第4話:婚約破棄と追放の宣告
牢獄でどれほどの時間が過ぎたのか、分からなかった。独房の天井近くにある小さな窓が、灰色から徐々に白んでいく様子を、私はただぼんやりと眺めていた。結局、一睡もできなかった。眠ろうと目を閉じても、瞼の裏に浮かぶのは、私を断罪した人々の冷たい瞳ばかりだった。
悲しみや悔しさといった感情は、とうに凍てついてしまったかのようだった。心の中は、がらんどうの洞窟のように空っぽで、冷たい風が吹き抜けていくだけ。これから自分がどうなるのか、考える気力すら湧いてこなかった。
やがて、遠くで朝を告げる鐘の音が聞こえた。それを合図にしたかのように、私の独房の前に複数の足音が近づいてくる。重い錠が外され、軋む音を立てて鉄の扉が開かれた。
「出ろ。アルフォンス殿下がお呼びだ」
衛兵の無慈悲な声に、私はゆっくりと立ち上がった。冷たい石の床で過ごしたせいで、体は芯から冷え切り、足が少しふらつく。衛兵はそんな私を気遣う素振りも見せず、腕を掴んで牢の外へと引きずり出した。
連れてこられたのは、大聖堂のような荘厳な場所ではなかった。王城の一角にある、装飾の少ない小さな謁見室。そこには、アルフォンス殿下が一人、腕を組んで窓の外を眺めて立っていた。彼の傍らには、王家の紋章が入った羊皮紙を抱えた書記官と、そして、私の父であるヴァインベルク伯爵が、石像のように微動だにせず控えている。
リリアンナの姿は、どこにもなかった。優しい彼女は、罪人である姉の最後の姿など、見るに堪えないのだろう。きっと殿下がそう配慮したに違いない。
部屋の中央まで連れてこられ、衛兵に膝を突くよう促される。私は言われるがままに、冷たい大理石の床に膝をついた。
窓の外を見ていたアルフォンス殿下が、ゆっくりとこちらに振り返った。その青い瞳は、凍てついた湖面のように静かで、何の感情も映してはいなかった。それは、もはや私を人間として見ていない者の目だった。
「エリアナ・フォン・ヴァインベルク」
彼の声は、昨日の怒声とは打って変わって、平坦で抑揚がなかった。 「昨日、陛下が下された裁定について、正式に言い渡す」
書記官が一歩前に進み、羊皮紙を広げた。そして、そこに記された内容を、感情のこもらない事務的な声で読み上げ始めた。 罪状、聖女の儀式の妨害。国宝たる祭器の破壊。そして、下される罰。ヴァインベルク家からの除名と、永久国外追放。
一つ一つの言葉が、まるで重い石のように私の心に沈んでいく。 そして最後に、書記官はこう締めくくった。
「…以上を以て、アルフォンス皇太子殿下とエリアナ・フォン・ヴァインベルクの婚約は、本日を以て正式に破棄されるものとする」
婚約破棄。 分かっていたことなのに、改めて公式に宣告されると、胸の奥でかろうじて繋ぎ止められていた何かが、音を立てて崩れ落ちた気がした。
「…聞き届けたか」 アルフォンス殿下が、私に問いかける。私は何も答えず、ただ床を見つめていた。 そんな私の態度が気に障ったのか、彼は苛立たしげに舌打ちをした。
「最後に、一つだけ言っておいてやる」
殿下は私の目の前まで歩み寄ると、その冷たい視線で私を射抜いた。
「君の役立ずな【修復】スキルなど、この国には不要だ!」
その言葉は、これまで私が浴びせられてきたどんな罵声よりも、深く、鋭く、私の魂を傷つけた。 不要だ、と。私の存在そのものが、この国にとっては何の価値もないのだと、彼はそう言い切ったのだ。
そうだ。彼が必要としていたのは、聖女という輝かしい力。ヴァインベルク家の名誉を高める存在。壊れたガラクタを直すだけの地味な力を持つ私は、最初から彼の隣に立つ資格などなかったのだ。
「連れて行け。二度と私の前にその顔を見せるな」
アルフォンス殿下はそう吐き捨てると、私に背を向けた。それが、私が婚約者として見た、彼の最後の姿だった。
衛兵に再び腕を掴まれ、立たされる。その時、今まで沈黙を守っていた父が、私の前に小さな革袋を投げた。チャリン、と軽い金属音がして、床に転がる。
「…これを持って行け。ヴァインベルク家が与える、最後の情けだ」 父は、一度も私の顔を見ようとはしなかった。 「そして、二度とヴァインベルクの名を名乗るな。お前のような娘を持ったことは、我が家の末代までの恥だ」
最後の情け。末代までの恥。 私は床に転がった革袋を、震える手で拾い上げた。中には、数枚の金貨が入っているようだった。これが、私がこの家で生まれ育った十八年間の、最後の価値。
もう、何も感じることはなかった。 ただ、分かりました、とだけ。声にならない声で呟いた。
衛兵に連れられ、私は王城を後にした。しかし、通されたのは華やかな表門ではない。人目を避けるように、裏門から出され、王都の裏路地へと押し出された。衛兵は二人、私を挟むようにして歩く。まるで、汚れたものに触れるかのように、一定の距離を保っている。
道行く人々が、私に気づいてひそひそと噂を交わすのが聞こえる。「あれが、あの…」「聖女様のお姉様だとか…」「なんて恐ろしいことを…」。好奇と侮蔑の視線が、無数の針となって全身に突き刺さる。私は誰とも目を合わせず、ただ俯いて歩き続けた。
やがて、私たちは王都の最も端にある、小さな通用門にたどり着いた。荷を運ぶ商人や、農夫くらいしか使わないような、古びた門だった。
門番が、衛兵の持つ書類を確認すると、重々しく閂を外した。 ギィィ、と耳障りな音を立てて、門がゆっくりと開かれる。その向こうには、ただ乾いた土埃の舞う、見知らぬ道がどこまでも続いていた。
「これより先へ行け。そして、二度とこの王都へ戻るな」
衛兵の一人が、私の背中を乱暴に押した。 よろめきながら、私は門の外へと一歩踏み出す。
その瞬間、背後で、重い鉄の扉が閉まる鈍い音が響き渡った。 ガチャン、という最後の錠の音が、私の過去との完全な決別を告げていた。
私は一人、見知らぬ道の上に立ち尽くした。 振り返っても、そこにあるのは冷たく閉ざされた門だけ。私を育んだ王都は、もう私を受け入れてはくれない。
持っているのは、父が投げ与えた僅かな金貨と、今着ている地味なドレスだけ。行く当ても、頼れる人もいない。あるのはただ、役立ずと罵られた、この【修復】の力だけだ。
冷たい風が吹き抜け、私の髪を揺らした。 これから、どこへ行けばいいのだろう。このまま、野垂れ死ぬしかないのだろうか。
途方もない孤独と不安が、ようやく実感となって押し寄せてくる。 私はぎゅっと唇を噛み締め、涙がこぼれ落ちそうになるのを必死に堪えた。
泣いても、何も始まらない。 今はただ、生きなくては。
私は閉ざされた門に背を向け、不確かな未来へと続く道を、覚束ない足取りで、最初の一歩を踏み出した。




