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第14話:雪解けの水と領地の脈動

雪原に芽吹いた一つの緑。 それはあまりにも小さく、儚げな生命だったが、カイ公爵にとっては、十年ぶりに見た希望そのものの色だった。彼は、まるで奇跡の顕現を前にした巡礼者のように、その場にゆっくりと膝をついた。黒い手袋を嵌めた指先が、その小さな双葉に触れることをためらうかのように、空中でかすかに震えている。


「…緑だ…」


彼の唇から漏れたのは、感嘆と、信じられないという思いが入り混じった、かすれた呟きだった。 「この土地で、この色を見るのは、本当に、久しぶりだ…」


その横顔は、深い感動に満ちていた。長年、彼の心を覆っていた厚い氷が完全に溶け、その下から、本来の彼の温かい感情が溢れ出しているのが分かった。彼がこの土地を、そしてここに住まう民を、どれほど深く愛しているのかが、痛いほどに伝わってくる。


その時、城の方から数人の使用人が、慌てた様子で駆け寄ってきた。私たちの主であるカイ様が、真冬の中庭で膝をついている。何か異変が起きたのではないかと、心配になったのだろう。老執事のゼバスも、息を切らしながら後から続いてくる。


「カイ様!いかがなさいましたか!」


しかし、彼らの心配は、すぐに驚愕へと変わった。彼らもまた、雪を押し分けて顔を出す、その鮮やかな緑色に気づいたのだ。


「こ、これは…!」 「嘘だろう…雪の中から、芽が…」


使用人たちは、皆一様に言葉を失い、その場に立ち尽くす。ある者は目をこすり、ある者は隣の者と顔を見合わせ、目の前で起きていることが現実だとは信じられない、といった表情を浮かべていた。


やがて、ゼバスが震える声で言った。 「…エリアナ様の、お力にございますな」


彼の言葉に、全ての視線が私に注がれる。それはもはや、畏怖や警戒の色ではなく、純粋な尊敬と感謝に満ちた、温かい眼差しだった。彼らは次々と、その場に膝をつき、私に向かって深く頭を下げた。


「エリアナ様、ありがとうございます…!」 「これで、この土地も救われる…!」


突然のことに、私はどうしていいか分からず狼狽えてしまう。私はただ、自分のスキルを使っただけなのに。人々がこれほどまでに希望を渇望していたという事実を、改めて思い知らされた。


カイは、そんな私を助けるように、ゆっくりと立ち上がった。 「皆、もうよい。顔を上げろ。奇跡は、まだ始まったばかりだ」 彼の静かだが力強い声に、使用人たちは顔を上げる。その瞳は、皆一様に涙で潤んでいた。 「エリアナは、我々と共に、この大地を蘇らせてくれる。我々がすべきことは、祈ることではない。彼女の力を信じ、我々にできることを全力で手伝うことだ」


その言葉は、領主としての絶対的な威厳と、仲間としての温かい信頼の両方を兼ね備えていた。使用人たちは、「はっ!」と力強く応じ、その顔には新たな決意と活力が漲っている。


城の中に戻り、私たちはカイの執務室へと向かった。 壁には、アークライト公爵領の広大な地図が掲げられている。彼はその地図の前に立ち、腕を組みながら難しい顔で考え込んでいた。


「中庭の一角を蘇らせることはできた。だが、この領地全体となると、話は別だ。お前一人に、全ての土地に触れてもらうわけにはいかない。途方もない時間がかかるし、何より、お前の体が持たないだろう」


彼の言う通りだった。聖鎧を浄化した時も、私は丸一日意識を失った。この広大な領地の土壌全てに力を注げば、私の命がいくつあっても足りないだろう。


「何か、もっと効率の良い方法はないだろうか…。力の範囲を広げるような…」 カイが思案に暮れていると、私はふと、ある考えを思いついた。 「カイ様。この土地の生命を支える上で、土と同じくらい大切なものがあります」 「…水か」


私の言葉に、彼ははっとしたように顔を上げた。 「そうだ。呪いは、土だけでなく、この土地を流れる水脈そのものも汚染した。井戸は枯れ、川は淀み、生命の気配を失った。もし、その大元を浄化することができれば…」 「清らかな水が領地全体に行き渡り、大地が内側から癒やされていくかもしれません」


私たちの考えは、一つに繋がった。 カイは地図の一点を指さした。それは、城の背後に聳える山の、中腹あたりだった。 「ここに、領内最大の水源地がある。城で使う水も、領内の畑を潤す用水路も、全てここから引いている。…いや、引いていた、と言うべきか。呪いが始まってからは、ほとんど枯れ果ててしまっているが」


そこが、この土地の心臓部。全ての生命の源。 もし、私の【原状回復】の力が、その水源そのものを本来の姿に戻すことができたなら。


「行きましょう。カイ様」


私の言葉に、彼は力強く頷いた。


私たちはゼバスに準備を命じ、馬に乗って城の裏手にある山へと向かった。雪深い山道は、数人の兵士たちが先導して道を作ってくれる。彼らの背中からも、この土地の未来を切り拓くのだという、強い意気込みが感じられた。


三十分ほど山を登ると、私たちは古びた石造りの祠のような場所にたどり着いた。そこが、水源地の入り口だった。中からは、微かに水の音が聞こえるが、それはかつての勢いを失った、弱々しい滴の音に過ぎない。


中に入ると、そこは広い洞窟になっていた。岩盤のあちこちから水が染み出し、中央の泉へと注ぎ込んでいるはずの場所。しかし、今ではほとんどの水脈が枯れ、泉の水位は底が見えるほどに下がっている。そして、残った水も、呪いの影響でよどんだ灰色に濁り、生命の気配を感じさせなかった。


「ここだ」


カイは、その淀んだ泉を見下ろし、悔しそうに唇を噛んだ。 私は黙って頷くと、泉のほとりまで歩み寄り、その冷たい水に、そっと両手を浸した。


指先から、呪いの残滓である、冷たく邪悪な気配が伝わってくる。 私は目を閉じ、意識を集中させた。 この水が、かつて持っていたであろう、清らかな記憶を辿る。岩に磨かれ、木々の根に濾過され、生命を育む力を蓄えていた、本来の姿を。


――思い出して。あなたの、本当の力を。


私の手のひらから、柔らかな光が水の中へと溶け込んでいく。 すると、私の手を中心にして、濁っていた水が、みるみるうちに透明度を取り戻していった。まるで、水に垂らした一滴のインクが消え去るかのように、呪いの澱が浄化されていく。


そして、奇跡はそれだけでは終わらなかった。 水そのものが本来の力を取り戻したことに呼応するように、枯れていたはずの岩盤のあちこちから、ぽつり、ぽつりと、新しい雫が生まれ始めたのだ。それはすぐに力強い流れとなり、いくつもの清らかな細い滝となって、泉へと勢いよく流れ込み始めた。


ゴオオオオ、と。洞窟全体に、水が満ちていく音が響き渡る。 泉の水位はあっという間に上昇し、透明で、生命力に満ち溢れた水が、溢れんばかりに満たされていく。


「…信じられん…」


カイも、兵士たちも、その圧倒的な光景を前に、ただ立ち尽くしていた。 やがて、完全に満たされた泉の水は、洞窟の外へと続く水路へと、勢いよく流れ出し始めた。


この水が、これから領地全体を巡り、死んだ大地を潤し、脈動を取り戻していくのだ。 私は、自分の力が成し遂げたことの大きさに、静かな感動と共に、わずかな身震いを感じていた。

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