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第23話:身勝手な懇願と揺れる心

「どうか、我らが王国を、お救いください!」


騎士の悲痛な叫びが、城の広間に響き渡り、冷たい石の床に吸い込まれていくようだった。ゼバスも、兵士たちも、このあまりにも突然な、そしてあまりにも衝撃的な王都からの懇願を前に、息を詰めて立ち尽くしている。


私を「真の聖女」と呼ぶその声は、かつて私を「出来損ない」と罵った国からの、身勝手な叫びだった。 私は、あまりのことに言葉も出ず、ただその場に立ち尽くしていた。血の気が引き、指先が冷たくなっていくのを感じる。過去の絶望が、トラウマとなって蘇りそうになるのを、必死で堪えていた。


その時、私の体を支えるように、温かく大きな手がそっと肩に置かれた。 はっと顔を上げると、いつの間にか私の隣に立っていたカイ様が、私を庇うようにして騎士の前に立ちはだかっていた。その背中は、どんな攻撃も通さない強固な盾のように、私を守ってくれている。


「…それだけか」


カイ様の声は、氷のように冷たく、静かな怒りに満ちていた。 「お前たちの王は、自分たちが捨てた人間に、今さら何を求めると言うのだ」 「そ、それは…!全ては我らの過ち!ですが、民には、民には罪がございません!このままでは、王国は…!」 「黙れ」


カイ様の低い声が、騎士の言葉を遮った。その声には、領主としての絶対的な威圧感が込められており、騎士は恐怖に息を呑んで口をつぐんだ。 カイ様は、床に膝をついたままの騎士を見下ろし、ゆっくりと続けた。


「ゼバス、その者を客室へ。まずは傷の手当てと食事を与えろ。話はそれからだ」 「はっ、しかし…」 「いいから行け」 有無を言わさぬ命令に、ゼバスは慌てて兵士たちに指示を出し、半ば引きずるようにして、騎士を広間から連れ出していった。


広間には、私とカイ様の二人だけが残された。 張り詰めていた空気が、わずかに緩む。カイ様は、私に向き直ると、その青い瞳に深い憂慮の色を浮かべた。 「…大丈夫か、エリアナ。顔色が悪い」 「…はい。少し、驚いただけです」


彼は、先ほど騎士から受け取った、アルフォンス殿下の親書を無言で私に差し出した。王家の紋章が入った封蝋は、まだ解かれていない。 「…見るか?」 彼の問いかけに、私は小さく首を横に振った。あの男からの手紙など、見たくもなかった。 「カイ様が、読んでください。私には、その資格も、義務もありませんから」


私の答えを聞くと、カイ様は静かに頷き、親書の封を切った。そして、中にあった羊皮紙を広げ、その内容に目を通し始めた。 最初は冷静だった彼の表情が、読み進めるうちに、徐々に険しくなっていく。やがて、その眉間には深い皺が刻まれ、その手は羊皮紙を握り潰さんばかりに、強くこわばっていった。


読み終えた彼は、ふぅ、と長い息を吐いた。それは、怒りを必死に抑え込もうとする者の息遣いだった。


「…何と?」 私は恐る恐る尋ねた。 「…ふざけている」 彼は、吐き捨てるように言った。 「アルフォンスの言葉だ。『エリアナ、君の力が必要だ』と。これまでの非礼は水に流す、国を救ってくれた暁には、聖女リリアンナに代わり、君を正式に王妃として迎える準備がある、とな」


王妃。その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中で何かが切れる音がした。 怒りよりも先に、こみ上げてきたのは、途方もない虚しさと、侮辱されたことへの冷たい憤りだった。


「…まだ、そんなことを…」 あの男は、何も分かっていない。私という人間を見ていない。あの時も、今も、彼が見ているのは私の「力」だけ。国にとって「役立つ」か「役立たない」か、ただそれだけ。壊れた道具を捨てるように私を追放し、今度は別の道具リリアンナが壊れたからと、捨てた道具を再び拾いに来た。それだけの話なのだ。


「カイ様…私、行きません」 私の声は、自分でも驚くほど冷たく、静かに響いた。 「あの国がどうなろうと、私には関係ありません。私を捨てた人たちが、今さら助けてと泣きついてきても、知ったことではありません。私の居場所は、ここです。あなたの隣だけです」


きっぱりと言い放つ私を見て、カイ様は少しだけ驚いたような顔をしたが、すぐにその表情は深い安堵へと変わった。 「…そうか。それが、お前の答えだな」 彼は、私の手を優しく握りしめた。 「分かった。それでいい。それがいい。お前は、お前の幸せだけを考えていればいい。他の誰かのために、お前が傷つく必要など、もうないんだ」


