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第1話「婚約者がちょっとどころではなく重い」

 人は本気で恐怖すると、紅茶の味が消える。


 それを知ったのは、春の温室だった。


「本日のお茶は、東方から取り寄せた新茶ですわ。殿下は渋みの強いものがお苦手ですから、蒸らし時間を少し短くいたしましたの」


 向かいに座る婚約者――公爵令嬢イシュレナ・ヴェルクレシアは、完璧な笑みでそう言った。


 完璧である。


 恐ろしいほど完璧だ。


 漆黒の髪は一本も乱れず、紫水晶みたいな瞳は柔らかく細められ、薄紫のドレスは春の花々より上品に温室へなじんでいる。姿勢に隙がない。仕草に無駄がない。言葉遣いは美しい。笑顔も美しい。 社交界の連中は口を揃えて言う。


 未来の王妃にふさわしい令嬢だ、と。


 私――王太子ゼルヴァルト・アーディンも、少し前まではそう思っていた。


「ありがとう、イシュレナ」


 私はカップを持ち上げた。


「確かに飲みやすい」


「殿下のお役に立てるなら、わたくしはそれだけで」


 うっとりと頬を染める。


 ここだけ見れば、どこに出しても恥ずかしくない理想の婚約者である。


 ここだけ見れば。


「し、失礼いたします。お茶のおかわりをお持ちしました」


 若い侍女が緊張した様子でポットを差し出してきた。どうやら配属されて日が浅いらしい。手元が少し震えている。


 私はなんとなく笑って言った。


「ありがとう。ゆっくりでいい、落ち着いて注いでくれ」


 その瞬間、隣で扇が閉じる音がした。


 ぱたり、と。


 やけに静かな音だった。


「その侍女は明日から北塔勤務に異動ですわ」


 私は紅茶を気管に入れかけた。


「なぜだ!?」


 侍女の手が止まった。顔面から血の気が引いている。私も引いている。なんなら温室の花まで引いていた。花弁が少し閉じた気がした。


 イシュレナはにこやかに続ける。


「殿下のお言葉を、必要以上に喜ばしく受け取っておりましたので」


「私は今、労いの言葉をかけただけだが!?」


「十分ですわ」


「十分じゃない!」


 侍女は泣きそうな顔で私を見た。やめろ。その視線はやめろ。私が君の人生を左右できるみたいな顔をするな。そう見えるのは分かるが今の私はだいぶ無力だ。


「異動は取り消しだ」


「殿下がそうお望みなら」


 イシュレナはあっさり引いた。


 ほっとしたのも束の間、彼女は侍女へ優しく微笑みかけた。


「ですが殿下へお茶をお注ぎする際の目線は、もう少し慎まれた方がよろしくてよ。角度が二度ほど熱烈でしたので」


 侍女はついに泣いた。


 私は思った。


 あ、これだめだな。


 かなりだめだ。


 お茶は本当に美味しかった。だが味は一切しなかった。



 ***



 思い返せば、おかしい場面はいくつもあった。


 三日前、私は廊下でぶつかりそうになった女官へ「怪我はないか」と声をかけただけだ。翌日には城内通路の人員配置表が改訂されていた。


 五日前、夜会で遠縁の伯爵令嬢に二十秒ほど世間話をしただけだ。翌朝にはその令嬢の趣味、交友関係、最近読んだ本、子どもの頃に飼っていた犬の名前までまとめられた報告書が執務机に載っていた。


 九日前、私は庭園で昼寝していた白猫を撫でた。するとイシュレナは真顔でこう言った。


「その猫が雌でないことは確認済みですわ」


 確認するな。


 どの工程を経てその結論に至ったのかも説明するな。


 必要がない。あまりにも必要がない。


 だが私は、王太子としての器量をもって、ここまで大人の対応を貫いてきた。


 嫉妬深いのだろう。愛情が強いのだろう。少々極端だが、婚約者として私を大事に思ってくれているのは確かだ。そう考えようとしていた。


 今日までは。


 その夜、私室に戻るまでは。


「……なんだこれは」


 机の上に見慣れない革張りの手帳が置かれていた。


 嫌な予感しかしないが、見なかったことにできるほど私は勇敢ではない。恐る恐る開く。


 一ページ目に、整った字でこう書かれていた。


『殿下の一週間の対人発言記録』


 閉じた。


 いや待て、見間違いだ。きっと違う。もっとこう、税の記録とか、献上品の一覧とか、そういう公的なやつだ。王太子の机にある以上そうあるべきだ。


 私は祈るような気持ちで再び開いた。


 やはり書いてあった。


 一日目『ご苦労』

 二日目『よく似合っている』

 三日目『体調はどうだ』

 四日目『急がずに運べ』

 五日目『ありがとう』


 誰に言ったか、どの場面で言ったか、そのときの私の声色はどうだったか、相手の反応はどうだったかまでびっしり記録されている。


 巻末に総評まであった。


『今週、殿下は侍女・女官・厨房係・老庭師・猫に対して広くお優しい。誠に美徳ではございますが、わたくし以外への供給過多が懸念されます。来週はわたくしへの比率改善を希望いたします』


