第7話:呪われた公爵と氷の瞳
意識がゆっくりと浮上してくる。 最初に感じたのは、温もりだった。凍てつくような寒さではなく、柔らかな毛布に包まれた、心地よい温かさ。そして、ぱちぱちと薪がはぜる微かな音。
重い瞼をゆっくりと持ち上げると、視界に飛び込んできたのは、見慣れない木の天井だった。慌てて身を起こそうとしたが、疲労しきった体は鉛のように重く、思うように動かない。
自分がベッドの上に寝かされていることに気づき、周囲を見回した。 そこは、豪華ではないが、清潔で手入れの行き届いた部屋だった。石造りの暖炉では静かに炎が揺らめき、部屋全体を暖めている。私が寝かされているベッドも、簡素な木製だが、シーツはきちんと洗濯されていて、陽の光のような匂いがした。
窓の外は、依然として白一色の吹雪が荒れ狂っているようだった。ゴウゴウと風が唸る音が、厚い壁越しにかすかに聞こえてくる。
私は、助かったのだ。あの雪の中で、誰かに。 最後に見た、黒い人影を思い出す。あれは幻ではなかったのだ。
自分の体を見下ろして、はっとした。着ていたはずの薄汚れたドレスはどこにもなく、代わりに洗いざらしの簡素な寝間着を着せられていた。ベッドの脇にある椅子には、私のものだったドレスと外套が、綺麗に洗濯され、丁寧に畳まれて置かれている。泥と雪にまみれていたはずなのに、まるで新品のようだ。
一体誰が、こんなことをしてくれたのだろう。 警戒心が頭をもたげる。ここはどこで、私を助けてくれたのはどんな人物なのだろうか。
その時、部屋の扉が静かに開かれ、一人の男性が入ってきた。 私は思わず息を呑んだ。 雪の中で見た、あの黒い人影だった。
男性は、私よりもいくつか年上に見えた。驚くほど整った顔立ちをしている。彫刻家が丹精込めて作り上げたかのような、完璧な造形。色素の薄い銀色の髪は、暖炉の光を反射してきらきらと輝いている。そして、何よりも印象的だったのは、その瞳の色だった。まるで極北の氷をそのまま嵌め込んだかのような、澄み切った青い瞳。しかし、その瞳には何の感情も浮かんでおらず、ただ氷のように冷たく、全てを突き放すような光を宿していた。
彼は、私が目を覚ましていることに気づくと、わずかに眉を動かした。 「…目が覚めたか」
その声は、見た目の印象と同じく、低く、温度を感じさせない声だった。
「あ…あの…あなたが、私を助けてくださったのですか…?」 「他に誰がいる」 男はぶっきらぼうに答えると、手に持っていた盆を部屋のテーブルに置いた。湯気の立つスープの椀と、黒パンが一切れ乗っている。
「礼はいい。それより、お前は何者だ。なぜ、あんな場所にいた」 問い詰めるような、鋭い視線が私に突き刺さる。その威圧感に、私は少しだけ身を縮こまらせた。
「旅の者です。道に迷い、吹雪に遭って…」 身の上を正直に話すべきか一瞬迷ったが、追放された元貴族令嬢だと明かして、面倒なことになるのは避けたかった。今はただ、当たり障りのない答えを返すしかない。
男は私の答えを聞いても、表情を一切変えなかった。信じているのか、疑っているのか、その氷の瞳からは何も読み取ることができない。 「旅人だと?こんな吹雪の季節に、一人でこの土地を旅する馬鹿がいるとは思えんがな」 「…申し訳、ありません」 反論することもできず、私はただ謝罪の言葉を口にした。
男はふん、と鼻を鳴らすと、テーブルに置いた盆を示した。 「食えるうちに食っておけ。体力も戻らん」 そう言われて、私は自分がひどい空腹だったことを思い出した。スープの香ばしい匂いが、私の胃を刺激する。
ベッドから降りようとすると、男はそれを手で制した。いや、正確には、手をこちらに向けただけで、私に触れようとはしなかった。 「動くな。まだ衰弱している」 彼はそう言うと、自ら盆を持ち、ベッドのそばまで運んできた。そして、サイドテーブルにそれを置く。その一連の動作の中で、彼が頑なに私との接触を避け、一定の距離を保っていることに気づいた。
そして、私は見てしまった。 スープの椀を置くために差し出された彼の手。黒い手袋に覆われていたが、袖口から覗く手首から腕にかけて、禍々しい文様が浮かび上がっているのを。それはまるで黒い茨が皮膚に絡みついたかのような、不吉で、見る者に生理的な嫌悪感を抱かせる模様だった。
さらに、彼の右の目元にも、同じような文様が痣のように広がっている。整った顔立ちの中で、その部分だけが異質で、彼の美しさを歪めていた。
これがあの噂の…。呪い。 宿場町の酒場で聞いた話が、脳裏をよぎる。触れる者すべてを蝕むという、アークライト公爵の呪い。 目の前にいるこの人物こそ、この呪われた土地の領主、カイ・フォン・アークライト公爵その人なのだ。
私が彼の腕の紋様を凝視していることに気づいたのか、公爵は苛立たしげに腕を引くと、素早く袖で隠した。 「…ジロジロと見るな。気味が悪いだろう」 その声には、棘のある響きの中に、諦めにも似た深い悲しみが滲んでいるように聞こえた。
「い、いえ…!申し訳ありません、そのようなつもりでは…」 慌てて弁解するが、彼はもう私の方を見ようとはしなかった。 「吹雪が止むまで、ここにいろ。それ以上は許さん。天候が回復次第、さっさと出ていけ」 それだけを一方的に告げると、彼は私に背を向け、部屋を出て行こうとした。
その広い背中が、あまりにも孤独に見えて、私は思わず声をかけていた。 「あのっ!」 公爵の足が止まる。彼は振り返らないまま、何だ、と低い声で応えた。
「…ありがとうございました。助けて、いただき…」 「礼は不要だと言ったはずだ」 彼は私の言葉を遮ると、今度こそためらうことなく部屋を出て行った。残されたのは、扉が閉まる無機質な音と、暖炉の薪がはぜる音だけだった。
私は一人、ベッドの上で呆然としていた。 彼がカイ・フォン・アークライト公爵。 噂通りの恐ろしい呪いをその身に受け、そして、噂とは違う、深い孤独の影を宿した人。 彼のあの氷のような瞳の奥には、一体どれほどの絶望が渦巻いているのだろうか。
役立たずと罵られ、全てを奪われた私。 呪われ、誰にも触れることができずに、この極寒の地で一人きりでいる彼。
見捨てられた者同士、どこか通じるものがあるのかもしれない。そんな考えが、ふと頭をよぎった。
冷めないうちに、と私はサイドテーブルのスープに手を伸ばした。温かいスープが、冷え切った体にじんわりと染み渡っていく。それは、追放されてから口にした、どの食べ物よりも優しく、温かい味がした。




