第2話「舞踏会で別れ話をすると扇が凶器になる」
私はその朝、人生で初めて本気で「体調不良を理由に温室を欠席したい」と思った。
だが、欠席したところで何が分かる。
あれが夢なら、温室へ行っても何も起きないはずだ。
あれが夢でなければ、行かなかった場合にどうなるかを確かめる必要がある。
つまり、どちらにせよ逃げ場はない。
「……王太子って、もっと優雅に生きるものではなかったか」
着替えを手伝う侍従が首をかしげた。
「何かおっしゃいましたか」
「いや、王家の歴史に『婚約者が怖くて朝から震えた王太子』という記述はあるのかと思ってな」
「は?」
「ないなら私が初代だ」
侍従はたいへん困った顔をした。私も困っている。むしろ私の方が困っている。
ともかく温室へ向かう。
廊下の角、侍女とすれ違う。遠くで庭師が一礼する。窓の外の木の枝に白い鳥がとまっている。昨日見た景色と、ほとんど同じだ。
気味が悪い。
温室へ入る前から、胃のあたりがきりきりした。
だが、本当に恐ろしかったのはそこからだった。
「本日のお茶は、東方から取り寄せた新茶ですわ。殿下は渋みの強いものがお苦手ですから、蒸らし時間を少し短くいたしましたの」
同じだ。
まったく同じだった。
向かいに座るイシュレナは今日も完璧で、漆黒の髪は一本も乱れていない。紫水晶みたいな瞳が柔らかく細められ、薄紫のドレスが温室の花に溶け込んでいる。
美しい。
美しいが、私はもう純粋に見惚れることができなかった。
この女は昨日、花束から刃を出して私を刺し殺した。
その記憶が生々しすぎる。
「殿下?」
「……ああ。ありがとう」
私はどうにか返事をした。
指先が冷たかった。カップを持つ手に少し力が入りすぎて、受け皿がかすかに鳴る。
そして。
「し、失礼いたします。お茶のおかわりをお持ちしました」
若い侍女がポットを差し出す。
昨日と同じ侍女。昨日と同じ緊張した顔。
私は息を止めた。
「ありがとう。ゆっくりでいい、落ち着いて注いでくれ」
自分でも嫌になるほど、昨日と同じ台詞が口をついた。
その瞬間、隣で扇が閉じる音がする。
「その侍女は明日から北塔勤務に異動ですわ」
昨日と同じだった。
声音まで同じだった。
私は顔から血の気が引くのを感じた。
夢ではない。少なくとも、ただの夢ではない。
この一日は繰り返されている。
私はどうにか異動を取り消し、侍女の目線角度についての恐怖の指導を聞き流しながら、必死に考えた。
ここで昨日と同じことをしたら、私はまた死ぬ。
ならば、同じことをしなければいい。
幸い、私はもう学んでいる。
花に囲まれた二人きりの温室で婚約破棄を切り出すのは愚策だ。あまりにも愚策だ。昨日の私はどうかしていた。
この日はそれ以上何もしなかった。
イシュレナが少し不思議そうな顔をしたが、私は「執務が立て込んでいる」と言って早めに切り上げた。私室に戻ると、夜には予想通りあの革張りの手帳が机に置かれていた。
『殿下の一週間の対人発言記録』
やはり同じだ。
私は手帳を開き、そして閉じ、深く息を吐いた。
「……夢ではないな、これは」
夢ならもっと優しくしてほしい。少なくとも花束から刃はやりすぎだ。
私は机に向かって考えた。
婚約破棄を切り出したから死んだのか。
それとも、温室で二人きりだったから死んだのか。
