第16話:過去からの囁き、絶望の誘い
ローズブレード・アブソリュートの覚醒。それは、私にとって、あまりにも大きな勝利だった。ヴォルテックス・クラッシュという強大な質量を持つ敵を打ち破り、私は、自分の力の可能性を確信したのだ。
しかし、その勝利の余韻は、短く儚いものだった。
「ほのか、身体の疲労は限界を超えています。最低でも48時間は、戦闘行動は控えるべきです」
ピュールの忠告にもかかわらず、私の心は休まらなかった。あの勝利は、ローズブレードの覚醒という、一回限りの奇跡の上に成り立っていたように思える。本当の実力ではないのかもしれない。もし、再び同じような状況に陥ったら、今度は、覚醒の力すら発揮できないかもしれない。
そして、情報戦の傷跡も、まだ深く残っていた。ファンからの信頼は回復しつつあるものの、私の心には、あの「見放された孤独」の記憶が、常に影を落としていた。
そんな中、コード・カイオスから逃れるように姿を消していたエコー・ミゼリアが、静かに、しかし確実に、私の精神に干渉を開始した。
「ヴァーチャル空間のどこにも、音がない……。静かすぎる」
私は、自分の部屋で、静寂の中に身を置いていた。少しでも大きな音を立てると、あの「絶対静寂」の恐怖が蘇る気がして、極端に静かな環境を求めていたのだ。
「マスター。外部からのノイズは感知されませんが、内部の精神活動に、極めて微細な、しかし持続的な干渉波を検知しました。エコー・ミゼリアによる、精神攻撃の準備段階と推測されます」
「わかってる……」
ピュールの警告と同時に、部屋の照明が、フワリと暗くなった。そして、私の目の前に、ホログラムのように、過去の光景が浮かび上がる。
それは、私がまだ、ヴァーチャルアイドル「ローゼ」として活動を始めたばかりの頃の映像だった。
ステージに立つ、初々しい私。観客はまだ少ない。歌声は震え、振り付けもぎこちない。
「……ローゼ、今の高音、全然出てないよ。もっと気合入れなきゃ」
「君の歌じゃ、ファンは増えないよ。もっと心を込めて歌いなよ」
それは、過去に誰かに言われた、辛辣な言葉だった。デビュー当時の、未熟で、自信のなかった私を抉る言葉。
「やめて……そんなの、もう……」
私は、目を逸らそうとするが、映像は、執拗に、私を追いかける。
さらに、映像は、痛ましい場面へと切り替わっていく。
ヴォルテックス・クラッシュとの初戦。私の光の障壁が打ち砕かれ、私が無様に地面を転がる光景。そして、ローズブレードが砕け、私の力が封じられる瞬間。
「あぁ……っ!」
あの時の絶望が、鮮明に蘇る。身体の芯から凍りつくような感覚。
「なぜ、あなたはこんなにも弱いのですか? 貴方は、人々の希望を背負う聖女なのでしょう? 脆すぎる」
エコー・ミゼリアの声が、その映像のバックグラウンドに重なって響く。その声は、私の内なる自己批判そのものだった。
「私は……弱い……」
私の心の防壁が、音もなく崩れ落ちていくのを感じた。第12話で経験した孤独。あの時、私は、他者の力を借りて、辛うじて立ち直った。けれど、今、私は一人だ。誰の助けも借りずに、この過去の失敗と後悔に、立ち向かわなければならない。
「ジャンヌ・ダルクの魂を受け継いだ? くだらない。彼女も、きっと、こんなにも無様な姿を晒していれば、私を見放したでしょう」
エコー・ミゼリアの囁きが、私の魂を直接揺さぶる。希望を信じようとする意志が、過去の失敗の重みによって、押し潰されていく。
「私の歌声は、本当に、みんなに希望を届けているの? それとも、ただ、私が歌いたいから、無理やり希望を押し付けているだけなの?」