 怖い。


 供給ってなんだ。


 愛情を小麦粉みたいに言うな。


 しかも猫が含まれている。猫を脅威認定する婚約者と結婚して本当に大丈夫なのか。


 私は寝台に倒れ込んだ。


 天井を見つめる。


 王太子ゼルヴァルト・アーディン、十八歳。剣術は得意。政治もそこそこ。座学も嫌いではない。臣下からの信頼も、おそらく平均以上はある。未来の国王として恥ずかしくないよう育てられてきたつもりだ。


 だが、婚約者の愛情管理週報が机に置かれる未来は想定していなかった。


「……婚約破棄しよう」


 口から本音がこぼれた。


 静かな部屋に、自分の声だけが落ちる。


「いや、するべきだ。そうだ。これはするべきだろう」


 私は半身を起こし、真剣に考えた。


 イシュレナは美しいし、聡明だ。気も利く。公務能力も高い。王妃としては申し分ない。だが、方向性がおかしい。何かが根本からおかしい。しかもおかしい本人はそれにまったく気づいていない。


 このまま結婚したらどうなる。


 私は老庭師へ「庭が見事だな」と褒めた翌日、庭園管理者が総入れ替えになる未来を見た。


 私は晩餐の席で女官へ「今日は忙しかっただろう」と労った翌日、城内人事が再編される未来を見た。


 私は子犬を撫でただけで、その犬の血統書が調査される未来まで見えた。


 無理だ。


 耐えられない。


 私の精神が先に折れる。


「よし」


 私は立ち上がった。


「穏便にいこう。丁寧に話せば分かってくれるはずだ。イシュレナは理性的だ。少し重いだけで、話し合いができないわけではない」


 このときの私は、あまりにも希望に満ちていた。



 ***



 翌日。


 私はイシュレナを温室へ呼び出した。


 最初の出会いがそうだったように、花に囲まれた場所なら空気も和らぐと思ったのだ。人払いもした。護衛も離した。二人だけだ。真剣な話をするにはちょうどいい。


 春の光がガラス越しに差し込み、温室の花々を柔らかく照らしている。


 イシュレナはやって来るなり、首をかしげた。


「殿下からこのようにお呼び立ていただけるなんて、珍しいですわね」


「大事な話がある」


「まあ」


 彼女は嬉しそうに目を細めた。


「それは、わたくしに関することで?」


「そうだ」


 ますます嬉しそうになった。今から婚約破棄を告げられる女の顔ではない。だがまあ、当然か。まさか自分が別れ話をされるとは思っていないのだろう。


 私は深呼吸した。


 落ち着け。王太子らしく、丁寧に、誠実に。


「イシュレナ。君は素晴らしい女性だ」


「はい」


「家柄、教養、才覚、どれを取っても申し分ない」


「はい」


「だが――」


「はい」


「婚約について、考え直したい」


 言った。


 ついに言った。


 言ってしまった。


 温室の空気が、そこで止まった気がした。


 イシュレナは数秒、何も言わなかった。笑顔も消えていない。ただ、目の奥の光だけがすっと冷えた。


「……それは」


 声は穏やかだった。


「婚約を、解消したいという意味ですの?」


「そうだ」


 逃げるな、言い切れ。私は自分を励ましながら頷いた。


「君を侮辱したいわけじゃない。だが、このままでは互いのためにならないと思う。少し距離を置いて――」


「まあ」


 イシュレナは口元へ手を当てた。


 傷ついたようにも見えた。泣きそうにも見えた。私は罪悪感に胸を刺された。いや、実際にはまだ刺されていない。ここ重要である。


「殿下」


 イシュレナは小さく微笑んだ。


「最後に、一つだけお願いしてもよろしいですか」


「……何だ」


「近くで、お顔を見せてくださいませ」


 それくらいなら、と思った。


 最後だ。別れの場なのだから、そのくらいは。


 私は一歩近づいた。


 イシュレナは花束を抱えていた。白い花と薄紫の花を中心にした、上品な小ぶりの花束だ。温室に来る前から持っていたのだろうか。気づかなかった。


「殿下」


 彼女はうっとりと微笑んだ。


「お別れになるくらいなら、いっそここで永遠になりましょう?」


「……は?」


 次の瞬間、花束の中心から細身の刃が現れた。


 意味が分からなかった。


 花束だったはずだ。


 どうして花の中から短剣が出てくる。


 しかもイシュレナの動きは信じられないほど滑らかだった。優雅さを保ったまま、ためらいもなく、そのまま私の腹へ刃を差し込んだ。


