第11話:原状回復の光と聖鎧の覚醒
私の指先が鎧に触れた瞬間、世界から音が消えた。 鎧から噴出した黒い靄は、単なる気体ではなかった。それは怨念と絶望が凝縮された、意思を持つ呪いの奔流だった。それは瞬く間に私の全身を包み込み、意識を内側へと引きずり込もうとしてくる。
『来るな…消えろ…我に触れるな…』
直接脳内に響くかのような、おぞましい声。それは憎悪、苦痛、孤独、あらゆる負の感情が混ざり合った、魂を削るような響きを持っていた。視界は完全に闇に閉ざされ、冷たい何かが私の心の中まで侵食してくる感覚に、全身の産毛が逆立つ。
「エリアナッ!手を離せ!」
背後でカイ公爵の絶叫が聞こえた気がしたが、もう遅かった。私の体は金縛りにあったように動かず、呪いは私の精神を喰らい尽くそうと、その濃度を増していく。怖い。逃げ出したい。役立たずな私に、こんなものが浄化できるはずがない。王都で植え付けられた無力感が、再び鎌首をもたげる。
その時、闇の中で、ふと一つの光景が浮かんだ。 母の形見であるオルゴールを手に、静かに涙を流していたカイ公爵の姿。彼の長年の孤独と絶望。そして、縋るような想いで私にこの鎧を託した、あの瞳。
――私を、必要としてくれた。
その事実が、恐怖に凍りついていた私の心に、小さな火を灯した。 違う。私はもう、無力なだけの存在じゃない。私のこの力は、誰かの涙を拭うことができるかもしれない力なのだ。
『お前ごときに、我は滅せぬ…』
呪いの声が、嘲るように響く。 私は、心の内で強く叫んだ。私はあなたを滅したいんじゃない。ただ、元に戻したいだけ。あなたが、こんなおぞましい呪いの塊になる前の、本来あるべき清らかな姿に。
その強い想いが引き金になったかのように、私の体の奥深くから、これまで感じたことのないほどの膨大な力が、奔流となって溢れ出した。それは、ただの温かい光ではなかった。万物を創りたもうた神の息吹にも似た、清らかで、絶対的な浄化の力。
そうだ、私のスキルは、ただの【修復】なんかじゃなかった。 壊れた器を直す力なんかじゃない。 全ての物事を、穢れなき「原初の姿」へと回帰させる奇跡。 その本当の名は、【原状回復】。
「本来あるべき、あなたの姿に、戻りなさい!」
私がそう叫んだ瞬間、全身から放たれた光は、純白の太陽のように輝きを増した。それは私を包み込んでいた呪いの黒い靄を、闇を払う夜明けの光のように、内側から消し去っていく。
『ぎ…ああああああっ!』
呪いの怨念が、断末魔の叫びを上げる。黒い靄は浄化の光に触れるたびに霧散し、闇に閉ざされていた部屋は、私の放つ光だけで真昼のように明るく照らし出された。
カイ公爵は、その神々しい光景を、ただ呆然と見つめていた。 少女の細い身体から放たれているとは思えないほどの、圧倒的な聖なる力。それは、妹である聖女リリアンナが使う【聖癒】の力などとは、比較にすらならない、根源的で、絶対的な奇跡の顕現だった。
やがて、鎧にまとわりついていた最後の黒い靄が完全に消え去る。 すると、鎧そのものが眩い光を放ち始めた。禍々しい黒鉄の色がみるみるうちに薄れ、表面に刻まれていた呪いの紋様が、まるで雪が解けるかのように消えていく。
そして、光が収まった時。 そこに立っていたのは、先ほどまでの邪悪な鎧とは似ても似つかぬ、神々しい一領の鎧だった。 乳白色の光沢を放つ、未知の金属で作られたその鎧は、流麗なフォルムの中に、気品と力強さを秘めている。表面には、呪いの紋様があった場所に入れ替わるように、黄金色の繊細な守護の紋様が浮かび上がっていた。それはまさしく、古文書に記されていた『アークライトの地を守護する伝説の聖鎧』そのものの姿だった。
鎧の呪いが完全に浄化された、その瞬間。 カイ公爵の体が、大きく揺らいだ。
「ぐ…っ!」
彼は苦悶の声を漏らし、自らの右腕を押さえた。袖の下で、長年彼を苦しめ続けてきた呪いの紋様が、まるで陽光に晒された闇のように、急速に薄れていくのが分かった。焼き付くような痛みと、呪いが剥がれていく解放感が同時に彼を襲う。
「…呪いが…消えていく…」
呆然と呟く彼の目の前で、全ての力を使い果たした私が、糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。
「エリアナ!」
我に返ったカイは、考えるよりも先に駆け寄っていた。 彼はためらいもせず、倒れ込む私の体を、その両腕で力強く抱きとめた。これまで、呪いを恐れて誰にも触れることのできなかった彼が、自らの意志で、初めて温かい人の体に触れた瞬間だった。
腕に抱いたエリアナの体は、驚くほど軽く、そして熱かった。力を使い果たし、ぐったりと意識を失っている。その顔色は蒼白で、穏やかな寝息だけが、彼女が生きていることを示していた。
「…エリアナ…しっかりしろ…!」
カイは焦燥に駆られ、彼女の名を呼ぶ。その時、彼は自分の右腕に何の痛みも感じないことに気づいた。恐る恐る袖をまくり上げると、あれほど深く刻まれていた禍々しい紋様は、まるで薄墨で描いたかのように、ほとんど見えなくなっていた。完全に消えたわけではないが、呪いの本体が消滅したことは明らかだった。
この少女が、たった一人で成し遂げたのだ。 国中の誰にも、何百年もの間、誰にもできなかったことを。 役立たずと罵られたという、その力で。
感謝、驚愕、畏怖、そして、命懸けで自分を救ってくれた彼女に対する、今まで感じたことのない熱い感情。それらが渦となって、カイの胸中を激しく揺さぶった。
彼はエリアナの体をそっと抱え上げると、その軽い重みを噛み締めるように、しっかりと腕に抱いた。この温もりを、決して離してはならない。そう、魂が叫んでいた。
彼は聖鎧に一瞥をくれると、今はもう邪悪な気配など微塵も感じさせないその守護者に、小さく頭を下げた。そして、一刻も早くエリアナを休ませるため、固い決意をその瞳に宿し、呪われた部屋を後にした。
腕の中で眠る少女の存在が、彼の凍てついていた世界に、確かな夜明けが訪れたことを告げていた。




