第15話:領民の歓喜と公爵の宣言
水源地からの帰り道、馬上での会話はほとんどなかった。けれど、沈黙は決して気まずいものではなく、むしろ共有された達成感と安堵感に満ちた、穏やかなものだった。私の前を馬で進むカイ様の広い背中を見つめながら、私はこの土地に来てからの出来事を静かに反芻していた。追放され、全てを失ったと思っていた私が、今こうして誰かの希望になっている。その事実が、まだ夢のように感じられた。
城に戻ると、中庭が何やら騒がしくなっていることに気づいた。ゼバスを始めとする使用人たちが、中庭にある大きな井戸の周りに集まり、歓声を上げている。
「水だ!綺麗な水が、こんこんと湧き出しておるぞ!」 「おお、神よ…!何年ぶりに見る、透き通った水だろうか!」
彼らは代わる代わる桶で水を汲み上げ、その透明度や匂いを確かめては、子供のようにはしゃいでいた。水源地で浄化された水が、地下水脈を伝って、早くも城の井戸にまで届いたのだ。呪いの影響で濁り、鉄臭かった水は、今や日の光をキラキラと反射する、清らかな命の水へと生まれ変わっていた。
私とカイ様の姿に気づくと、彼らは一斉に道を開け、深々と頭を下げた。その表情は、以前にも増して深い尊敬と、そして親愛の色に満ちている。
「エリアナ様、カイ様!ご覧ください!」 ゼバスが、汲みたての水を満たした杯を、興奮した面持ちで差し出してきた。 カイはそれを受け取ると、まず私に手渡した。 「お前が、最初に飲むべきだ」 その眼差しはどこまでも優しく、私は少し照れながらも杯を受け取り、そっと口をつけた。 雑味が一切ない、清涼で、ほんのりと甘みさえ感じる水。それは乾いた喉だけでなく、私の心の中まで潤していくようだった。
その日から、城の中の空気はさらに明るくなった。 料理長は「この水を使えば、どんな料理も格段に美味しくなる!」と涙ながらに喜び、厨房は一日中活気に満ち溢れていた。洗濯係のメイドたちは、洗い上がったシーツが雪のように真っ白になったと、嬉しそうに報告してくれた。城の隅々まで清らかな水が行き渡ることで、人々の生活そのものが、内側から輝きを取り戻していくようだった。
そして、その奇跡は、城の中だけに留まらなかった。 水源地を浄化してから数日後。城の門前に、領内の様々な集落から村長たちが訪ねてきたという知らせが入った。彼らは皆、一様に興奮した面持ちで、信じがたい報告を口にした。
「公爵様!村の井戸が…何年も前に枯れたはずの井戸が、再び水で満たされました!」 「南の川では、魚の姿が戻ってまいりました!呪いで姿を消していた、あの銀色のマスでございます!」 「用水路の水も、澄み切っております。この水ならば、きっと春には畑を耕せましょう!」
報告は、次から次へと続いた。領地の隅々にまで張り巡らされた水脈が、まるで人体の血管のように、浄化された生命の力を送り届け、死にかけていた大地に再び脈動を取り戻させているのだ。
報告を聞きながら、カイは一つ一つ力強く頷いていたが、その口元には隠しきれない喜びの笑みが浮かんでいた。領民たちの報告は、彼にとって何よりの吉報だった。
やがて、村長の一人が、おずおずと口を開いた。 「それで、公爵様…その、城におられるという、聖女様のことでございますが…」 噂は、すでに領地中に広まっていた。吹雪の中から現れた一人の女性が、その奇跡の力で公爵様の呪いを解き、大地を蘇らせている、と。 「我ら領民一同、その御方様に、一目お会いし、感謝の言葉を述べさせていただきたいと…」
その申し出に、私は思わずカイの背後に隠れそうになった。 王都での経験が、心の傷となって残っている。大勢の人々の前に立つこと、注目を浴びることへの恐怖。もし、彼らが私を見て、失望したら?もし、私が彼らの期待に応えられなかったら?
そんな私の不安を見透かしたかのように、カイは私の方を振り返り、その大きな手で、私の手をそっと握った。彼の掌は温かく、力強かった。
「大丈夫だ、エリアナ。ここの民は、お前を傷つけたりしない。彼らはただ、自分たちを救ってくれた恩人に、心からの感謝を伝えたいだけだ」 彼の静かで、揺るぎない声が、私の恐怖をゆっくりと溶かしていく。 「お前はもう、一人じゃない。俺が、隣にいる」
その言葉に、私は顔を上げた。彼の氷の瞳は、今はもう、私だけを映す穏やかな青い湖となっていた。私は、こくりと頷いた。
翌日、城の前の広場は、知らせを聞いて集まった領民たちで埋め尽くされていた。老人から子供まで、誰もが希望と期待に満ちた顔で、城のバルコニーを見上げている。その光景は、私を断罪した、あの王都の大聖堂とは全く違っていた。ここにあるのは、憎悪や非難ではなく、純粋な感謝と歓迎の熱気だけだった。
カイに促され、私はバルコニーへと一歩踏み出した。 私の姿を認めると、広場から割れんばかりの歓声が沸き起こった。 「聖女様だ!」 「我らの土地を救ってくださった、エリアナ様だ!」
聖女。その呼び名に胸が痛んだが、彼らが使うその言葉には、リリアンナに向けられていたような政治的な思惑や、盲目的な崇拝の色合いはなかった。それは、ただただ純粋な、奇跡への感謝を表現する、最もふさわしい言葉として使われているようだった。
私は、集まってくれた人々の顔を一人一人見渡した。厳しい冬と長年の苦労が刻まれた顔。それでも、その瞳は皆、未来への希望に力強く輝いている。 私は、マイクも何もないバルコニーの上から、精一杯の声で叫んだ。
「私は、聖女ではありません!ただ、エリアナ、という名の、旅の者です!」
私の言葉に、広場は水を打ったように静まり返る。 「ですが…このアークライトの地が、皆さんが、私に新しい居場所をくれました。だから、これからは私も、この土地の住人の一人として、皆さんと一緒に、この大地を蘇らせていきたいと思っています!」
私の拙い言葉が終わると、一瞬の静寂の後、先ほどよりもさらに大きな、地鳴りのような歓声と拍手が広場を包み込んだ。
その時、隣に立っていたカイが、一歩前に進み出た。 そして、私の肩をしっかりと抱き寄せると、全ての領民に聞こえるよう、朗々と宣言した。
「皆、聞け!彼女、エリアナは、もはや客人ではない!俺と共に、このアークライトの未来を築いていく、かけがえのないパートナーだ!彼女の力と、我々の努力を合わせれば、この土地は必ずや、かつてないほど豊かな楽園となるだろう!」
パートナー。その言葉の重みに、私の顔に熱が集まるのを感じた。 カイは、民衆の前で、私を彼の隣に立つ存在として、公式に認めてくれたのだ。
領民たちは、公爵の力強い宣言に、再び熱狂的な歓声で応えた。 私は、私を抱き寄せるカイの腕の温もりを感じながら、眼下に広がる人々の笑顔を見つめていた。
役立たずと罵られ、不要だと捨てられた私。 そんな私の居場所が、今、確かにここにある。 愛するべき土地と、守るべき民、そして、信頼できるパートナーと共に歩む未来。
私の本当の人生が、この極寒の地で、今まさに始まろうとしていた。