彼の温かい言葉に、涙が滲みそうになる。 そうだ、私はもう、誰かの顔色を窺って生きる必要はないのだ。


カイ様は、握り潰しかけていた親書をテーブルに叩きつけると、決然と言い放った。 「あの騎士には、丁重にお引き取り願おう。アークライトは、王国の内政には干渉しない。エリアナは、俺の婚約者であり、この土地の聖女だ。どこへもやるつもりはない、と」


その力強い宣言に、私はこくりと頷いた。 これで、全て終わる。過去との、忌まわしい縁は、完全に断ち切られるのだ。


私たちは、再び手を取り合い、このアークライトの未来について、明るい話をしようとした。 だが、その時だった。


私の心の奥深くで、あの騎士が語っていた言葉が、不意に蘇ってきた。


『民には、罪がございません!』 『赤い死病…数日のうちに血を吐いて死に至る…』


私の脳裏に、王都の街並みが浮かんだ。華やかな貴族街ではなく、私が時折、侍女と共にお忍びで訪れたことのある、下町の風景。パン屋の陽気な主人。花を売る老婆。広場で無邪気に駆け回る子供たち。彼らは、私を蔑んだりしなかった。彼らは、ただ懸命に、日々の生活を送っていただけの人々だ。


その人たちが今、リリアンナの起こした災厄によって、赤い死病に苦しみ、血を吐いて死んでいっている。 私を虐げたアルフォンス殿下や、両親のことは憎い。リリアンナの愚かさには呆れ果てる。けれど、あの子供たちの笑顔まで、見捨ててしまっていいのだろうか。


私が黙り込んだことに気づき、カイ様が心配そうに私の顔を覗き込んだ。 「…エリアナ?どうした」 「…いえ…ただ…」


私は、自分の心の揺らぎを、彼に正直に打ち明けた。 「私を捨てた人たちは、どうなってもいいと思っています。でも…王都には、何も罪のない人たちも、たくさんいるはずです。その人たちが、苦しんで死んでいくのを…私、知ってしまったのに、見過ごしてもいいのでしょうか…」


私の言葉に、カイ様は難しい顔で押し黙った。 彼は領主だ。私の感情論だけでは動かない。彼が守るべきは、アークライトの民。私を危険な王都へ行かせることなど、到底認められるはずがない。


やがて、彼は重い口を開いた。 「…エリアナ。お前の優しさは、最大の美徳だ。だが、今はそれが命取りになりかねん」 彼は執務室の窓辺に立ち、南の空を見つめた。 「…領主として、冷静に判断しよう。仮に、王都を見捨てた場合。王国は崩壊し、赤い死病は歯止めなく広がるだろう。いずれ、その瘴気は国境を越え、ここアークライトにも届くかもしれん。それに、難民となった者たちが、この地に大挙して押し寄せる可能性もある」


彼の分析は、私の甘い感傷とは違う、冷徹な現実だった。 王国の崩壊は、もはや対岸の火事ではないのだ。


「…では、どうすれば…」 「お前を行かせるわけにはいかない。絶対にだ。だが、このまま放置することもできん」 カイ様は、深く思い悩むように、眉間を揉んだ。


私は、そんな彼の苦悩する姿を見て、心を決めた。 私はもう、守られるだけのか弱い令嬢ではない。このアークライトの未来を共に築くと誓った、彼のパートナーなのだから。


私は、彼の前に進み出た。 「カイ様。私、行きます」 「何を言う!許可できん!」 「一人で行くとは言いません」 私は、彼の目を真っ直ぐに見つめ返した。 「カイ様。あなたが、私と一緒に行ってくださるなら。そして、アルクスも、私たちを守るために」


私の突拍子もない提案に、カイ様は目を見開いた。 「…正気か?俺と、ゴーレムと共に、王都へ乗り込むと?」 「そうです。アルフォンス殿下の要請に応えるためではありません。王国の民を救うため…そして何より、私たちの居場所である、このアークライトを、未来の脅威から守るために、です」


私の瞳に、迷いや恐怖の色がないことを悟ったカイ様は、しばらくの間、私をじっと見つめていた。 やがて、彼は諦めたように、しかしどこか誇らしげに、ふっと息を吐いた。


「…お前は、俺が思っていた以上に、肝が据わっているらしい。…いや、アークライトの女主に、ふさわしい覚悟だ」 彼は、私の肩に、その大きな手を置いた。 「…分かった。行こう、エリアナ。お前と、アルクスと、俺とで」


彼の言葉は、私の決意を、確固たるものへと変えてくれた。 私たちは、見つめ合った。これから向かう先が、どれほどの困難に満ちているか、想像もつかない。


けれど、二人一緒なら、きっと乗り越えられる。 私を捨てた国へ、私は今、全てを奪うためではなく、全てを救うために、戻るのだ。

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