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第5話:見知らぬ道と最初の価値

王都の門が背後で閉ざされてから、私はただひたすらに歩き続けた。 どこへ向かうという当てもない。ただ、私を拒絶したあの街から、一歩でも遠くへ離れたいという一心だけが、凍てついた足を前へ前へと動かしていた。


最初の数日間は、まるで悪夢の中にいるようだった。 父が投げ与えた数枚の金貨が、革袋の中で重く感じられる。これは最後の情けなどではない。私とヴァインベルク家との縁を断ち切るための、手切れ金だ。そう思うと、この金に手を付けることすら躊躇われた。


日中はまだ良かった。陽の光がいくらかの温もりを与えてくれるし、時折すれ違う商人や旅人の存在が、自分がこの世界にたった一人きりではないという、僅かな安堵感を与えてくれた。しかし、問題は夜だった。


貴族の令嬢として、不自由なく生きてきた私にとって、野宿という行為は想像を絶するものだった。日が落ちると、森の木々が不気味な影を作り出し、獣の遠吠えや名も知らぬ虫の音が、容赦なく私の不安を掻き立てる。薄汚れたドレス一枚では夜の冷気は防ぎきれず、私はただ身を固くして、震えながら朝が来るのを待つことしかできなかった。


空腹と渇きが、容赦なく体力を奪っていく。三日目の昼過ぎ、私はついに耐えきれなくなり、街道沿いの小さな村に立ち寄ることにした。みすぼらしい身なりではあったが、それでも元貴族令嬢の着るドレスは、村の人々の好奇の目を引くには十分だった。ひそひそと交わされる囁き声と、値踏みするような視線に耐えながら、私は一軒のパン屋の軒先に立った。


「あの…パンを一つ、いただけますか」 革袋から銅貨を一枚取り出し、差し出す。店主の男は、私の顔と身なりをじろじろと見比べると、あからさまに軽蔑したような笑みを浮かべた。 「へっ、嬢ちゃんみたいなのが一人で旅かい?家出でもしてきたのか?」 男は私が差し出した銅貨を受け取ると、棚の隅にあった、少し硬くなったパンを無造作に放り投げた。本来の値段よりも明らかに高い銅貨を受け取っておきながら、釣り銭を返す気配はない。


悔しかったが、言い返す気力もなかった。私は黙ってパンを受け取り、その場を足早に去った。村はずれの木陰に座り込み、硬いパンをかじる。パサパサで味気なかったが、それでも空っぽの胃には染み渡るように感じられた。


ぽろり、と一筋の涙が頬を伝い、パンの上に落ちた。 これが、今の私の現実なのだ。名前も身分も失い、ただ侮蔑されるだけの存在。これから先、ずっとこんな風に生きていかなければならないのだろうか。


そんな絶望的な日々が、一週間ほど続いた頃だった。 その日、私はとある村の入り口で、立ち往生している一台の荷馬車を見つけた。車輪の一つが派手に壊れており、軸から外れかけている。荷台には野菜が山積みにされており、持ち主であろう初老の農夫が、途方に暮れた顔で壊れた車輪を見下ろしていた。


「なんてこった…これじゃあ街まで野菜を運べねえ。腐っちまう…」


農夫の呟きが、風に乗って私の耳に届く。周囲には誰もおらず、助けを呼ぶこともできないようだった。 私は、その壊れた車輪をじっと見つめた。深く刻まれた亀裂、歪んだ木材。それは、私がずっと見慣れてきた「壊れたもの」の姿だった。


私のスキルは【修復】。 役立たずと罵られ、国を追われる原因となった力。 けれど、今、目の前で困っている人がいる。この人の荷馬車を、もし私が直せたら…。


気づけば、私は農夫に声をかけていた。 「あの…もしよろしければ、私がその車輪を直しましょうか?」 農夫は怪訝そうな顔で、私を見上げた。薄汚れたドレスを着た、若い女。そんな人間に何ができるというのだ、という不信感が顔に書いてある。


