをする、護衛を増やす、直接会わない。
やれることは全部やるべきだ。ここで諦めたら、私は今後一生、花束と扇と紙切りナイフに怯えて生きることになる。それは嫌だ。王太子としての品位以前に、人として嫌だ。
私は紙の余白に次の候補を書き並べた。
『礼拝堂』
『書簡』
『逃亡』
並べた瞬間、自分でも最後の一つにかなり追い詰められた気配を感じたが、気づかなかったことにした。
***
最初に試したのは礼拝堂だった。
神の前ならどうだ。と私は思ったのだ。
いや、今なら分かる。かなり甘い発想である。だが三度刺された時点の私は、まだどこかで常識にすがっていた。人目も権威も意味がないなら、せめて神聖さくらいは仕事をしろ、と思ったのである。
私は春の祝祭準備で人の少ない午後を選び、王城内の礼拝堂へイシュレナを呼び出した。
高い天井、色ガラス越しの光、祭壇の前に落ちる静かな空気。ここで凶器は出せまい。出してはいけない。出したら神罰が下る。下ってほしい。むしろ下れ。
「殿下が礼拝堂へお誘いくださるなんて、珍しいですわね」
イシュレナは今日も完璧だった。漆黒の髪は艶やかで、白い手には小ぶりな祈祷書が握られている。いかにも信仰深い令嬢、という姿だ。
私はその祈祷書を見て少しだけ安心した。
少なくとも扇ではない。
「話がある」
「ええ」
「今日は……温室でも、舞踏会でもない」
「存じておりますわ」
その返事に、私は一瞬だけ引っかかった。だが今は気にしない。気にしたら負けだ。
私は深呼吸した。
婚約破棄、という単語は使わない。前回までとは違う言い方をする。もっと穏やかに。もっと慎重に。
「イシュレナ。私は、君との誓いを一度見直したいと思っている」
彼女の表情が静かに止まった。
「……見直す、とは」
「互いのために、少し距離を置くべきではないかという意味だ」
婚約解消とは言っていない。白紙とも言っていない。私はかなり婉曲に言った。これならまだ、取り返しがつく。たぶん。
イシュレナはしばらく黙っていた。
やがて、祭壇へ視線を向ける。
「神の前で、そうおっしゃるのですね」
「だからこそだ。軽々しくしたくない」
「まあ……」
彼女は祈祷書を胸に抱いた。
その仕草はあまりにも美しかった。事情を知らない人間が見たら、婚約者との将来を真剣に思い悩む清らかな令嬢にしか見えないだろう。
だが私は知っている。見た目に騙されると死ぬ。
「殿下」
イシュレナは、泣きそうな顔で微笑んだ。
「神の前で終わらせるおつもりなら、神の前で結び直しましょう?」
「何を――」
祈祷書が開く。
私はその中に、紙の代わりに光るものを見た。
薄い。
異様に薄い。
ページの間に挟まれていた細い刃が、そのまま音もなく滑り出してきた。
「なんで祈祷書の中から刃が出てくるんだ!?」
避けようとした。だが礼拝堂の床は磨かれすぎていて、後ろへ下がった足がわずかに滑る。その一瞬の遅れで、薄刃が脇腹を裂いた。
熱い。
というか、痛みの種類が毎回違うのをやめてほしい。花束は刺す痛みだった。扇は斬る痛みだった。これはもっと薄く、冷たく入ってくる類の最悪である。
私は祭壇の手前で膝をついた。
「イシュレナ……お前、本当に神を前にしてもその方向へ行くんだな……」
「神の前だからこそですわ」
「理屈がっ……」
分からん、と言い切る前に、二撃目が来た。
私は心の中で神に訴えた。見ているなら仕事をしてくれ。あと可能なら私だけでも今すぐ安全な場所へ移してくれ。
だが神は静かだった。
礼拝堂の天井は高く、美しかった。
見上げたまま、私は四度目の死を迎えた。
***
「殿下、お目覚めの時間でございます」
私は寝台の上で天井を見つめた。
「神も意味がないのか……」
「はい?」
「なんでもない」
起き上がる気力が少し湧かなかった。
私は机へ向かい、紙へ書き足す。
『第四項。神聖な場所も意味がない』
少し考えて、訂正した。
『第四項。神も意味がない』
どうせなら正確に残した方がいい。
私は頬杖をついたまま、次の手を考えた。
直接会うからだめなのではないか。
対面して気配を読まれるから、抜刀されるのではないか。
ならば会わなければいい。
書簡だ。
