第8話:孤独な城と小さな綻び
カイ・フォン・アークライト公爵に助けられてから、三日が過ぎた。 窓の外では依然として、灰色の空から絶え間なく雪が降り注ぎ、激しい風が獣のような唸り声を上げ続けている。宿場町の主人が言っていた通り、一度冬が始まれば、この土地は外界から完全に閉ざされてしまうらしかった。
私の体力は、温かい部屋と栄養のある食事のおかげで、日に日に回復していった。公爵は、言葉通り毎日三度、食事を私の部屋まで運んできてくれた。その度に交わす言葉はごく僅かだ。「目が覚めたか」「食え」「何かあればこれを鳴らせ」と、壁にかけられた小さな鐘を指さすだけ。その態度は終始ぶっきらぼうで、氷の瞳は決して感情を映さない。
それでも、彼の行動には奇妙な優しさが滲んでいた。 食事はいつも熱いものが用意されていたし、暖炉の薪が尽きそうになると、いつの間にか新しいものが補充されていた。私が着るための簡素な部屋着も、数着用意してくれた。しかし、彼は決して私に触れようとはしなかったし、必要以上に近づくこともしなかった。まるで、私という存在が彼の領域を侵すことを、極度に恐れているかのようだった。
体力が戻ると、一日中部屋に閉じこもっているのも苦痛になってきた。吹雪が止む気配はない。いつまでここに厄介になるか分からない以上、少しでも何か手伝いをしなければ、という気持ちが募る。
ある日の昼食後、私は意を決して、盆を下げに来た公爵に声をかけた。 「あの、公爵様。おかげさまで、体はもうすっかり良くなりました。何か、私にお手伝いできることはありませんでしょうか。掃除でも、洗濯でも、何でもいたします」 私の申し出に、公爵はぴたりと動きを止めた。彼はゆっくりと振り返ると、その氷の瞳で私をじっと見つめた。値踏みするような、探るような視線。
「…不要だ」 やがて、彼は短くそう言い放った。 「お前は客人だ。吹雪が止むまで、大人しくしていればいい」 「ですが、ここまでお世話になっておいて、何もしないわけにはまいりません。せめて、自分の食事の準備くらいは…」 「厨房に立つことは許さん」 私の言葉を、彼はきっぱりと遮った。その声には、有無を言わせぬ強い響きがあった。 「この屋敷には、お前が立ち入って良い場所と、そうでない場所がある。勝手な行動は慎め」
それは、優しさからくる言葉ではなかった。明確な拒絶だった。お前をこの屋敷の人間として認めるつもりはない、という強い意志表示。 私はそれ以上何も言えず、黙って引き下がるしかなかった。彼は無言で盆を受け取ると、足早に部屋を去っていった。
一人残された部屋で、私は深いため息をついた。 彼の孤独の壁は、私が思っている以上に厚く、高いのかもしれない。
それでも、じっとしていることはできなかった。 翌日、私は公爵が言った「立ち入って良い場所」の範囲を探るように、そっと部屋を出てみた。幸い、扉に鍵はかかっていなかった。私の部屋に続く長い廊下と、その先にある小さな図書室、そして窓から中庭を眺めることができる談話室までは、特に咎められることなく歩き回ることができた。
公爵の城は、外から見た印象よりもずっと広大だった。しかし、その広さに反比例するように、人の気配がほとんどない。時折、遠くで使用人らしき人影を見かけることもあったが、彼らは私に気づくと、まるで幽霊でも見たかのように、慌てて姿を隠してしまう。そして、誰もが公爵と同じように、どこか怯え、疲弊したような空気をまとっていた。
城のあちこちが、傷んでいた。 図書室の本は、背表紙が破れていたり、ページが外れかけていたりするものが多かった。談話室の豪奢な絨毯は、端が擦り切れてほつれている。壁にかけられた絵画の額縁には、細かな傷が無数についていた。
