第12話:恩人と温もりと夜明けの兆し
意識が深い海の底からゆっくりと浮上してくる感覚。最後に記憶にあるのは、全身の力が抜けていく虚脱感と、私を呼び続ける誰かの必死な声だった。
瞼を開くと、見慣れた客室の天井が目に映った。暖炉の炎が穏やかに揺れ、部屋の中を暖かく照らしている。聖鎧の呪いを浄化した後、私は気を失ってしまったらしい。前回倒れた時のような体の芯から凍えるような衰弱はなく、ただ心地よい疲労感だけが全身を包んでいた。
不意に、すぐそばに人の気配を感じ、私ははっとして視線を横に向けた。 ベッドの脇に置かれた椅子に、カイ公爵が深く腰掛けていた。彼は眠っているわけではなく、ただ静かに、じっと私のことを見つめていた。その表情は、私がこれまで見たことのない、穏やかなものだった。氷が解けた湖面のような、静かで、どこか優しい光を宿した瞳。
「…目が、覚めたか」
彼の声は、以前のぶっきらぼうな響きとは違い、安堵の色を隠せない、少しだけ掠れた声だった。
「公爵様…。私は、どのくらい…」 「丸一日、眠っていた」 彼はそう言うと、椅子から立ち上がり、ベッドのそばに置かれた水差しからグラスに水を注いでくれた。そして、それを私に手渡しながら、ごく自然な動作で、私の背中に手を添えて起き上がるのを助けてくれた。
その手の温かさに、私の心臓が大きく跳ねた。 彼が、私に触れている。呪いを恐れて、誰にも触れることができなかったはずの彼が。
グラスを受け取りながら、私は彼の右腕に視線をやった。袖口から覗く肌には、あれほど禍々しかった呪いの紋様はほとんど見えない。うっすらと影が残っている程度で、言われなければ気づかないほどに薄れていた。
「呪いは…」 「ああ」 私の問いかけに、彼は静かに頷いた。 「お前のおかげで、ほとんど消えた。体にまとわりついていた重い枷が外れたようだ。こんなに体が軽いのは、何年ぶりだろうな」
そう言って、彼は自分の手のひらを、まるで初めて見るかのように開いたり閉じたりしている。その仕草には、長年の苦しみから解放された者の、純粋な喜びと戸惑いが滲んでいた。
「エリアナ」 彼は改めて私の名前を呼び、真っ直ぐに私の瞳を見つめた。 「…礼を言う。お前は、俺の命の恩人だ」
その言葉には、何の飾りもなかった。ただ、心の底からの、偽りのない感謝が込められていた。命の恩人。役立たずと罵られ、不要だと言われた私が、誰かにとってのそんな存在になれた。その事実が、じわりと胸の奥に温かい光を灯していく。
「そんな…私は、ただ私のスキルを使っただけで…」 「そのスキルが、奇跡を起こしたんだ」 彼はそう言うと、少しだけ躊躇うように視線を彷徨わせた後、決心したように口を開いた。 「お前が倒れた時、俺は…お前を、この腕で抱きとめた」
彼の告白に、私は息を呑んだ。 「呪いは、発動しなかった。それどころか、お前の体に触れた瞬間、残っていた呪いが和らぐのを感じた。…誰かの温もりに触れたのは、もう十年以上ぶりになる」
彼の声は、わずかに震えていた。 十年。それは、あまりにも長い孤独の時間だ。彼はずっと一人で、この冷たい城で、誰にも触れることなく、絶望的な呪いと戦い続けてきたのだ。その壮絶な孤独を思うと、胸が締め付けられるようだった。
「…良かった…」 私が絞り出したのは、そんなありきたりな言葉だった。けれど、それは私の心からの想いだった。「本当に、良かったですね」と、私は涙ぐみながら微笑んだ。
私の笑顔を見て、彼は少しだけ驚いたように目を見開き、そして、ふっと表情を和らげた。彼が笑ったのを、私は初めて見た。それは大げさなものではなく、ただ口元がわずかに綻んだだけの、ささやかな笑み。しかし、その一瞬の変化が、彼の氷の仮面を完全に溶かし去り、年相応の青年の素顔をそこに現していた。
その時、部屋の扉が控えめにノックされた。 「カイ様、お食事の準備が整いましてございますが…」 年老いた執事、ゼバスの声だった。
「入れ」 カイが応じると、ゼバスは食事を乗せたワゴンを押しながら、静かに部屋に入ってきた。そして、ベッドの上で体を起こしている私と、そのそばに立つカイの姿を見て、彼は驚きに目を丸くした。
「おお…!エリアナ様、お目覚めでございましたか!」 彼の私に対する呼び方が、「素性の知れぬ娘」から「エリアナ様」へと変わっている。そして、その表情には、以前のような警戒心はなく、安堵と尊敬の色が浮かんでいた。彼は全てを知っているのだ。私がカイ公爵の呪いを解いたことを。
「ゼバス、彼女は疲れている。ここに食事を運んでくれ」 「かしこまりました」 ゼバスは手際よく、テーブルの上に温かいスープやパン、そして滋養のありそうな肉料理を並べていく。その様子を眺めながら、カイは言った。 「もう、俺が食事を運ぶ必要もなくなったな」
その言葉には、どこか寂しげな響きがあった。私が遭難者であった、あの数日間だけの特別な関係が終わったことを示しているようだった。
「これからは、この城の全ての者が、お前を主賓として、恩人としてもてなすだろう。何一つ不自由はさせない。何か望むものがあれば、何でも言うといい」 「…ありがとうございます。ですが、私は何も…」 「エリアナ様」 私の言葉を遮ったのは、ゼバスだった。彼は私に向かって、深く、恭しく頭を下げた。 「この城の者、いえ、このアークライト領の民を代表し、心より御礼申し上げます。あなた様は、我々にとっての救い主でございます」
その真摯な態度に、私はどう反応していいか分からず、戸惑ってしまう。 カイは、そんな私とゼバスの様子を静かに見ていたが、やがて口を開いた。
「ゼバス、彼女をあまり困らせるな。彼女はまだ疲れている。少し一人にしてやれ」 「はっ、失礼いたしました」 ゼバスは再び一礼すると、カイと共に部屋を出て行こうとした。
扉の前で、カイは一度だけ足を止め、私の方を振り返った。 「ゆっくり休め。お前がしてくれたことの大きさは、お前が思う以上だ。…本当に、ありがとう」
そう言って、彼は今度こそ部屋を出て行った。 扉が閉まり、一人残された部屋で、私はしばらく呆然としていた。しかし、やがて胸の奥から、温かい感情が込み上げてくるのを感じた。
私は、ここにいてもいいのだ。 追放された身の上だとか、役立たずだとか、もうそんな風に自分を卑下する必要はない。この場所には、私を必要とし、私に感謝してくれる人たちがいる。
テーブルの上に並べられた、湯気の立つ温かい食事。 それは、私がこの城で初めて、「客人」としてではなく、「恩人」として与えられたものだった。
窓の外に目をやると、あれほど荒れ狂っていた吹雪が、いつの間にか少しだけ勢いを弱めていることに気づいた。分厚い雲の切れ間から、ほんのわずかに、淡い光が差し込んでいる。
この呪われた土地にも、長い冬の終わりと、新しい春の訪れが近いのかもしれない。 そして、それは私の人生にとっても、同じことなのかもしれない。
私はゆっくりとスープをスプーンですくい、口に運んだ。それは、私の新しい人生の始まりを祝福するような、優しくて、とても温かい味がした。




