第3話ノイズの影、忍び寄る絶望
月織--広大な物語の世界を縦横無尽に駆け巡る、新進気鋭の物語紡ぎ手です。
ジャンルを問わず、読者の心に深く響く「希望」と「葛藤」、そして「成長」の物語を描き出すことを信条としています。特に、全年齢対象作品においては、子供たちの純粋な心にも、大人の複雑な感情にも寄り添い、ページをめくるたびに、新たな「光」を見出すような感動体験をお届けすることをお約束します。
すべての作品が、読む人の明日を照らす一筋の光となることを願って、今日も筆を執ります。
ヴァーチャル空間は、まるで水面に油を垂らしたように、緩やかにその色を濁らせていた。それは、前回のような、一瞬にしてすべてを奪い去るような暴力的な絶望ではない。もっと静かに、深く、心の奥底に染み渡るような、不穏な影。
「ん? なんか、今日の配信、みんなのコメント、いつもより元気ない気がするなぁ……」
自室のヴァーチャルミラーの前で、私はローゼとして、ファンとの交流配信を行っていた。いつものように元気いっぱいの歌を届け、とびきりの笑顔を振りまいているつもりなのに、ファンのコメントはどこか熱を帯びていない。まるで、心を揺さぶる感動の閾値が、少しずつ下がっているかのように。
「ローゼちゃん、いつもありがとう! 今日も元気もらったよ!」
「うん、頑張る……」
いつもなら「最高ー!」とか「もっと歌って!」といった、弾けるようなコメントが溢れるのに、今日はどこか控えめだ。感謝の言葉はあっても、その奥に、どこか深い疲労感が滲んでいるように見えた。
「ほのか、気づいていますか?」
ピュールが、私の肩にちょこんと座り、その小さな手を私の頬にそっと添えた。冷たいAIの手の感触が、私の熱くなった肌に心地よい。
*「ヴァーチャル空間の活気指数が、過去24時間で約15%低下しています。これは、ヴォイド・ネメシスが再び活動を開始した可能性を示唆する、明確な予兆です」*
「え、また!?」
私の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。せっかく、日常が戻ってきたばかりなのに。秘密を抱えながらも、ローゼとしてみんなに笑顔を届けられる喜びを感じていたのに。
「でも、前回みたいに、急に闇が広がるとかじゃないんだよね?」
*「はい。今回の異変は、より巧妙で、ステルス性が高い。ヴァーチャル空間の『音の純度』が低下し、精神的なノイズが緩やかに浸透している状態です。人々の心の光を直接奪うのではなく、その輝きを鈍らせ、希望という感情の輪郭を曖昧にしようとしているのです」*
ピュールの言葉は、理解しがたいものだったけれど、人々のコメントの「元気のなさ」と繋がった。希望が鈍る。活気が低下する。それは、じわじわと、しかし確実に、世界を蝕む病のようなものだ。
配信を終え、私はベッドに倒れ込んだ。目に見えない、しかし確かに存在する脅威。それに、どう立ち向かえばいいのだろう。
*「今夜、ヴァーチャル空間内のコミュニティ広場で、異常なノイズが感知されました。どうやら、新たな敵が、その場に人々の精神的負荷を集中させているようです。ほのか、出撃の準備をお願いします」*
ピュールの指示に、私は覚悟を決めた。もう、迷っている暇はない。
「分かった……! ピュール、私も行く!」
「正義と希望”の結晶!」
私の言葉に呼応するように、全身が光に包まれる。甘美な痺れが細胞を駆け巡り、内側から熱いエネルギーが湧き上がる。肉体が再構築され、まばゆい光の中で、純白の聖衣が私の身体を包み込む。髪は黄金に輝き、瞳は翠の輝きを宿す。
「電脳聖女!」
