第2話:聖女降臨の儀と砕かれた水晶
翌日、王都の大聖堂は荘厳な雰囲気に満たされていた。 天高く伸びる円天井には神々の戦いが描かれ、壁一面にはめ込まれたステンドグラスが、床に色とりどりの光の絨毯を敷いている。今日は、聖女リリアンナの力を国中に知らしめるための『聖女降臨の儀』が執り行われる日だ。
私は、目立たないように末席の隅で小さくなっていた。父と母、そしてヴァインベルク家の家名を背負う者たちは、皆ずっと前方の貴族席にいる。今日の主役の家族として、誇らしげに胸を張っていることだろう。私に与えられたのは、家名も顔も隠せるような、柱の影になる席だけだった。
身にまとっているのは、手持ちのドレスの中で最も地味な濃紺のもの。妹の輝きを少しでも損なうことがないように、という父からの言いつけだ。周囲の貴族令嬢たちが着飾る宝飾品も、私には許されなかった。
やがて、聖堂の巨大な扉が静かに開かれ、陽光と共にリリアンナが入場してきた。 純白の儀式服は金の刺繍で縁取られ、ふわりと広がるスカートは何層にも重ねられた絹でできている。プラチナブロンドの髪は陽の光を反射して、まるで天使の輪のように輝いていた。彼女が歩みを進めるたびに、参列者たちから感嘆のため息が漏れる。
リリアンナの隣には、純白の軍服に身を包んだアルフォンス殿下が付き添っている。その表情は誇りと喜びに満ちており、私に向けられる冷たい眼差しとはまるで別人のようだ。二人が並ぶ姿は、まさしく物語の一場面を切り取ったかのように美しかった。
祭壇へ続く真紅の絨毯を歩むリリアンナは、一度だけ、私のいる方向へ視線を向けた。その唇が、ほんのわずかに弧を描いたのを、私は見逃さなかった。それは優しい姉に向けられる微笑みではなく、獲物を見つけた蛇のような、冷たく計算高い笑みだった。
胸が、嫌な予感でどきりと鳴る。
そういえば、昨日の夜、リリアンナが私の部屋を訪ねてきたのだ。珍しいことだった。 「お姉様、お願いがあるの」 そう言って彼女が指し示したのは、儀式で使う祭器の一つである『恵みの水晶』を収めた箱だった。 「この水晶を支える台座に、ほんの小さな傷があるのを見つけてしまって…。儀式は完璧な状態で行いたいのです。お姉様の【修復】スキルで、綺麗にしていただけないかしら?」 そう言って困ったように眉を寄せる妹を、私は疑うことができなかった。少しでも人の役に立てるのなら。そう思い、私は喜んで台座の傷を【修復】した。ほんの数ミリの、言われなければ気づかないような些細な傷だった。
「ありがとう、お姉様。これで安心して儀式に臨めるわ」 そう言って微笑んだリリアンナの顔が、今になって脳裏に蘇る。あの時の瞳の奥に宿っていたのは、本当に感謝の色だったのだろうか。
儀式は厳かに始まった。 国王陛下による祝辞の後、神官長が祭壇の中央に置かれた『恵みの水晶』について説明を始める。それは、聖女の聖なる力に共鳴し、国中に祝福の光を降り注がせるとされる古代の祭器。リリアンナの力が本物であれば、水晶は眩い黄金の光を放つはずだ。
全ての視線が、祭壇に歩み寄るリリアンナに注がれる。 彼女は祈りを捧げるように目を閉じ、そっと水晶に両手をかざした。聖堂内が水を打ったように静まり返る。
その瞬間、水晶が淡い光を放ち始めた。 「おお…!」 誰かが息を呑む声が聞こえる。光は徐々に強まり、聖堂を満たしていく。誰もが奇跡の顕現を信じて疑わなかった。
だが、その時だった。
黄金に輝くはずの光が、不意に不気味な赤色へと揺らめいた。そして、まるで命の灯火が消えるかのように、ぷつりと光が途絶えてしまったのだ。
「な…何が起こったのだ?」
参列者たちの間に動揺が広がる。リリアンナは信じられないといった表情で、自分の両手と水晶を交互に見ている。 そして、次の瞬間。
ピシッ、と。
聖堂内に、ガラスがひび割れるような乾いた音が響き渡った。 見れば、あれほど清らかだった『恵みの水晶』の表面に、蜘蛛の巣のような亀裂が走っている。亀裂は瞬く間に全体に広がり、水晶は輝きを完全に失って、ただの濁った石ころへと成り果ててしまった。
