飢えによる昏倒
夜は深く沈み、森の小屋の木壁がぎしぎしと鳴っていた。
卓上の蝋燭がゆらゆらと揺れ、淡い黄の光と影が室内を照らす。
だが、それはあくまで偽りの温もりにすぎなかった。
真光は床にドサッと崩れ落ち、壁に背を預けて荒い息をついていた。
胸は大きく上下し、さきほど黒衣の男を豚へと変えてラン母娘を救った力は、すでに残らず失われていた。
木の床の冷たさが衣服を通して骨の髄にまで染み渡る。
全身が震え、指先は小刻みに震えている。まだ乾ききらない血が爪の間にこびりついているが、それを持ち上げる力すら残っていなかった。
「……使者様、大丈夫でいらっしゃいますか?」
ラン母がかすかな声で尋ねる。
恐怖で顔は蒼白のまま、金の髪は乱れ、瞳には涙が光っていた。
年の頃は三十前後。だが過酷な生活がその顔に疲弊を刻んでいる。
黒衣の男につけられた首の爪痕はいまだ鮮明に残っていた。
唇を噛みしめ、真光に手を伸ばそうとする――だがためらう。
これ以上苦しませてはいけないと。
真光は無理に笑みを浮かべ、首を横に振った。
「……大丈夫。ただ……腹が、減っただけだ」
ぐぅぅぅ……。
案の定、腹が鳴る。
場が一瞬シンと静まり、小ランが思わず口元を押さえてクスッと笑った。
だがすぐにその目尻は潤んでしまう。
彼女はまだ十四歳。金色の髪がさらりと肩に流れ、明るい瞳が揺れる。
その笑顔には幼さが残りつつも、真光を案じる気持ちは隠せなかった。
「……使者のお兄ちゃん……」
小さく震える声で呼ぶ。
真光は返事をしようとした。
だが胸の空虚感はますます強まり、胃袋の飢えだけではなく全身から力が抜け落ちていく。
炎の光がゆらゆらと歪み、世界そのものがぐるぐると回り出す。
――ここで倒れるわけには……!
必死に心の中で叫んだ。
だが次の瞬間、視界は闇に覆われ、耳にはジーンとした耳鳴りしか残らなかった。
なぜ今、この記憶が……?
堤が決壊したように、忘れたはずの映像が一気に溢れ出す。
――日本。東京郊外。
――古びたアパート、陰鬱な一室。
――パソコンの画面にはYouTubeのコメントが流れ、《Re:ゼロ》のOPが轟く。
――机の上にはインスタント麺。安っぽい塩の匂いと立ち昇る湯気が、モニターの光と交錯していた。
――棚にはずらりと並ぶフィギュア。その中でも陰陽師・晴明のモデルが最も目立っていた。
「……前世、あのくだらない日々か」
心の中で真光は嘆息する。
もはや身体は支えを失い、力なく崩れ落ちた。
瞼が重く閉じかけたその瞬間、温かい腕が彼を抱きとめ、必死の叫びが耳を打った。
「使者様! どうか……どうかしっかり!」
「大丈夫だ」と言いたい。
だが唇はわずかに動くだけで声にならない。
飢えと疲労が押し寄せ、意識を丸ごと呑み込んでいく。
最後に残ったわずかな覚醒の中で、彼はかすかに笑った。
「“お兄ちゃん”か……そう呼ばれるのは……随分久しぶりだな……」
そして――闇が訪れた。