つまり問題は、言葉か、場所か、状況か。
答えを出すには試すしかない。
だったら次は、人目の多い場所だ。
誰の目もある場で、堂々と、逃げ道をなくした状態で告げる。さすがのイシュレナでも、その場で私を刺したりは――
いや、昨日までならそう思えた。
今はその「さすが」がまったく信用できない。
それでも、温室よりはましだ。
「舞踏会だな……」
春の祝祭を前にした王城の夜会。貴族も多い。楽団もいる。壁際には近衛騎士も立つ。あれだけ人の目があれば、流血沙汰はさすがに起こせないはずだ。
起こせない、と思いたい。
私は眠れぬまま夜を越え、次の朝を待った。
***
そして翌朝。
「殿下、お目覚めの時間でございます」
私はすぐに起き上がった。
戻っていない。
昨日一日を穏便にやり過ごしたことで、時間はちゃんと進んだ。
ということは、やはり条件はある。
婚約破棄を切り出さなければ少なくとも即死はしない。
よし、少し光が見えてきた。
「今日は夜会だったな」
「はい。春の祝祭前の舞踏会にございます」
私は鏡の前で自分を見た。
顔色は悪いが、王太子としては見られなくもない。たぶん。きっと。おそらく。
とにかく私は戦場へ向かう兵のような気持ちで礼装を身につけた。
夜会は華やかだった。
大広間には燭台の光が満ち、磨かれた床に貴族たちの姿が映る。笑い声、グラスの触れ合う音、楽団の旋律、香水と花の匂い。いかにも王城の舞踏会という光景だ。
私はその中心に立ちながら、一つだけ確信していた。
ここで別れ話をする王太子は、たぶん歴代でも私くらいである。
正気ではない。
だがこちらには事情がある。正気より生存だ。
「殿下、今宵も麗しいお姿で」
令嬢が一礼する。
「ありがとう」
私が短く返すと、背後にいたイシュレナが静かに微笑んだ。
「殿下、本日はずいぶん簡素なお返事ですのね」
「気のせいだ」
「そうでしょうか。普段ならもう少し柔らかなお声をくださるのに」
怖い。
この女、王太子の挨拶の温度差まで測っている。
私は笑顔を保ったまま、心の中で泣いた。
やがて音楽がひと区切りつき、人の流れが少し緩んだ。
今だ。
私はイシュレナを広間の中央近く、人目が十分にある場所へ連れ出した。
「イシュレナ、話がある」
彼女は目を瞬かせたあと、上品に首を傾げた。
「まあ、こんなに人目のある場所で?」
「だからだ」
「……だから?」
「いや、なんでもない」
危ない。口が滑った。
私は周囲に目を走らせた。近い位置に貴婦人たち、少し離れて近衛、柱の向こうには父上の側近までいる。よし、完璧だ。
ここで刃物など出せるものか。
私は覚悟を決めた。
「イシュレナ、婚約の件だが――」
彼女の表情が止まった。
「私は、これを白紙に戻したいと思っている」
沈黙が落ちた。
近くにいた貴婦人が息を呑むのが聞こえた。
遠くで誰かがグラスを落とした。楽団の音も少し揺らぐ。
そりゃそうだ。舞踏会の真ん中で婚約破棄宣言など前代未聞である。
だが私は気にしない。今は私の命がかかっている。
イシュレナは数秒、私を見つめた。
やがて睫毛を伏せ、悲しげに微笑んだ。
「……そうですか」
その声音はとても静かで、かえって背筋が冷えた。
「ええ、分かりましたわ」
あっさり引いた。
私は目を見開いた。
分かった?
え、本当に?
こんなに簡単に?