王太子らしく、冷静で、理性的で、丁寧な文面で距離を置きたいと伝える。情ではなく文書で処理する。私はこういうやり方を本来もっと早く思いつくべきだった。温室で二人きりなど、最初から事故の予感しかしないだろう。
私はその日一日を極力イシュレナと接触せずに過ごし、夜、自室へ籠もって書簡をしたためた。
『イシュレナへ、感情的な対立を避けるため、まずは書面で伝える。私は今後の関係について、一度距離と時間を置いて考えたい。これは君を軽んじるものではなく、互いの将来のために必要な判断だと考えている――』
完璧だ。
婚約破棄とも解消とも書いていない。距離と時間を置く、としか表現していない。王太子の文としても無難だ。これなら死なない。死んだらもう本当にどうしようもない。
私は侍従に命じ、信頼できる使いの者へ託した。
返事が届いたのは翌日の昼だった。
やたら早い。
嫌な速さだ。
「イシュレナ様より、お返事です」
封蝋の押された白い封筒だった。香りまで上品で、見た目はどこまでも美しい。中身が凶器でなければ、の話だが。
私は机に向かい、万全を期した。
まず扉の外に近衛を立たせる。窓も閉める。封筒から顔を遠ざける。万が一に備え、紙切りナイフでそっと切る。
「……よし」
完璧だ。
私は慎重に封を切った。
次の瞬間、封の折り込み部分から細い金属片が跳ねた。
「なっ――」
避けた。避けたが、完全ではない。
咄嗟に顔を引いたせいで刃筋がずれ、喉の正面ではなく首筋を浅く――いや、浅くはない、普通に深く裂いた。
熱いものが噴き出す。
私は椅子ごと倒れた。
扉の外で近衛が叫ぶ。
だが遅い。毎回遅い。近衛という職業には、私の婚約問題に対して極端に相性が悪い欠陥がある気がする。
私は床に転がったまま、震える手で便箋を開いた。
そこには整った字で、こう書かれていた。
『お返事は早い方が誠意かと思いましたの。殿下のお気持ちは、よく伝わっておりますわ。ですから、これ以上遠くへ行かれないよう、わたくしも誠意を尽くします』
誠意の方向が怖い。
「書簡でも……だめか……」
私は血に濡れた便箋を握った。
そのとき、一つだけ妙なことに気づいた。
『これ以上遠くへ行かれないよう』
その言葉が、ただの比喩に思えなかった。
いや、考えすぎかもしれない。考えすぎであってほしい。だがイシュレナの返答は、回を重ねるごとに少しずつ変わっている気がした。温室でも舞踏会でも協議室でも、同じようでいて、違う。
まるで私のやり方に合わせて、向こうも言葉を変えてきているみたいだ。
そこまで考えたところで、視界が暗くなった。
私は五度目の死を迎えた。
***
「殿下、お目覚めの時間でございます」
「書簡も意味がない」
「は?」
「……なんでもない」
私はもう説明を諦めた。
机に向かい、淡々と書き足す。
『第五項。直接会わなくても死ぬ』
そしてペン先を止める。
ここまで来ると、いよいよ追い詰められてきた。
神もだめ、書簡もだめ、人目も権威もだめ。では、残るは何だ。
逃亡である。
私はしばらくその二文字を見つめた。
王太子が婚約者から逃げる。情けない。非常に情けない。だが命は大事だ。品位は生きていてこそ守れる。
今回は誰にも告げない。
婚約の話も出さない。
ただ黙って王都を離れ、隣国へ向かう。その後、父王を通じて正式な手続きを進めればいい。直接「捨てる」と伝えなければ、あの異常な反応も起きないかもしれない。
そう考えた時点で、私はもうだいぶ普通の婚約者相手ではない前提で動いていた。
夜明け前、私は簡素な旅装に着替え、最低限の護衛だけを連れて裏門から出た。
馬車は軽いものを選び、街道を急がせる。王都の城壁が遠ざかる。朝霧の向こうに平原が開ける。
生きている。
まだ刺されていない。
「いけるかもしれん……」
私は馬車の中で初めて心からそう思った。
直接は言っていない。
紙にもしていない。
イシュレナとも会っていない。
これなら――
「殿下」
外から、女の声がした。
私は凍った。
聞き間違えるはずがない。
御者が慌てて手綱を引く。馬がいななき、馬車が止まる。
私は恐る恐る窓の外を見た。
街道の真ん中に、もう一台の馬車が停まっていた。
その前に立つ女は、旅装だった。
濃い色の外套。風に揺れる漆黒の髪。手袋をした白い手。見慣れた紫水晶の瞳。
イシュレナ・ヴェルクレシアである。
