第22話:南からの凶報と聖女の代償
カイ様のプロポーズを受けたあの夜、南の空に立ち上った不吉な赤い光は、夜明けと共に跡形もなく消え去っていた。しかし、その禍々しい残像は、私とカイ様の心に重い影を落としていた。
翌朝から、城は静かな緊張感に包まれた。カイ様は領主として、直ちに国境付近の警備を強化し、情報収集のために最も腕の立つ斥候を数名、南へと派遣した。彼の指示は冷静沈着で、少しの乱れもなかったが、その横顔には常に厳しい警戒の色が浮かんでいる。
私の日常は、表面的には変わらなかった。蘇らせた種籾を村々へと分配する計画の指揮をとり、アルクスと共に新たな農地の開拓を手伝う。領民たちは、私とカイ様の婚約を心から祝福してくれ、その温かい笑顔に触れるたび、私の心は幸せで満たされた。
けれど、ふとした瞬間に、あの赤い光景が脳裏をよぎる。私が捨てた故郷で、一体何が起きているのだろう。もう関係のないことだと頭では分かっていても、かつて暮らした街並みや、憎んでいながらも血の繋がった家族の顔が、心の隅をかすめては消えていった。
そんな私の不安を、カイ様はいつも静かに見守ってくれていた。 夜、執務室で二人きりになると、彼は何も言わずに私の手を握り、その温もりを伝えてくれる。言葉にしなくても、彼が「大丈夫だ、俺がいる」と語りかけてくれているのが分かった。その存在が、どれほど私の心を支えてくれていたことか。
赤い光が現れてから、三日が過ぎた日の午後だった。 私は、アルクスと共に城壁の補修を手伝っていた。長い年月の間に風雨に晒され、ひび割れていた石壁を、私の力で修復していたのだ。アルクスが巨大な石材を軽々と運び、私がそれを寸分の狂いもなく壁に定着させていく。私たちの連携は、もはや阿吽の呼吸だった。
その時、見張り台に立っていた兵士が、甲高い声で叫んだ。 「南の街道に、騎馬が一騎!猛スピードでこちらへ向かってきます!」
その報告に、城内がにわかに色めき立つ。 カイ様も執務室から駆けつけ、私と共に城壁の上から南の街道を見下ろした。地平線の彼方に、黒い点が一つ。それは猛烈な勢いで土煙を上げながら、確かにこの城を目指して疾走してきている。斥候にしては、様子がおかしい。まるで、何か恐ろしいものから逃げてくるかのような、鬼気迫る走りだった。
馬は、城門の手前で力尽きたかのように、大きく体勢を崩して倒れ込んだ。乗り手は地面に投げ出されたが、すぐにふらつきながらも立ち上がり、よろめきながら城門へと向かってくる。その姿は、満身創痍だった。鎧はところどころが破損し、泥と血に汚れている。
「門を開けろ!急いで保護しろ!」 カイ様の檄が飛ぶ。 私たちは急いで城壁を降り、門の内側でその男を迎えた。 兵士たちに支えられて城内に入ってきた男は、年の頃は三十代半ばくらいだろうか。王都の近衛騎士が身に着ける様式の鎧をまとっていたが、その顔は疲労と絶望で土気色になっていた。
「…水…水を…」 彼はそれだけを言うと、その場に崩れ落ちそうになった。私はすぐに侍女に水を持ってくるよう頼み、彼のそばに駆け寄った。そして、ハンカチを水で湿らせ、彼の乾ききった唇をそっと拭ってやる。
彼は、朦朧とした意識の中でゆっくりと顔を上げ、私の顔を見た。そして、次の瞬間、その瞳が信じられないものを見るかのように、大きく見開かれた。
「…あ…あなたは…エリアナ…様…?」
彼の口から自分の名前が出たことに、私は驚いた。見覚えのない顔だったが、彼が王都の騎士であるならば、私の顔を知っていても不思議ではない。 彼は、私の顔と、私の背後に立つカイ様の姿、そしてこの城の穏やかな空気を交互に見比べ、まるで最後の望みを見出したかのように、震える声で語り始めた。
「…逃げて…きたのです…王都は…もう、地獄です…」 「何があった。落ち着いて話せ」 カイ様が、彼の肩を掴んで問いかける。
騎士は、途切れ途切れに、しかし必死に、王都で起きている惨状を語り出した。 全ては、一月ほど前から始まったという。原因不明の奇病が、王都を中心に蔓延し始めたのだ。それは、罹った者の生命力を徐々に奪っていく病で、聖女リリアンナの【聖癒】の力をもってしても、治すことができなかった。それどころか、彼女が治癒を試みた者ほど、かえって衰弱が早まるという、不可解な現象が起きた。
大地は枯れ、草木は色を失い、人々は次々と倒れていく。王都は、かつてのアークライト領と同じように、呪われた土地へと変貌しつつあった。
「リリアンナ様は…聖女様は、自らの力が及ばぬことに焦り…そして、狂ってしまわれた…」 騎士の顔が、恐怖に歪む。
三日前、リリアンナは国王や側近たちの制止も聞かず、国の全てを浄化するのだと言って、古代の禁術に手を出した。王城の中央広場で、彼女は自らの生命力を極限まで燃やし、大規模な浄化魔法を発動させたのだ。 それが、私たちが目にした、あの禍々しい赤い光の柱の正体だった。
「しかし…儀式は、失敗しました。浄化の光は、瞬く間に破壊の奔流へと変わり…王城の一部を吹き飛ばし、呪いの病を、さらに強力な『赤い死病』へと変質させてしまったのです…!」
赤い死病。その病に罹った者は、肌に赤い斑点が浮かび上がり、数日のうちに血を吐いて死に至るという。そして、その体からは、周囲の大地の生命力をさらに奪う、赤い瘴気が立ち上る。 聖女が起こした奇跡は、国を救うどころか、止めどない死と破壊のスパイラルを生み出す、最悪の災厄の引き金となってしまったのだ。
「聖女の代償…」 私は、呆然と呟いた。リリアンナの力の代償は、周囲の生命力を吸い上げることだった。エリアナという、無意識のうちに大地に生命力を還元していた存在がいなくなった王国で、彼女が力を使えば使うほど、大地は痩せ、人々は衰弱していく。その負の連鎖の最終的な破綻が、この悲劇を招いたのだ。
「俺は…アルフォンス皇太子殿下より、密命を受けました…」 騎士は、最後の力を振り絞るように、懐から一つの羊皮紙を取り出した。それは、王家の紋章で封をされた、一通の親書だった。 「殿下は、全てを救える唯一の希望が、北の地にいると…追放した、エリアナ様の力だけだと…!」
彼は、その親書をカイ様に渡すと、私の足元に崩れ落ちるように膝をついた。そして、泥に汚れた額を床に擦り付け、涙ながらに懇願した。
「エリアナ様!どうか…どうか、我らが王国を、お救いください!真の聖女は、あなた様だったのです!この通りでございます!」
真の聖女。 その言葉が、私の胸に重く突き刺さった。
私を出来損ないと罵り、不要だと切り捨てた国。 その国が今、滅びの瀬戸際で、私に救いを求めている。 あまりにも、身勝手で、残酷な運命の皮肉だった。




