第6話:北への道と呪われた大地
アークライト公爵領を目指すと決めてから、私の旅は一層過酷なものになった。 街道は北へ進むにつれて整備が行き届かなくなり、轍の深い泥道や、岩がちな山道へと姿を変えていった。すれ違う旅人の数も日に日に減っていき、時には丸一日、誰の姿も見ないこともあった。
季節は秋から冬へと移ろいでいた。南の地方ではまだ暖かな日差しが残っていても、北へ向かう風は肌を刺すように冷たい。私が着ているのは、王都を追われた時の薄汚れたドレスと、道中の村で親切な老婆から譲ってもらった、継ぎ接ぎだらけの古い外套だけ。夜の寒さは、骨の芯まで凍えさせるようだった。
【修復】スキルで日々の糧を得る生活も、北へ来るほどに難しくなっていった。南の温暖な土地の人々は比較的おおらかで、見知らぬ私にも親切にしてくれることが多かったが、北の厳しい環境で暮らす人々は、よそ者に対して強い警戒心を抱いていた。私がスキルを使おうとしても、「得体の知れない魔法使いではないか」と疑われ、教会に通報されそうになったことさえあった。
追放されてから、もう三月ほどが経とうとしている。父から与えられた金貨は、とうの昔に底をついていた。今はただ、【修復】の対価として得たわずかな食料を切り詰めながら、ひたすらに歩くだけの日々。体は痩せ細り、肌は荒れ、かつての伯爵令嬢の面影はどこにも残っていなかった。
それでも、私は歩みを止めなかった。 私にはもう、帰る場所も、他に目指すべき場所もないのだ。呪われた土地と噂されるアークライト公爵領だけが、私の唯一の希望だった。
「嬢ちゃん、本気でアークライト領へ行くのかい?」
国境に最も近い最後の宿場町で、宿の主人が心配そうに声をかけてきた。この町で数日休み、旅の最後の準備を整えていたのだ。
「あそこは、神に見捨てられた土地だ。冬になれば吹雪で道は閉ざされ、飢えた魔物がうろつき始める。一度足を踏み入れたら、春まで二度と戻ってはこれんよ」 「忠告、ありがとうございます。でも、行かなければならないんです」
私の固い決意を見て、主人はそれ以上何も言わず、ただ哀れむような目で溜息をついた。 町の誰もが、私のことを正気を失った旅人だと思っているようだった。酒場では、アークライト公爵領の不吉な噂話で持ちきりだった。作物は育たず、人々は常に飢えている。そして、領主である若き公爵自身が、触れる者すべてを蝕むという恐ろしい呪いにかかっているのだ、と。
噂を聞くたびに、胸の奥で小さな痛みが走る。 呪われた公爵。その響きは、役立たずと罵られ、国を追われた私の境遇と、どこか重なるように思えた。
十分な休息と、なけなしの金で買えるだけの食料を鞄に詰め、私は町を出た。数時間も歩くと、道は完全に途絶え、ただ荒涼とした原野が広がるばかりとなった。
そしてついに、私はその場所にたどり着いた。 道の傍らに、風雨に晒された古びた石碑が、傾きながらもかろうじて立っている。そこに刻まれているのは、アークライト家の紋章である、盾と氷の結晶を組み合わせた意匠。ここが、呪われた公爵領の入り口だった。
門も、柵も、番兵の姿もない。ただ、この石碑を越えた瞬間から、空気ががらりと変わったのを感じた。風はさらに冷たく、鋭くなり、生命の匂いがしない。木々は枯れ枝を空に向けて突き出し、地面には痩せた苔が張り付いているだけ。まるで、世界の色彩が一段階失われてしまったかのような、モノクロームの景色が広がっていた。
ここが、アークライト公爵領。 私はごくりと唾を飲み込み、覚悟を決めてその一歩を踏み出した。
領内に入ってから、最初の数日はまだ穏やかだった。天気は曇りがちだったが、雪が降ることはなく、私は方角だけを頼りに、人の住む集落を探して歩き続けた。しかし、どこまで進んでも、人の気配はなかった。時折、遠くで獣のような不気味な鳴き声が聞こえるだけで、大地は死んだように静まり返っていた。
そして、歩き始めて五日目のことだった。 朝からどんよりと垂れ込めていた灰色の雲が、午後になるとさらに分厚く、黒に近い色へと変わっていった。風が唸りを上げ始め、乾いた雪がぱらぱらと舞い始める。それはすぐに、視界を奪うほどの猛烈な吹雪へと変わった。
「…っ!」
白い闇が、あっという間に四方を覆い尽くす。一メートル先すら見通せず、自分がどちらへ向かっているのかも分からなくなった。体感温度が急激に下がり、外套一枚ではもはや何の役にも立たない。風がドレスの隙間から入り込み、容赦なく体温を奪っていく。
まずい、このままでは凍え死んでしまう。 どこか、風を避けられる場所は。岩陰でも、洞穴でもいい。必死に周囲を探すが、見渡す限り、ただ平坦な雪原が続いているだけだった。
足の感覚が、徐々になくなっていく。手足の指先はとっくに凍えて、自分のものとは思えないほど冷たい。疲労と寒さで、思考がまとまらなくなってきた。
どうして、こんな場所に来てしまったのだろう。 王都の暖かい暖炉の前で、熱い紅茶を飲んでいた頃のことが、まるで遠い夢のように思い出される。あの頃は、蔑まれてはいても、少なくとも飢えや寒さに苦しむことはなかった。
ああ、私はここで死ぬのだ。 誰にも知られず、誰にも看取られず、この冷たい雪の下に埋もれて、静かに消えていくのだ。
膝から、力が抜けた。 雪の中に、ずるずると倒れ込む。冷たいはずの雪が、なぜか少しだけ温かく感じられた。もう、何も考えたくなかった。このまま、眠ってしまえたら、どんなに楽だろうか。
瞼が、鉛のように重くなってくる。 薄れゆく意識の中で、私は故郷の空を思った。アルフォンス殿下の冷たい瞳、リリアンナの偽りの涙、そして私を見捨てた両親の顔。彼らは今頃、私のことなどすっかり忘れ、暖かい部屋で笑い合っているのだろうか。
悔しい、という感情すら、もう湧いてこなかった。 ただ、虚しかった。私の人生は、一体何だったのだろう。
意識が、闇の底へと沈みかけていく。 その、最後の瞬間。
ザクッ、ザクッ…
吹雪の音に混じって、何か重いものが雪を踏みしめる音が、すぐ近くで聞こえた気がした。 気のせいだろうか。こんな場所に、人がいるはずがない。幻聴かもしれない。
それでも、音は確かにこちらへ近づいてくる。 私は残された最後の力を振り絞り、重い瞼をわずかに持ち上げた。
白い吹雪の中に、黒い人影がぼんやりと浮かんでいる。 背の高い、屈強な体つき。風に煽られて、黒いマントが大きく翻っている。
その人影は、私の目の前で足を止めた。そして、私を、じっと見下ろしている。 逆光と吹雪のせいで、顔はよく見えない。 けれど、その姿からは、尋常ではない威圧感と、そして、深い孤独の気配が感じられた。
ああ、誰か、いる。 その事実に安堵したのか、それとも、ついに限界が来たのか。 私の視界は急速に暗転し、そこで完全に意識は途絶えた。




