第21話:婚約者の朝と王国の凶兆
カイ様の腕の中で愛を誓い合ったあの丘での出来事は、まるで夢のようだった。けれど、翌朝、私の部屋の扉を控えめにノックする音で目覚めた時、それが現実だったのだと知った。
「エリアナ様、おはようございます。カイ様がお待ちでございます」
扉の外から聞こえてきたのは、侍女の明るい声だった。これまで私の世話は、基本的にゼバスを始めとする男性の使用人が主だった。しかし、今日からはカイ様の正式な婚約者として、私付きの侍女が付けられたのだ。その事実に、私の頬が少しだけ熱くなる。
身支度を整え、食堂へ向かうと、そこにはいつもと同じようにカイ様が待っていた。しかし、その眼差しは、昨日までとは明らかに違っていた。領主がパートナーに向ける信頼の眼差しではなく、愛する女性を慈しむ、熱を帯びた優しい眼差し。
「おはよう、エリアナ」 彼が私のために椅子を引いてくれる。その紳士的な振る舞いの一つ一つに、私の心臓は小さく跳ねた。 「昨日は…その、ありがとう。俺の想いを受け入れてくれて」 少しだけ照れたようにそう言う彼の姿が、たまらなく愛おしく思えた。
食事中、城の者たちが代わる代わる私たちの元へとお祝いの言葉を述べに来た。老執事のゼバスは「この日をどれほど待ち望んだことか…」と涙ぐみ、料理長は二人を祝福する特別な焼き菓子をテーブルに並べ、屈強な騎士団長までもが「公爵様を、そして我らが聖女様を、この命に代えてもお守りいたします!」と大声で宣言していく。
その温かい祝福の嵐に、私は戸惑いながらも、胸の奥からじんわりと幸せが込み上げてくるのを感じていた。王都で婚約者だった頃、アルフォンス殿下との間にこのような温かい空気は微塵もなかった。あの婚約は、ただ家と家とを結びつけるための、冷たい契約に過ぎなかったのだ。
「…カイ様。ありがとうございます」 「何がだ?」 「私を、あなたの隣に選んでくださって。皆さんが、こんなに喜んでくださって…」 私の言葉に、彼は優しく微笑んだ。 「礼を言うのは俺の方だ、エリアナ。お前が、この城に、この土地に、本当の温もりと笑顔を運んできてくれたんだからな」
その日の午後、私たちは計画通り、城の地下にある食料備蓄庫へと向かった。そこには、カイ様が言っていた通り、何年も前に収穫された古い種籾が、麻袋に入れられて山と積まれている。空気は乾燥しているが、どことなく古びて、生命の気配がしない。
「これが、今ある全ての種だ。ここ数年は、これを少しずつ粥にして、民の飢えを凌いできた」 カイ様は、麻袋の一つを手に取り、中から一握りの種籾を手のひらに乗せた。それは本来あるべき黄金色ではなく、色褪せて、少し萎びているように見える。 「普通に蒔いても、おそらく半分も芽は出んだろう」
私は、彼の隣に立つと、その手のひらにそっと自分の手を重ねた。 「大丈夫です。この子たちの力を、私が呼び覚ましますから」
私は目を閉じ、意識を集中させた。手のひらにある、一つ一つの小さな命の核に語りかける。眠っている力を呼び覚まし、大地を突き破って芽吹く、本来の強い生命力を取り戻すように。
【原状回復】。
私の手とカイ様の手が重なった場所から、柔らかな黄金色の光が溢れ出した。光はカイ様の手のひらから麻袋へと伝わり、そして、倉庫に積まれた全ての種籾へと、波紋のように広がっていく。
色褪せていた種籾が、みるみるうちに輝きを取り戻していく。一粒一粒が内側から光を放つように、ふっくらと張り詰め、生命力に満ちた力強い黄金色へと変わっていったのだ。倉庫全体が、まるで収穫期の豊かな麦畑のような、温かく香ばしい匂いに満たされる。