「いっ――」


 熱い。


 いや、熱いというより、焼けた鉄を内臓に押し込まれたみたいだった。


 息が詰まる。声にならない。足から力が抜ける。


 私は信じられない思いでイシュレナを見た。


 彼女は泣いていた。


 泣いているのに、笑っていた。


「これで、もう誰にも渡しませんわ」


 温室の床が近づいてくる。


 花の匂いがした。土の匂いもした。赤い何かが自分の服を濡らしていくのが見えた。


 私はそこでようやく理解した。


 あ、これ死ぬな。


 婚約破棄って、こんな命がけだったのか。


 もっと早く知りたかった。



 ***



「殿下、お目覚めの時間でございます」


 私は跳ね起きた。


「はっ!?」


 明るい朝だった。


 見慣れた天蓋。見慣れた寝台。見慣れた侍従。腹は痛くない。血も出ていない。温室でもない。


 私は反射的に自分の腹を触った。傷はない。服も寝間着のままだ。


「……生きてる?」


「はい?」


 侍従が不審そうな顔をした。


 私はしばらく口を開けたまま固まり、やがて無理やり喉を鳴らした。


「い、いや……なんでもない」


 声が少し掠れていた。


 夢だ。


 まずそう思った。


 妙に生々しい夢だったが、そうとしか考えられない。花の匂いも、腹を裂かれる痛みも、床へ倒れる感覚も、あまりにも鮮明だったが、それでも現実に花束から短剣が出てくる婚約者などいてたまるか。


「本日は温室にて、イシュレナ様とのお茶会の予定がございます」


 その瞬間、背筋が冷えた。


「……温室?」


「はい」


 侍従はきょとんとしている。


「春の祝祭の三日前ですので、例年通りのお茶会かと」


 私は黙った。


 春の祝祭の三日前。


 温室。


 お茶会。


 昨日と、同じだ。


「……今日、何日だ」


 侍従は怪訝そうにしながらも日付を告げた。


 やはり同じだった。


 私はゆっくりと視線を巡らせた。机の上にはまだ何もない。あの革張りの手帳も置かれていない。だが、このあと温室へ行けば、侍女がお茶を注ぎ、イシュレナが笑って、今日という日がまた同じように進んでいく気がした。


 私は寝台の縁を強く掴んだ。


 夢のはずだ。


 だが、そう片づけるには腹の奥がざわつきすぎている。


 あの場で聞いた声を覚えている。


 あのとき見た顔を覚えている。


 あの刃が沈んでくる感触まで、はっきり残っている。


「……まさか」


 口の中が乾いた。


 嫌な考えが、じわじわと形を持ち始める。


 夢ではなく、本当に一度死んだのだとしたら。


 そして何かの間違いで、同じ朝に戻ってきたのだとしたら。


 私は青ざめた顔のまま、もう一度腹を押さえた。


 傷はない。


 なのに、思い出しただけで鈍い痛みが蘇る気がした。


「殿下?」


「なんでもない!」


 思ったより強い声が出た。侍従が肩を揺らす。


 私は額を押さえ、無理やり息を整えた。


「……落ち着け、まだ決まったわけじゃない。たまたま同じ予定なだけかもしれん。あれは悪い夢で、私は少し寝ぼけているだけかもしれない」


 そうだ。まずは確かめるべきだ。


 本当に昨日と同じことが起きるのか。


 本当にイシュレナがあの顔をするのか。


 本当に私は、婚約破棄しようとして刺し殺されたのか。


 窓の外では、穏やかな春の日差しが庭を照らしていた。


 あまりにも平和だった。


 だが、その穏やかさがかえって不気味だった。


 もし本当に同じ一日が繰り返されているのなら、その先には昨日の続きが待っていることになる。


 つまり私は、下手をすればもう一度あれを味わう。


「……冗談じゃないぞ」


 誰に向けたのか分からない呟きが漏れた。


 侍従は何も答えない。


 私は拳を握り、乾いた唇を舐めた。


 とにかく、確かめるしかない。


 夢か、現実か。


 錯乱か、死に戻りか。


 答えはきっと、このあと温室で分かる。


 そう思った瞬間、腹の底がひやりと冷えた。


 私の婚約生活は、どうやら思っていたよりずっと危険かもしれない。


 そしてこの朝が、簡単には終わってくれない気がした。


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