現実への回帰
闇は海のように押し寄せ、真光の意識はその中を漂っていた。
体の重みは感じられず、まるで魂だけが虚無をさまよっているようだった。
耳元で遠く近く声が響く。医者の低い囁き、阿姨の優しい溜息、そして小蘭の必死な呼び声。
「使者様! 目を覚ましてください!」
「お兄ちゃん……お願い、置いていかないで……」
その声は時に鮮明で、時に霞み、まるで異なる時空から同時に届いてくるようだった。
真光ははっと気づいた。——これは前世の葬儀でも、病院の廊下でもない。
映像が二つに分かれる。
一方は東京の古びたアパート。インスタント麺の容器が積み上がり、モニターにはYouTubeのコメントが流れ続ける。そこにいるのは膝を抱え、虚ろな目をした彼自身。
もう一方は森の小屋。揺れる蝋燭の灯りの下、蘭の母が蒼白な顔で彼を案じ、小蘭は泣き腫らした目で彼の手を強く握っていた。涙が一粒また一粒、彼の手の甲に落ち、その温かさと命の重みを刻む。
「これ……全部俺……?」真光は呟く。
闇の中に、二人の自分が現れた。
一人はだらしなく油ぎった髪、黒い隈を浮かべたオタクの真光。手には欠けたフィギュアを握り、虚ろな笑みを浮かべている。
もう一人はマントを羽織り、魔法を操る「使者の真光」。背に光をまとい、強い眼差しで闇に立ち向かおうとしていた。
ニート真光は嘲るように笑った。
「英雄ぶるなよ? お前はただの負け犬だ。阿姨の葬式すら行けなかった腰抜け。部屋にこもって、カップ麺、YouTube、フィギュア……それが世界だとでも思ったか?」
使者真光は沈黙し、低く答える。
「それでも……今、俺はここに立って、彼女たちを救った。」
「救った? 笑わせるな。飢えただけで倒れ、盗賊相手に命を削る。お前なんか勇者でも何でもない!」
「……たとえそうでも、俺はもう逃げない。」
「逃げない? 冗談だろう。大学からも、仕事からも、責任からも逃げ続けてきたのは誰だ? 死ぬときでさえ、笑ってトラックに轢かれることを選んだくせに!」
「……俺は一度逃げた。その代償に、すべてを失った。阿姨の姿は今でも夢に出てくる……もう二度と、間違えたくない。」
二人の声は魂の奥底でぶつかり合い、意識は引き裂かれる。半分は過去の腐敗に沈み、半分は未来の光を求める。
——
現実の時間は流れ続ける。
真光の額には汗が滲み、呼吸は荒く、胸は大きく上下していた。小蘭は泣きながら彼の手を揺さぶる。
「お兄ちゃん、お願い……目を開けて!」
蘭の母も目を赤くしていたが、懸命に冷静さを保ち、濡れ布巾で彼の額を拭き、布団を掛ける。震える手を止めず、小さく囁く。
「あなたは私たちのために命を懸けてくださった……どうか、生きてください。」
その声は細い糸のように彼の心を繋ぎとめる。
——
夢の中の争いは静まりゆく。
ニート真光の影はやがて薄れ、疲れ果てたように呟く。
「……本当にそうなら、今度こそ……無駄にするなよ。」
彼は背を向け、闇に溶けて消えた。
残された「使者真光」は静かに手を伸ばし、現実に触れた。
次の瞬間、闇は一気に晴れる。
——
真光は目を見開いた。
揺れる蝋燭の炎が温かく現実を照らす。目の前には小蘭の顔。彼女は涙に濡れた目で彼を見つめ、次の瞬間、声をあげて抱きついた。
「お兄ちゃん! よかった……本当に目を覚ました!」
蘭の母は大きく息を吐き、頬に涙を伝わせて祈るように呟く。
「……神よ、感謝します。」
真光は呆然とその光景を見つめ、胸の奥が熱くなった。
長い沈黙の後、かすれた声で言った。
「……久しぶりに聞いたな……『お兄ちゃん』って。」
小蘭は涙を拭い、真っ直ぐな瞳で言う。
「じゃあ、これからずっと呼ぶね。お兄ちゃん。」
真光は一瞬驚き、それから微笑んだ。
「……ああ、頼むよ。」
その瞬間、心の中の扉が開いた。
向こうにあるのはもうカビ臭いアパートや冷たいモニターの光ではない。
炎の温もり、人の絆、そして確かな生の感触。
過去のニート藤原真光は、あの事故で死んだ。
これからは、今の自分として生きていかなければならない。
彼は目を閉じ、蘭母の祈りと小蘭の呼吸を聞きながら、森の風を感じた。
それは東京の冷たい空気とは違い、土と草木の香りを含んでいた。
「……ありがとう。」
小さなその言葉は、確かに母娘の胸に届いた。