「…これもまた、奇跡だな」 カイ様は、自分の手のひらの上で起きた変化を、呆然と見つめていた。 「エリアナ、お前は…」
彼が何かを言いかけた時、私はふっと全身の力が抜けるのを感じ、彼の腕に寄りかかる形になった。 「す、すみません…少し、力を使いすぎたみたいです…」 「馬鹿者!」
カイ様は、珍しく強い口調で私を叱った。しかし、その声には怒りではなく、深い心配が込められている。彼は咄嗟に私を抱きかかえると、その場で軽々と横抱きにした。 「きゃっ!カイ様!?」 「お前は自分の力を過信しすぎる。少し休め。いいな、これは婚約者としての、命令だ」
有無を言わさぬ口調でそう言うと、彼は私を抱きかかえたまま、倉庫を後にしてしまった。残された兵士たちが、どうしていいか分からずに呆然と立ち尽くしている。 私の部屋まで運ばれ、ベッドにそっと降ろされる。カイ様は私の額に手を当て、熱がないことを確かめると、心底安堵したように息をついた。
「…心配、しました」 「ごめんなさい。でも、私は大丈夫です」 「大丈夫ではない。お前は自分の体を大切にすることを知らん」 彼は、まるで子供に言い聞かせるように、私の手を握った。 「俺にとって、お前は、この領地の未来そのものなんだ。お前に何かあれば、俺は…」
彼の真剣な瞳に見つめられ、私は何も言えなくなる。 大切にされる、ということ。心配される、ということ。その一つ一つが、まだ私には慣れない、くすぐったいような、それでいて心の芯まで温めてくれるような感情だった。
私がこんなに大切にされていいのだろうか。 ふと、そんな考えが頭をよぎる。王都で「不要だ」と切り捨てられた過去が、幸せに浸ろうとする心に、小さな影を落とす。
そんな私の心の揺らぎを、彼は敏感に感じ取ったようだった。 彼は私の手を、より一層強く握りしめた。 「エリアナ。お前が過去に何を経験してきたのかは知らん。だがな、お前は、この世界で誰よりも愛され、大切にされるべき人間だ。それを、絶対に忘れるな。俺が、それを証明し続ける」
彼の言葉が、私の心に残っていた最後の小さな影を、完全に溶かし去ってくれた。私は涙ぐみながら、彼の手に自分の手を重ねた。
その時だった。 遠くで、城の鐘がけたたましく鳴り響いた。それは、敵襲や火事など、緊急事態を知らせるための警鐘だった。
カイ様の表情が一瞬で険しくなる。 「何事だ!」 すぐに、一人の兵士が慌てた様子で部屋に駆け込んできた。 「公爵様!南の空に、再びあの光が…!」
私たちは顔を見合わせ、急いでバルコニーへと向かった。 南の、王都がある方角の空。そこに、前回よりもさらに大きく、そして禍々しいほどの赤い光の柱が、天を衝くように立ち上っていた。それはすぐに消えることなく、まるで空に開いた巨大な傷口のように、不吉な光を放ち続けている。
「…通信魔法ではない。あれは…大規模な攻撃魔法か、あるいは、何かよほど強力な封印が破られた時の兆候だ」 カイ様は、厳しい声で分析する。 「いずれにせよ、王都で、我々の想像を超える災厄が起きていることだけは、間違いない」
その赤い光は、捨てたはずの私の故郷が、今まさに悲鳴を上げている断末魔のように見えた。 もう関係ない。そう思おうとしても、胸がざわつくのを止められない。
カイ様は、そんな私の肩を、背後からそっと抱きしめた。 「心配するな、エリアナ。たとえ世界に何が起ころうと、俺がお前を守る。このアークライトの地が、お前の盾となる」
彼の腕の温もりと、力強い言葉が、私の不安を和らげてくれる。 私は、彼の胸に身を預けながら、ただ、不吉な赤い光が支配する南の空を、見つめ続けることしかできなかった。