喜びかけたその瞬間、イシュレナは両手で扇を持ち、優雅に一礼した。
「人前でお捨てになるなら」
ぱちり、と扇が開く。
私は見た。
白い扇の羽根。
その一枚一枚が、全部刃だった。
「人前で責任をお取りくださいませ」
「どういう理屈だ!?」
間に合わなかった。
イシュレナは一礼の姿勢から、そのまま滑るように距離を詰めてきた。
扇はもはや扇ではない。全力で凶器である。芸術性と殺意が見事に融合していた。こんなものを作った職人は誰だ。今すぐ王都から出頭させろ。
私は避けようとした。だが一拍遅い。
銀色の光が視界を横切り、次の瞬間、脇腹に熱が走った。
「ぐっ――」
浅く、ではない。
容赦がない。
周囲の悲鳴が上がる。近衛が駆け寄る。だが遅い。あまりにも遅い。
私はイシュレナの肩を掴もうとして、そのまま膝を折った。
彼女は泣いていた。
なのに扇を握る手は震えていない。
「殿下が皆さまの前でおっしゃるからですわ」
「だからって、刺すな……!」
「刺しますわ」
断言された。
そんなに堂々と断言されることあるか。
婚約者からの返答として最悪である。
私は床に崩れ落ちながら、最後の力で思った。
人目、多くても関係ないなこれ。
***
「殿下、お目覚めの時間でございます」
私は起き上がるなり叫んだ。
「扇の羽が全部刃って何だ!」
侍従が固まった。
「は?」
「いや違う、今のは忘れろ」
私は額を押さえた。
戻った。
また同じ朝だ。
舞踏会前の朝ではない。
温室のお茶会の日の朝に戻っている。
つまり、死ねば必ずここへ巻き戻るらしい。
これはもう悪夢では済まない。夢にしては扇の構造が具体的すぎる。
「……殿下?」
「なんでもない。今日は誰とも会いたくない気分だっただけだ」
「本日は温室にて――」
「分かっている!」
侍従がまた肩を揺らした。すまん。私も今のでだいぶ揺れている。
私は寝台から降りると、その場を行ったり来たりした。
人目があっても刺される。
では権威はどうだ。
父王の前ならどうだろう。いや、あの舞踏会を見たあとでは「父の前だから安全」と言い切るのはかなり危険だ。だが、少なくとも試す価値はある。
国王と宰相、さらに記録係まで同席させる。
公式な場で婚約解消の話を出す。
その場で凶行に及べば、いかに公爵令嬢でも後には引けない。
そこまで思って、私は自分で気づいた。
「……待て。私は何を冷静に検証しているんだ」
婚約破棄をしたいだけのはずが、なぜ命を賭けた実験記録を取り始めているのか。
王太子教育にこんな科目はなかった。
だが、背に腹は代えられない。
私はその日をまた無難に過ごし、温室では決して二人きりにならず、夜の手帳も確認したうえで、翌日に父王への取り次ぎを求めた。
***
玉座の間ではなく、内々の協議室が使われた。
父王レオポルド陛下は重厚な椅子に座り、宰相がその脇に控えている。記録係もいる。窓は高く、机は長い。ここ以上に公的な場を私は思いつかなかった。
「で、ゼルヴァルト」
父王が眉をひそめる。
「わざわざ余と宰相を呼びつけて、婚約の話とはどういうことだ」
「重要なことです」
私は硬い声で答えた。
「公爵家との縁談は重大ですが、だからこそ曖昧にしたくありません」
父王は渋い顔をした。宰相は顔色を変えない。
そして対面には、今日もまたイシュレナがいる。
美しい。
完璧だ。
そしてたぶん凶器持ちだ。
私は彼女の袖口、髪、腰、扇、靴を順に見た。
今日は扇は持っていない。よし、一つ候補が減った。
「殿下」
イシュレナが柔らかく笑う。
「先ほどからずいぶん熱心にご覧になりますのね」
「君の武装を確認している」
「はい?」
「なんでもない」
危ない。心の声が漏れてきている。
私は父王の視線を感じながら、覚悟を決めた。
「陛下、宰相。私はイシュレナとの婚約を、一度白紙に戻したいと考えています」
部屋の空気が凍った。
父王が沈黙し、宰相の片眉がわずかに上がる。記録係の羽根ペンが止まった。