どれも、致命的な破損ではない。だが、そうした小さな綻びが、この城全体を覆う寂れた雰囲気を作り出しているようだった。まるで、城そのものが、主である公爵と同じように、深い孤独と諦めに蝕まれているかのようだった。
きっと、この城の物を【修復】すれば、少しは空気が変わるかもしれない。 そんな考えが頭をよぎったが、公爵の許可なく勝手なことをして、また彼の機嫌を損ねるわけにはいかなかった。私は見て見ぬふりをして、自分の部屋へと戻った。
その日の夕食も、いつも通り公爵が運んできてくれた。 彼は盆をテーブルに置くと、すぐに部屋を出て行こうとする。その背中に、私は再び声をかけた。
「公爵様、毎日お食事を運んでいただき、本当にありがとうございます」 彼は足を止め、わずかに振り返った。 「…礼は不要だと言っている」 「ですが、感謝の気持ちを表したいのです。私は何もお返しできるものがありません。せめて、言葉だけでも…」
私の真剣な眼差しに、彼は少しだけ戸惑ったような表情を見せた。ほんの一瞬、氷の瞳が揺らいだように見えたのは、気のせいだろうか。 「…好きにしろ」 彼はそれだけを吐き捨てると、今度こそ部屋を出て行った。
一人になった私は、テーブルの上の食事に目を落とした。黒パンと、野菜の煮込み、そして水差し。それらを乗せている木製の盆の縁が、小さく欠けているのが目に入った。昨日、図書室で見つけた本の傷と同じ、小さな綻び。
感謝の気持ちの、代わり。 私はそっと盆に手を伸ばし、指先でその欠けた部分に触れた。温かい光が、私の指先から盆へと流れ込んでいく。
【修復】。
心の中で唱えると、欠けていた木片が元の場所に戻るかのように、縁の線が滑らかになった。ほんの数秒で、盆はまるで新品のように、完璧な姿を取り戻した。
これで少しは、私の気持ちが伝わるだろうか。 自己満足かもしれない。けれど、何もしないよりはずっといい。私はささやかな満足感を胸に、その日の食事を終えた。
その夜のことだった。 私は、部屋の外から聞こえてくる、かすかな話し声で目を覚ました。ドアに耳を寄せると、それは公爵と、年老いた使用人らしき男性の声だった。
「カイ様、本当にあのような素性の知れぬ娘を、いつまでも屋敷に置いておかれるのですか」 老人の声には、心配と非難の色が混じっている。おそらく、この城の執事か何かだろう。 「…吹雪が止むまでだ、ゼバス。彼女は遭難者だ。見殺しにはできん」 公爵の声は、いつもと同じように平坦だった。 「しかし、万が一、あの娘がカイ様の呪いに触れるようなことがあれば…!」 「俺が近づかなければいいだけの話だ。それに、彼女は俺の呪いを見ても、悲鳴を上げもしなければ、逃げ出しもしなかった。…少し、変わっている」
少しだけ、彼の声に普段はない響きが混じった気がした。
「それより、この盆のことだが」 公爵は話題を変えた。 「今日の夕食で使ったものだ。縁が欠けていたはずだが、いつ直した?」 「は…?盆、でございますか?いえ、誰も修理など…」 「そうか。…そうか」
公爵は、何かを噛みしめるように、そう呟いた。 「…分かった。もういい、下がれ」
足音が遠ざかり、廊下は再び静寂に包まれた。 私はベッドに戻り、毛布を頭まで引き被った。心臓が、少しだけ速く脈打っている。
彼は、気づいたのだ。私が盆を直したことに。 そして、恐らく、昼間に私が「何か手伝いたい」と言ったことと、この不思議な出来事を結びつけて考えているに違いない。
明日、彼は私に何かを尋ねてくるだろうか。 それとも、得体の知れない女として、今度こそ追い出されてしまうのだろうか。
不安と、ほんの少しの期待。 その二つの感情を胸に抱きながら、私は再び訪れた眠りの淵へと、ゆっくりと沈んでいった。