聖なる祭器が、儀式の最中に壊れた。前代未聞の事態だった。 聖堂内はパニック寸前の騒めきに包まれる。神官たちが慌てて祭壇に駆け寄り、壊れた水晶を調べている。
「そんな…どうして…」 リリアンナは、その場に崩れ落ちるように膝をついた。その美しい瞳からは大粒の涙がこぼれ落ち、か細い肩が震えている。その姿は、あまりにも可憐で、庇護欲をそそるものだった。
「リリアンナ、しっかりしろ!」 アルフォンス殿下が彼女の肩を抱き支える。彼は憎々しげに壊れた水晶を睨みつけ、神官長に問いただした。 「これはどういうことだ!祭器の管理はどうなっていた!」 「も、申し訳ございません!昨夜確認した際には、何の問題も…」
その時、ふいにリリアンナが顔を上げ、震える指で私のいる方向を指さした。 「…お姉様…」
か細い声だったが、静まり返った聖堂内では、全ての人の耳に届いた。 一斉に、全ての視線が私に突き刺さる。
「お姉様…どうして、あんなことをなさったのですか…?」
リリアンナは悲痛な表情で、私を見つめていた。その瞳は涙に濡れ、まるで信じていた者に裏切られた悲劇のヒロインそのものだった。 意味が、分からなかった。私が、何をしたというのだろう。
アルフォンス殿下が、リリアンナの視線の先にいる私に気づき、その青い瞳を驚愕に見開いた。 「エリアナ…?リリアンナ、どういうことだ。彼女が何をしたと言うのだ」 「昨日の夜、お姉様が…この水晶の台座を【修復】してくださったのです…。儀式のためにと…。でも、その時に…水晶にまで、何かを…」
リリアンナの言葉に、私は全身の血が凍るような感覚に襲われた。 罠だ。これは、私を陥れるための、リリアンナが仕掛けた罠なのだ。昨夜の、あの無邪気な笑顔も、全ては今日のこの瞬間のための演技だったのだ。
「ち、違います!私は、頼まれた通り台座を修復しただけで…!」
必死に声を絞り出すが、私の弁明は誰の耳にも届かない。 神官長が、はっとした顔で叫んだ。 「そうか…!水晶に外部から余計なスキルが干渉したために、聖なる力が暴走し、内側から破壊されたのに違いありません!」 「なんと…」
アルフォンス殿下は、絶望と怒りに染まった顔で私を睨みつけた。その眼差しは、もはや私を婚約者としてではなく、国家に対する反逆者として見ていた。
「エリアナ!貴様、リリアンナの才能に嫉妬し、聖なる儀式を妨害するとは!万死に値するぞ!」
殿下の怒声が、大聖堂に響き渡る。 嫉妬?私が?違う、そんなことは断じてない。けれど、私の声は誰にも届かない。周囲の貴族たちも、侮蔑と非難の目で私を見ている。父も母も、顔を青くして俯いているだけで、私を助けようとはしてくれない。
私は、完全に孤立していた。 聖女の輝かしい儀式を台無しにした、出来損ないの姉。嫉妬に狂った、愚かな女。それが、今の私に与えられた役割だった。
リリアンナの策略は完璧だった。 私が地味な【修復】スキルしか持たないこと。家族から疎まれていること。そして、私が彼女に逆らえない気弱な性格であること。その全てを計算し尽くした上で、この舞台は作り上げられたのだ。
アルフォンス殿下の腕の中で、リリアンナはさらに悲しげに泣きじゃくる。その姿が、私の罪をより一層際立たせていた。
「衛兵!この者を捕らえよ!」
アルフォンス殿下の号令で、屈強な騎士たちが私を取り囲む。冷たい鎧の感触と、容赦のない視線。私は抵抗することすらできず、その場に立ち尽くすしかなかった。
なぜ。どうして。 ただ静かに生きていきたかっただけなのに。 壊れたものを元に戻す、この地味な力で、誰かの役に立ちたかっただけなのに。
ステンドグラスから差し込む光が、皮肉なほどに美しく私の足元を照らしていた。それはまるで、私の未来がこれから、砕け散った水晶のように、二度と元には戻らないことを示唆しているかのようだった。