イシュレナだけが静かだった。
「理由を聞こう」
父王が低く言う。
私は一瞬だけ迷い、そして答えた。
「性格の不一致です」
父王が絶句した。
宰相が咳払いで笑いを誤魔化した。記録係はペン先を紙に突き立てた。
だがこれ以上どう言えというのか『私以外への供給過多が懸念されます』と週報に書いてくる婚約者です、とは口が裂けても説明できない。
イシュレナはしばらく黙っていた。
やがて、ふっと微笑む。
「……そうですか」
だめだ。
その静かな声は、毎回ろくなことにならない。
「では」
彼女は上品に両手を机の上へ重ねた。
「証人が多い方が都合がよろしいですわね」
「何の都合だ?」
「愛の証明の、ですわ」
やはり理屈が分からない。
私は椅子を引いて立ち上がろうとした。
だが、そのときにはもう遅かった。
イシュレナの手元には、いつの間にか一本の細い紙切りナイフがあった。
いや、待て。
あった、ではない。
さっきまで机の上にあった書類束の間から抜いたのだ。あまりにも自然に。あまりにも優雅に。
父王が声を上げる。
「イシュレナ嬢!?」
宰相が立ち上がる。
記録係が椅子ごと後ろへ倒れる。
だが一番早かったのは、やはりイシュレナだった。
「殿下」
彼女は哀しそうに微笑んだ。
「お捨てになるなら、せめて皆さまの記憶に残る形で」
「その方向の記憶は要らん!」
叫んだときには、もう胸元へ冷たいものが迫っていた。
避けた。
今度は避けた。
だが完全ではない。刃が肩口を裂き、そのままもつれた椅子に足を取られて倒れる。
近衛を呼ぶ声。父王の怒声。
宰相が机を蹴って回り込む。
なのにイシュレナは、まるで舞踏の続きみたいに静かに私へ歩み寄ってきた。
「待て、イシュレナ、話し合おう!」
「今まさに話し合っておりますわ」
「その手のナイフを置いてから言え!」
「それは難しいお願いです」
そして次の瞬間、私は父王の目前で見事に刺された。
王太子としてどうかと思う最期だった。
いや、最期ではないのだろうが。
もうそこまで来ると笑うしかなかった。
父上、すみません。
婚約者選びは、もっと慎重にするべきでした。
***
「殿下、お目覚めの時間でございます」
私は静かに目を開けた。
もう驚かなかった。
驚く元気が尽きていた。
「……何回でも戻るのか」
「はい?」
「なんでもない」
私は起き上がり、机へ向かった。
紙を一枚引き寄せ、ペンを取る。
侍従が不思議そうに見ているが、気にしない。
私は震える指で書きつけた。
『第一項。婚約破棄を切り出すと死ぬ』
次の行に書く。
『第二項。人目は意味がない』
さらに書く。
『第三項。父王も宰相も意味がない』
そこで私はペンを止めた。
意味がない。
人目も、権威も、常識も、婚約者の前では全部意味がない。
この世にそんなことがあってたまるかと思うが、現に私は三度死んだ。花束と扇と紙切りナイフで死んだ王太子など、たぶん建国以来私だけだ。
「殿下、その……何を書いていらっしゃるのですか」
侍従が恐る恐る聞く。
私は遠い目をした。
「婚約生活に必要な知識だ」
「はあ……」
「次はもっと別の方法を考える」
「何の話でしょうか」
「こちらが聞きたい」
私は紙を見下ろした。
まだ試していない方法はいくつもある。
礼拝堂、書簡、逃亡、言い回しの変更、護衛の増員、人払いの徹底。そもそも婚約破棄という単語を使わない方法。
だが一つだけはっきりしていることがある。
私の婚約者は、予想以上に本気だ。
そして私は、予想以上に追い詰められている。
「……冗談ではないぞ、本当に」
私は頭を抱えた。
だが泣いている場合ではない。
次は生き残らなければならない。
この朝が何度続こうとも、いつかは刺されずに済む道を見つけるしかないのだ。
たぶん。
おそらく。
見つかると信じたい。
そう思いながらも、私は心の底でうすうす気づいていた。
この婚約破棄、想像していたよりずっと難易度が高い。