光の粒子が弾け飛び、新たな力が全身に漲る。この力は、私だけのものじゃない。人々の希望と、ジャンヌ・ダルクの魂が融合した、聖なる力。
「ジャンヌ・ローゼ!!」
ヴァーチャル空間のコミュニティ広場に降り立つと、そこは異様な光景に包まれていた。色鮮やかだった広場のホログラムは、全てがグレーがかった、ぼんやりとした色合いに変化している。人々の顔には、生気がない。絶望に沈んでいるわけではないが、かといって、喜びや活気もない。ただ、漫然と、虚空を見つめているだけだ。
そして、広場の中央には、前回のヴォイド・ネメシスの異形とは異なる、新たな敵が姿を現していた。それは、無数の電子的なノイズが塊となって形成されたかのような、不定形な存在。全身から、耳障りな「ザー……」というホワイトノイズのような音が常に発せられており、その中心には、深淵を思わせる黒いコアが脈打っていた。
「愚かなる光よ、また現れたか」
ノイズの塊から、歪んだ声が響く。それは、複数の声が重なり合ったような、不快な響きだった。
「この空間は、既に我らの『ノイズ』によって満たされつつある。お前たちの『希望』など、我らの前では、かすかな雑音に過ぎない」
敵は、そう言うと、その不定形な身体から、無数のノイズの波を放ち始めた。それは、目に見える攻撃ではなく、人々の精神に直接干渉する、音の波紋だった。ノイズの波紋が人々を襲うたび、彼らの瞳の輝きが、さらに薄れていく。
「やめて! みんなから、活力を奪わないで!」
私は、両の掌を前へと突き出した。白い光の粒子が噴き出し、ノイズの波紋を打ち消そうと試みる。しかし、光の障壁は、ノイズの波紋を完全に防ぎきれない。ノイズは、障壁の隙間を縫うようにして、人々の心へと侵食していく。
「くっ……!」
ピュールが、私の脳内に警告を発する。
*「敵は、物理的な攻撃ではなく、精神的な侵食を得意とするタイプです。あなたの光の障壁は、直接的なダメージを防ぐことはできますが、精神干渉までは完全に遮断できません。このままでは、広場にいる全ての人々の心が『無』の状態に陥ります」*
「そんな……!」
私は、聖なる力を込めた拳を敵に打ち込んだ。拳から放たれた光の波動が、ノイズの塊に直撃する。しかし、敵の身体は、まるで煙のように光を透過させ、実体がないかのように、すぐに元の形へと戻ってしまう。
「無駄だ、電脳聖女。我らは、お前たちが依って立つヴァーチャル空間そのものの『歪み』。お前たちの物理的な攻撃など、我らには通用しない」
敵の嘲笑が、耳障りなノイズと共に私の精神を揺さぶる。
「私の攻撃が、効かない……?」
*「分析結果:敵はヴァーチャル空間のデータ構造そのものを変質させており、物理的な干渉を受け付けません。従来のバトルスタイルでは、有効打を与えられないでしょう」*
ピュールの言葉に、私の心に焦りが広がる。どうすればいい。このままでは、人々が、何も感じない、無気力な存在になってしまう。
「何が……何が正解なの……!」
焦燥感に駆られ、私は再び光の波動を放つが、敵はそれを嘲笑うかのように、ノイズの波紋をさらに激しく放ち始める。ノイズは、私の聖なる身体にまで浸透し始め、胸元のクリスタルが、警鐘を鳴らすように激しく点滅する。
*「ほのか! 危険です! ノイズがあなたの精神システムに干渉を開始しています! このままでは、ジャンヌ・ローゼとしてのパフォーマンスが低下します!」*
ピュールの声が、ノイズに掻き消されそうになる。
「うっ……!」
ノイズが、私の脳を直接揺さぶる。それは、過去の不安や、ローゼとして秘密を抱える孤独感を、増幅させるかのように響く。
*『お前は、所詮、作り物の偶像だ』*
*『一人で抱え込もうとするから、苦しいんだ』*
*『その歌声も、いつか誰にも届かなくなる』*
