ニートNEET──廃人の記憶が甦る
闇は真光を完全に呑み込んだわけではなかった。
むしろそれは一条のトンネルのように、彼の意識をさらに深い場所へと引きずり込んでいく。
目を開けると、そこは森の小屋ではなく――見慣れすぎた、あのボロいアパートの一室だった。
壁紙は黄ばみ、天井にはひび割れ。カーテンは年中閉め切られ、部屋全体にカップ麺のしょっぱい匂いと湿ったカビの臭いが漂っている。
パソコンのモニターだけが冷たい光を放ち、画面には弾幕コメントが飛び交い、轟音のように《Re:ゼロ》のオープニング曲が流れていた。
二十二歳の藤原真光。
彼はパソコンの前に丸まるように座り込み、ぼさぼさ頭に不精ひげ、虚ろな目をしながらも画面を凝視している。
机の上には湯気の立つカップ麺。麺をすすりながら、彼は口を開いた。
「スバル何回死んでも立ち上がるとか……マジ根性だな」
「俺だったら? 最初から無敵チートで開幕だろ。世界をボコって余裕でクリアだわ」
口元には笑み。しかしその奥には拭い切れない自嘲が滲んでいた。
本棚には埃をかぶった本が山のように積み上がり、一番目立つのは『論理哲学論考』。
大学時代、卒論のために買ったものの、退学してから一度も開いていない。
分厚い埃をまとった背表紙から思い出すのは、ただひとつの謎めいた言葉だけ――
「言語の限界が、世界の限界である」。
「現実の言葉なんて、つまらねぇ」
独り言をつぶやきながら、陰陽師・晴明の限定フィギュアを指先で弄び、鼻で笑う。
「二次元こそ、俺の家だろ」
深夜の孤独は逆に彼を昂らせていた。
スマホを開けば、YouTubeやニコニコのおすすめ欄はいつも通り。アニメMAD、刀剣レビュー、ゲーム実況。
何も考えず適当に動画をタップし、いいねを押しながら呟く。
「村正カッケー! リアルでこの刀持てたら、俺だってとっくに人生勝ち組だったのにな」
彼が脳内で剣士として暴れ回る姿を想像していると、扉を「コンコン」と叩く音がした。
「真光君?」
声をかけてきたのは隣の部屋の未亡人の奥さん。五十代半ば。両親を亡くした彼を心配して、何かと世話を焼いてくれる人だ。
優しいけれど、どこか焦りを含んだ声が続く。
「そろそろ働きに出ない? 毎日部屋に籠もってばかりじゃ、お父さんお母さんも空の上で心配してるよ」
真光は一瞬、言葉を失い、やがて気のない返事をする。
「……うん。明日ね、明日。今日はちょっと疲れたから」
「毎日そればかりね……」
ドア越しに届く溜め息。
だが彼はもう画面に視線を戻し、笑みを浮かべる。
まるで二次元に潜り込めば、現実の圧力から逃れられるかのように。
「外に出ろって? 外なんてモンスターだらけだろ。求人票なんて罠かブラックしかねぇし」
小さく呟きながら、手にしたフィギュアをまるで護符のように握りしめた。
現実は曖昧で、容赦なく冷たい。
金も学歴も職歴もない。求人サイトを開くだけで、ズラッと並んだ応募条件が胸を圧迫し、息苦しくなって、結局ブラウザを閉じる。それがいつものパターンだった。
「……やっぱゲームだな」
画面を《Fate》シリーズのゲームに切り替える。
剣を振るい、エフェクトの光が弾け、敵を薙ぎ払う。
その瞬間だけは、彼の心臓は高鳴り、アドレナリンが走る。
廃人ではなく、選ばれし勇者になれた気がした。
だが勝利画面が止まり、音が途切れれば――部屋には扇風機の音と、空虚な鼓動しか残らない。
窓の外に目をやれば、黒い夜空に、黄ばんだ街灯。
厚いカーテンに遮られた彼の世界は、この数平方メートルに過ぎなかった。
「異世界に転生して勇者……いいよなぁ」
ため息と共に空のカップ麺を放り投げる。その隅には七つ八つ、同じ容器が山を作っていた。
本気で思うのだ。もしトラックに轢かれたら、次に目覚めたときは魔法もチートも手にしているんじゃないか、と。
そうなれば、誰ももう「廃人」なんて言わせはしない。
自嘲気味に笑い、首を振る。
「くだらねぇ……」
けれど胸の奥では、未だにそれを願ってしまう。
深夜、ベッドに横たわり天井を見つめる。
スマホの光が闇に刺すように映える。
掲示板を眺めれば、誰かが書き込んでいる。
「現実で廃人でも大丈夫。異世界行けば無双できる」
弾幕のように「+1」が並んでいた。
思わず吹き出し、彼も小さく呟く。
「もし本当に……」
笑い声に混じるのは、どうしようもない虚しさだった。




