第18話:蘇る温もりと古代の石版
昨夜の執務室での出来事が、私の心に甘い余韻を残していた。カイ様の手の温もり、間近で見た熱っぽい瞳。それを思い出すたびに、頬が熱くなるのを感じながら、私は翌日の朝を迎えた。私たちの間に芽生えた新しい感情は、まだ言葉にはなっていないけれど、確かな温もりとなって二人を包んでいる。
朝食を済ませた私たちは、早速、城の北側にあるという古い家畜小屋へと向かった。そこは主要な建物から少し離れた、森との境界線のような場所にひっそりと佇んでいた。
近づくにつれて、その惨状が明らかになる。屋根は半分以上が崩れ落ち、空の青が覗いている。壁には蔦が絡みつき、あちこちに大きな穴が開いていて、風が吹き抜けるたびに、まるで廃墟が呻いているかのような寂しい音を立てていた。かつて家畜たちが暮らしていたとは思えない、死と静寂に支配された場所だった。
「…ひどい有様だ」
カイ様は、その光景を前に、苦々しく呟いた。その表情には、ただの荒れた建物を見る以上の、深い痛みが滲んでいるように見えた。
「ここは…俺が幼い頃、母上がよく可愛がっていた場所なんだ」 彼は、遠い昔を懐かしむように、目を細めた。 「母上は動物が好きでな。ここで仔羊や兎の世話を焼いては、俺にもその温もりを教えてくれた。…俺が呪いを受けてからは、動物たちは皆この土地を去り、母上も心を痛めて…やがて亡くなった。それ以来、ここは誰も近づかない、忘れられた場所になってしまった」
彼の告白に、胸が締め付けられた。この場所は、彼にとって失われた母親の温もりと、自らの呪いへの罪悪感が染み付いた、特別な場所なのだ。だからこそ、彼はこの場所を蘇らせることを、復活の次の一歩として選んだのだろう。
「大丈夫です、カイ様」 私は、彼を安心させるように、力強く微笑んだ。 「私が、元に戻します。きっと、お母様が愛した、温かい場所だった頃の姿に」
私の言葉に、彼は少しだけ驚いたように目を見開いた後、静かに頷いた。その瞳には、私への絶対的な信頼が宿っていた。
私は家畜小屋の中へと足を踏み入れた。床には腐った藁が積もり、蜘蛛の巣が張り巡らされている。崩れた屋根から差し込む光が、空気中を舞う埃をキラキラと照らし出していた。
私は、小屋の中央に立つと、目を閉じて深く息を吸い込んだ。そして、この建物が持つ記憶を辿る。カイ様のお母様が動物たちに愛情を注いでいた頃の、温かくて優しい記憶。笑い声と、柔らかな毛の感触、陽だまりの匂い。
【原状回復】。
私が両手を広げ、心の中で強く念じると、足元から温かい光の波紋が広がっていった。 光が触れた場所から、信じられない変化が起こり始める。 腐って黒ずんでいた床板や柱が、真新しい木材の色を取り戻し、その表面は滑らかになっていく。壁に開いていた穴は、まるで傷が癒えるかのように塞がり、絡みついていた蔦は枯れてはらりと落ちた。頭上では、崩れ落ちていた屋根の梁や瓦が、元の場所へと吸い寄せられるように組み上がっていく。
それは、ただ元通りになるだけではなかった。私の想いに応えるかのように、建物はさらに素晴らしい姿へと生まれ変わっていった。床板のささくれは完全になくなり、動物たちが足を傷つけないように配慮されている。壁の隙間は完全に塞がり、北の厳しい風が吹き込むこともないだろう。そして、崩れた屋根があった場所には、代わりに天窓が嵌め込まれ、柔らかな太陽の光が、小屋の中を明るく照らし出すようになっていた。
カイ様は、その一連の奇跡を、入り口に立ったまま息を呑んで見つめていた。 やがて光が収まった時、そこに現れたのは、かつての廃墟の面影など微塵もない、温もりと光に満ちた、完璧な家畜小屋だった。
「…母上がいた頃よりも、ずっと…温かい場所になったな」
彼の声は、感動でわずかに震えていた。 私が小屋の中を点検して回っていると、壁の隅に、何か奇妙なものがあるのに気づいた。他の壁板とは材質が違う、一枚の石板が嵌め込まれているのだ。その表面には、複雑な幾何学模様と、見たこともない古代の文字のようなものが刻まれている。
「カイ様、これは…?」 私が指さすと、彼も不思議そうな顔で近づいてきた。 「なんだ、これは…。私も初めて見る。こんなものが、壁の中に隠されていたとは…」
彼が石板にそっと触れた、その時だった。 カチリ、と小さな音がして、石板が奥へとわずかにスライドした。そして、ゴゴゴゴ…という重い音と共に、私たちが立っていた床の一部が、ゆっくりと沈み始めたのだ。
「うわっ!」 「エリアナ、危ない!」
カイ様は咄嗟に私の腕を引き、後ろへと飛び退いた。 床が沈みきった後、そこには地下へと続く、石造りの階段が現れた。
「隠し階段…?こんなものが、家畜小屋の下にあったとは…」 カイ様も驚きを隠せない様子だった。私たちは顔を見合わせ、頷き合うと、用心深くその階段を降りていった。
階段の下は、広大な地下空間になっていた。そこはまるで、古代の神殿か、あるいは巨大な工房の跡のようだった。壁には、あの石板に描かれていたのと同じような模様がびっしりと刻まれており、中央には、巨大な人型の何かが、分厚い布を被せられて鎮座している。
私たちがその空間に足を踏み入れた、その時。 背後で、森の茂みがガサガサと揺れる音がした。
カイ様は警戒して剣の柄に手をかけたが、茂みから現れたのは、魔物ではなかった。数頭の森鹿が、警戒しながらも、興味深そうに新しい家畜小屋の様子を窺っている。その後ろからは、親子の兎や、丸々と太った狸も顔を覗かせた。
彼らは、蘇った家畜小屋から放たれる、温かくて安全な気に引き寄せられてきたのだ。 私がゆっくりと小屋の入り口に近づき、しゃがみ込んで手を差し伸べると、一頭の若い鹿が、おずおずとこちらへ近づいてきた。そして、私の手の匂いを嗅ぐと、安心したようにその頭を私の手に擦り付けてきた。
その光景を見て、カイ様は剣から手を離し、穏やかな笑みを浮かべた。 害獣として畑を荒らす可能性のあった動物たちが、敵意ではなく、信頼を寄せてきている。これもまた、エリアナが起こした奇跡の一つだった。
私たちは、ひとまず動物たちのことはそのままに、再び地下空間へと戻った。 そして、中央に鎮座する巨大な人型の前に立った。
「これは、一体…」 カイ様が、その物体にかけられた布に手を伸ばす。 布がはらりと取り払われた時、私たちの目の前に現れたのは、石と金属で造られた、巨大な人型の像だった。それは、鎧のようでもあり、人形のようでもあった。
古代のゴーレム。 その言葉が、私の頭に浮かんだ。
そのゴーレMの胸の中央には、あの石板と同じ模様が刻まれた円盤が嵌め込まれていた。しかし、その円盤には、蜘蛛の巣のような深い亀裂が走っている。
「これも…壊れているのですね」 私がそう呟きながら、無意識にその亀裂に指先を伸ばした、その瞬間。 亀裂に沿って、淡い光が一瞬だけ、走った。
それは、まるで、永い眠りについていた巨人が、呼び声に応えて、かすかに身じろぎをしたかのようだった。