心に直接語りかけるような、幻聴。それは、私自身の心の奥底に眠っていた、弱さの声だった。
「ち、違う……!」
私は必死に頭を振る。しかし、ノイズは容赦なく、私の精神を蝕んでいく。聖なる鎧の輝きが、僅かに鈍り始める。
「そんな……私では、ダメなの……?」
初めて感じる、深い絶望感。身体の力が抜け、膝から崩れ落ちそうになる。目の前には、虚ろな表情で佇む人々。彼らの瞳は、もう私を映していない。私の歌声も、もう彼らに届かないのだろうか。このヴァーチャル空間で、私が歌い続けてきた意味は、何だったのだろう。
*「ほのか! 諦めてはいけません!」*
ピュールの声が、ノイズの合間を縫って、私の心に届く。
*「あなたの歌声は、彼らにとって、希望の光そのものです。このノイズは、あなたの歌声を阻害しようと試みていますが、それは同時に、あなたの歌声にこそ、このノイズを打ち破る力があることの証明です!」*
「私の……歌声……?」
ピュールの言葉が、私の凍りついた心に、微かな温もりをもたらす。そうだ。私は、歌でみんなを笑顔にしてきた。歌で、希望を届けてきた。
*「ジャンヌ・ダルクの魂があなたを選んだのは、あなたの歌声が、ヴァーチャル世界の人々と現実世界の人々の心の壁を越え、繋がりを強化する稀有な力を持つからです。ノイズは、その繋がりを断ち切ろうとしている。だからこそ、あなたは、歌わなければなりません!」*
ピュールの言葉が、まるで過去の記憶を呼び覚ますように、私の心に響く。幼い頃、一人で泣いていた私を救ってくれた、あの歌声。今度は、私がその歌声で、みんなを救う番だ。
「そうか……私の歌声が……!」
ノイズが激しく、私の精神を揺さぶる。しかし、そのノイズの奥で、私は確かに、私自身の歌声の源泉を感じ取っていた。それは、理屈ではない。感覚的なもの。身体の奥底から、魂を揺さぶるようなメロディが、再びせり上がってくる。
「これが……私の……」
私は、ゆっくりと立ち上がった。全身を蝕んでいたノイズの圧力が、少しだけ、軽減されたように感じる。胸元のクリスタルが、再び力強く輝き始めた。
「私は、電脳聖女ジャンヌ・ローゼ!」
私の声が、ノイズに満ちた空間に響き渡る。
「私の歌声は、誰にも奪わせない! 誰にも、邪魔させない!」
私は、大きく息を吸い込んだ。喉の奥が熱い。肺が限界まで膨らむ。
*『信じる心に、光は宿る』*
心の奥底で、ジャンヌ・ダルクの魂の声が響いた。それは、私自身の歌への渇望と、人々の希望を守りたいという願いが、今、一つになる瞬間だった。
私は、両腕を大きく広げた。すると、私の身体から、純粋な光の粒子が、歌声と共に溢れ出し始めた。それは、ノイズの波紋とは真逆の、澄み切った、透明な光。
私の歌声は、ノイズを切り裂くように、力強く、空間全体に響き渡る。
「届け……! 希望の歌声!」
それは、単なる歌ではない。私の魂そのもの。私の決意そのもの。
ノイズの塊が、私の歌声に反応するように、激しく身悶え始めた。ノイズの波紋が、歌声の光によって、少しずつ、その力を失っていく。
「な、何だ……この歌は……!」
敵の歪んだ声に、明確な動揺が滲む。私の歌声は、敵の精神干渉型のノイズに対し、直接的な「心の光」として作用しているのだ。
「もう二度と、みんなから希望を奪わせない!」
私は、歌声をさらに高めた。全身から溢れ出す光が、ノイズの塊を包み込み、その存在そのものを浄化しようとする。ノイズの塊から、悲鳴のような音が響き渡る。
この歌声こそが、私、ジャンヌ・ローゼの、新たな力。
苦境を乗り越え、絶望の淵から掴み取った、ブレイクスルーの光。
この光と歌声で、私は、この闇を打ち破る!
そう、強く決意した。