「嬢ちゃんに何ができるってんだ。大工でもねえのに」 「お代はいただきません。その代わり、もし直せたら、少しだけ食料を分けていただけませんか」


私の必死の申し出に、農夫はしばらく考え込んでいたが、やがて諦めたように溜息をついた。「どうせもうダメ元だ。好きにしてみるがいい」


許可を得た私は、壊れた車輪の前にしゃがみ込んだ。そして、そっと両手をかざす。指先から、自分にしか感じられない、淡く温かい光が放たれる。


【修復】。


心の中で静かに唱える。 すると、私の手のひらの下で、信じられない光景が繰り広げられた。 バキバキに割れていた木材の亀裂が、まるで傷が癒えるかのように、するすると塞がっていく。歪んでいた車輪の縁が、元の綺麗な円形を取り戻し、ささくれ立っていた表面は滑らかになっていく。


ほんの数十秒の出来事だった。 私が手を離した時、そこには新品同様に生まれ変わった車輪があった。


「な…なな…!」


農夫は、自分の目を疑うように、何度も車輪と私の顔を見比べた。そして、恐る恐る車輪に触れ、力強く揺さぶってみる。それはびくともせず、荷馬車の重みをしっかりと支えていた。


「…ま、魔法か…?いや、こんな奇跡、神様のおぼしめしだ…!」


農夫は感動のあまりその場に膝をつき、私に向かって手を合わせた。 「ありがとうございます、聖女様!いや、女神様!あなた様のおかげで、わしの生活は救われましただ!」


聖女。その言葉に、胸がちくりと痛んだ。 「いいえ、私はそんな者ではありません。ただ、少しだけ、物を直すのが得意なだけです」 そう言って微笑むと、農夫は慌てて立ち上がり、荷台からたくさんの野菜や果物、そして干し肉の塊を取り出して、私の腕に抱えさせてくれた。


「こんなものじゃお礼にもなりませんが、どうか受け取ってくだせえ!」


腕に抱えた食料のずっしりとした重みが、じんわりと心に温かかった。 これが、私の力が初めて誰かの役に立ち、正当な対価として得たものだった。役立たずと罵られたこの力で、人を助けることができた。感謝の言葉を、もらうことができた。


その夜、私は久しぶりに火をおこし、農夫にもらった干し肉を炙って食べた。満腹になった体も、満たされた心も、温かかった。


この力は、無価値なんかじゃない。 アルフォンス殿下は不要だと言ったけれど、少なくとも、今ここで私の命を繋いでくれている。


その日から、私の旅は少しだけ変わった。 村や町に立ち寄るたびに、私は壊れたものを探した。農具、家具、子供のおもちゃ。どんな些細なものでも、私が【修復】すると、人々は驚き、そして心から喜んでくれた。私はその対価として、食事や寝床を提供してもらい、少しずつ北へと向かって歩き続けた。


そんなある日のこと。寂れた宿場町の酒場で、旅人たちの噂話を耳にした。


「聞いたか?北の果て、アークライト公爵領の話だ」 「ああ、あの呪われた土地か。一年中雪に閉ざされて、魔物がうろつくっていうじゃねえか」 「そこの領主様も、魔物に呪われてるって話だぜ。誰も近づきたがらねえ、見捨てられた土地さ」


呪われた土地。呪われた公爵。 その言葉が、なぜか私の心に引っかかった。


見捨てられた場所。 それは、今の私と同じではないか。 誰も寄り付かないような場所ならば、私のような追放者が流れ着いても、気にする者はいないかもしれない。私の過去を知る者も、そこにはいないだろう。


それに、もし本当にその土地が呪われているのなら。壊れた大地や、呪われた物があるのなら。 私のこの【修復】の力が、何か役に立てるかもしれない。


行き先のなかった私の旅に、初めて、一つの明確な目的地が生まれた瞬間だった。


北へ。アークライト公爵領へ。


私は決意を固め、翌朝、北へと続く道を、これまでよりも確かな足取りで歩み始めた。その先にあるのが、さらなる絶望か、それとも僅かな希望か、知る由もなかったが、それでももう、立ち止まることはできなかった。

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