なんでいる。
どうしている。
しかも旅装でも完璧なのが腹立たしい。
「イシュレナ!?」
「まあ」
彼女は目を潤ませた。
「駆け落ちかと思いましたのに」
「違う!」
「そうでしょうね」
即答だった。
彼女は静かに近づいてくる。私は慌てて馬車から降りた。ここで閉じこもっていても意味がない。馬車ごと刺されかねない。
「待て、落ち着いて話そう」
「殿下が一人で遠くへ行かれるからですわ」
「だから話を――」
「本当に」
イシュレナは泣きそうな顔で笑った。
「毎回、毎回、わたくしに何も言わずに結論だけお出しになるのですね」
私は息を止めた。
毎回。
今、毎回と言ったか。
旅の途中で見つけ出されたこと以上に、その一言の方が不気味だった。
「……今、何と」
「え?」
イシュレナは首をかしげる。
いつもの完璧な令嬢の顔だ。だが次の瞬間には、袖の内側から短剣が滑り出していた。
旅装の袖にまで仕込むのか。
収納力が国宝級である。
「いや、待て、そこを詳しく――」
「殿下」
彼女は本当に悲しそうだった。
「遠くへ行かれるくらいなら、わたくしもご一緒いたしますわ」
「それは普通、同行の申し出であって刺殺予告ではない!」
「でも殿下は、お一人で行くおつもりでしょう?」
「今のところはそうだが!」
「でしたら」
短剣が閃いた。
「難しいですわね」
私は護衛の方へ飛びのこうとした。だが護衛たちもまた、毎度のことながらイシュレナの初動についていけていない。君たちはもう少し頑張れ。
刺された。
今度は脇腹ではなく、真横から肋の下へ滑り込むような一撃だった。
私は街道の土に膝をついた。
痛い。もう本当にやめてほしい。婚約者との問題解決に必要な痛覚の総量をとっくに超えている。
「イシュレナ……お前、今、毎回って……」
彼女は一瞬だけ目を見開いた。
それは、ごくわずかな揺らぎだった。
だが確かに、初めて見る顔だった。
「……気のせいですわ、殿下」
次の一撃が来る。
私はそこで理解した。
少なくとも一つだけ、はっきりしたことがある。
婚約破棄という単語が危険なのではない。
書簡が危険なのでもない。
礼拝堂が危険なのでもない。
私が、イシュレナを捨てると決めた瞬間。
その意思が固まった瞬間。
たぶん、それで終わるのだ。
「……冗談じゃないぞ」
誰に言ったのか分からないまま、私は六度目の死を迎えた。
***
「殿下、お目覚めの時間でございます」
私は静かに起き上がり、机へ向かった。
もう寝台の上で嘆く気力もなかった。人は六回も婚約者に刺されると、朝の支度より先に検証記録を書くようになる。
私は紙を引き寄せた。
『第四項。神も意味がない』
『第五項。直接会わなくても死ぬ』
『第六項。逃げても死ぬ』
そこまで書いて、しばらくペンを止める。
そして最後に、一行だけ付け足した。
『仮説。婚約破棄という言葉ではなく、私が彼女を捨てる意思そのものが引き金ではないか』
書いてから、寒気がした。
もしこれが正しいなら、かなり終わっている。
対策の立てようがない。意思を持つだけで刺される婚約問題など、どう解決しろというのか。
しかも、もう一つ引っかかることがあった。
イシュレナの反応が、毎回少しずつ違う。
泣き方も、言葉も、刺す前の間も。
まるでこちらの選択に合わせて、向こうもどこかで調整しているみたいに。
「……まさか、な」
私は一人で呟いた。
そんなはずはない。
私だけが戻っているはずだ。
向こうまで何かを覚えているなら、もう勝ち目が見えない。
「殿下、その……本日は朝からたいへん険しいお顔ですが」
侍従が恐る恐る聞いてくる。
私は遠い目をした。
「婚約に必要な心構えを学んでいる」
「左様でございますか……」
「まったく学びたくない分野だがな」
私は紙を折りたたみ、胸元へしまった。
まだ終わりではない。
終わってほしいが、終わりではない。
次は別の方向から考えるしかない。
婚約破棄という発想そのものが危険なら、もうやり方の問題では済まない。
私は深く息を吐いた。
春の朝は今日も穏やかだった。
その穏やかさが、今ではかなり信用ならない。
少なくとも一つだけ確かなのは、私の婚約生活がもはや後戻りのできない領域に入っているということだった。