この疑念は、私がローゼとして活動してきた根底を揺るがすものだった。純粋な願いと、自己満足の境界線。その境界線が、エコー・ミゼリアの精神攻撃によって、完全に曖昧になっていく。
「ピュール……私、もう、戦えないかもしれない……」
私の声は、限界を迎えていた。もう一度、あの絶望の淵に立たされる恐怖が、全身を支配する。
「ほのか! 落ち着いてください! それらは全て、エコー・ミゼリアが生成した、あなたを精神的に破壊するための『幻影データ』です! 真実ではありません!」
ピュールの声が、まるで遠い世界の音のように聞こえる。私は、その言葉を理解しているのに、心が付いていかない。
「真実なんて……もう、どこにあるの? 私が成功したこと(アブソリュートの覚醒)も、誰かが操作した奇跡だと言われたら、どうするの? 結局、私は、自分の力で、何かを成し遂げたことなんて、ないんじゃないの……?」
希望を信じる心が、音を立てて崩壊していく。もし、全てが、誰かの操作、誰かのデマ、誰かの都合で成り立っているのだとしたら、私の存在意義なんて、どこにもない。
エコー・ミゼリアの姿が、暗闇の中から、ぼんやりと浮かび上がってきた。彼女の周りには、無数の過去の映像が、ノイズとなって渦巻いている。
「フフフ……そうよ。お前の力は、常に『誰か』によって与えられたもの。歌声も、剣も、仲間との絆も……全てがお前の脆い精神を支えるための、データ補強に過ぎないわ。お前が真に望むのは、この苦しみから解放されることでしょう?」
彼女の言葉は、私の心の奥底の願いを的確に突いていた。戦わなくていいのなら、もう苦しまなくていいのなら、解放されたい……。
「……解放、されたい……」
その言葉が、私の口から、絞り出された。それは、ジャンヌ・ローゼとしての決意を捨て去る、甘美な誘惑だった。
ピュールが、私の傍に飛びつき、必死に訴える。
「ほのか! それは、ヴォイド・ネメシスの最も恐ろしい罠です! 貴方は、暁ほのかです! 貴方自身の意志で、希望を歌い続けてきたのでしょう!」
ピュールの必死な声が、私の意識の薄い膜を叩く。
その時、私の脳裏に、一瞬だけ、ユリの真っ直ぐな笑顔が蘇った。
「ほのかは、いつも頑張ってるもん!」
そして、アルテミスとのデュエットの記憶。互いの歌声を信じ合った、あの確かな繋がり。
「絆……!」
その言葉が、私の心を強く打った。そうだ。私がローゼとして、ジャンヌ・ローゼとして戦い続けられたのは、誰かに与えられた力だけが理由じゃない。私が、他者を信じ、他者から信じられ、その絆を求めたからだ。
「違う……! 私の歌声は、私の意志で紡いだものだ! 私の希望は、誰かのデータじゃない!」
私は、ゆっくりと立ち上がった。身体は鉛のように重く、意識は朦朧としている。だが、心の中には、確かな「真実」が宿った。
私は、エコー・ミゼリアを、冷たい視線で見据える。
「お前は、私の過去の失敗や、孤独を嘲笑うかもしれない。だが、その全ての経験が、今の私を形作っている! 私は、全てを背負って、ここに立っている!」
私の声は、まだ、か細い。けれど、その声には、以前とは違う、深い覚悟が宿っていた。
「私は、もう、誰にも見放されない。たとえ世界が私を疑っても、私が、私自身を信じるから!」
私は、ローズブレードを拾い上げた。ブレードは、まだ「アブソリュート」の輝きこそないが、私の決意に応えるように、静かに、しかし力強く輝きを取り戻していた。
「エコー・ミゼリア! お前の囁きは、もう私には届かない!」
私は、再び、心の奥底で歌い始める。それは、絶望と戦い、そして、絆を信じるという、新たな決意の歌だった。
この、過去の幻影と、自己否定の闇の中で、私は、ジャンヌ・ローゼとして、真の「心の壁」を築き上げたのだ。




