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87.インフルア

最後の山は何事もなく越えることができた、魔物も現れなかったのだ。


山道を抜けると野原が広がっている。


ここはもうインフルアのはずだった。


ジンスケは不思議そうにアイリーンに訊いた。


「ここはもうプロスペリタとインフルアの国境あたりではないかと思うのですが、国境だというのに関所のようなものは見当たりませんね?」


アイリーンが首を捻った。


「関所……ですか? それは一体どのようなものでしょう?」


ジンスケが答える。


「隣国から入国するものが怪しい物を所持していないか犯罪者ではないか、そんなこんなを取り締まる役人が常駐するのが関所です」


アイリーンはキョトンとした顔をしている。


「そういうものは聞いたことがありませんね、必要ですか?そのようなものが…」


ジンスケは頷いた。


「それは必要でしょう、それに国境がこんなに無防備ではインフルアはプロスペリタに奇襲を受けて攻め込まれたらどうするつもりなのでしょう?」


今度はアイリーンのほうが不思議そうな顔をしている。


「それはプロスペリタがインフルアに戦争を仕掛ける…そういう意味ですか?」


ジンスケは頷いた。


「そういうこともないとは言えないでしょう」


アイリーンは首を捻りながら聞き返した。


「なぜプロスペリタがインフルアに戦争を仕掛けなければならないんですか? せっかく国民も軍も貴族も平和に暮らしているというのに?」


「戦争となれば金もかかるし人も集めなければならない、戦場となれば国や農地も荒れるでしょうし、いいことなど一つもありはしません」


「なぜ、そういうこともあるかもしれないと思うのか、その方が不思議です」


ジンスケは少しムキになって言い返した。


「確かにそれはそうかもしれませんが、戦争に勝てばただで相手国の財や人を奪えるではありませんか?」


アイリーンは即座に否定した。


「タダではありませんよ、軍を動かすには莫大な金がかかります、町や村が攻撃されればその復旧にも費用が嵩むでしょう」


「ちょっとくらいの財を奪ったところで割にあうとは思えませんね」


「でも経済性のことだけではありません、何より馬鹿馬鹿しいのは人の恨みを買うことです」


「兵士には妻もいれば子もいます。兵士が殺されれば母や子のその恨みは百年たっても消えないでしょう」


「戦争に勝ち国を奪ったとして、そんな恨みを抱えた人ばかりの国を統治していけると思いますか?」


「人の恨みほど根深く恐ろしいものはありませんからね」


武芸者としての立ち合いで数多の武芸者を手にかけてきたジンスケには耳の痛い話だった。


確かに彼らの中には妻子ある者も少なくなかったろう。


中には父の仇と言って立ち向かってきた若者もいた。


ジンスケは前世では生涯独身であったが……


そこまで考えてジンスケは思った。


待てよ? 生涯と言っても前世での自分はどうなったのだろう?


この世界に来て、この新しい体で生きているということは、自分の元の体は前世のままだということだろう。


そうだとすると、事の成り行きから考えて前世では自分は死んだことになっているのではないだろうか?


あの日、あの場所で森崎甚助は宮本武蔵に切られて死んだと……


そうだとすると自分が元の世界に戻れるということは、やはりありえないのではないかと思った。


それにしても前世では剣聖・森崎甚助が宮本武蔵に敗れて切られたということになっていると考えると口惜しくてならなかった。


まっとうな剣と剣の勝負では自分のほうが全然勝っていたのだ。


宮本武蔵の剣なんて世間の噂ほどには全然たいしたことなくて、自分にとっては赤子の手を捻るようなものだった。


それなのに巷間、宮本武蔵に剣で負けたと伝聞されることは腹立たしいにもほどがある。


確かに負けは負けかもしれない。


でも武芸者同士の勝負とは一生を賭けて鍛錬してきた技のどちらが上かを競う勝負ではないか。


あんなズルみたいな勝ち方で剣聖を倒したと吹聴されるのは納得がいかない。


そんな今となってはどうでもいいことをジンスケが考えているとは露知らず、すっかり考え込んでしまったジンスケを見てアイリーンは『何かまずいことを言っただろうか?』と心配顔になっていた。


アイリーンは愛想笑いを浮かべて取りなすように言った。


「まあでもジンスケ様の言われることも判らないではありません、ただこの世界ではもう何百年も人間同士の戦争はおきていませんから皆あまり心配していないのです」


アイリーンに言われてジンスケはハッと我に返った。


今更、前世での自分の噂など気にしても仕方がないと自分に言い聞かせる。


「そうですか。しかしお互いに(いくさ)のことなど考えもしないということであれば(いくさ)も起きようがありませんね」


「それであればそれにこした事はありません」


インフルアの領内に入ったということだけれども景色は野原が広がっているばかりだ。


首都へと向かう街道さえ見当たらない。


ジンスケはアイリーンに尋ねた。


「首都のレイネールはここから先ということですが本当にあっているのでしょうか?」


「街道さえも見当たらないようですが」


アイリーンは微笑して答える。


「ジンスケ様はプロスペリタしかご存じないですからね。プロスペリタのように経済が発展した国はほかにはないのです」


「ザカトとか辺境の地域にまで街道整備がされているのなんてプロスペリタくらいのものです」


「なあに、このまま進んでいけば、そのうちに道らしきものや建物も見えてくるでしょう」


ジンスケは自分ではもうすっかり、この世界に馴染んだつもりでいたのだが、それはプロスペリタでの話であって、自分はまだまだこの世界についての認識は薄いのだと気づかされた。


しかし山岳地帯を越えてきた二人にとってはどこまでも広がる野原は平坦で歩きやすいし見通しもいい。


天気もよいので気分よく歩いて行った。


半日ほど歩いたが野原が広がっているばかりだ。


どうやらインフルアはジンスケが考えていたのより広大で大きな国家なのかもしれない。


山岳地帯の最後の山越えでは魔物が現れなかったので食料の在庫がなかった。


そろそろ腹も減ってきたのだけれどインフルアには魔物はでないと聞いている。


どうしようかとジンスケが思っていると、ようやく景色の先の地平線のあたりに煙が立ち昇っているのが見えた。


人家があるようなら食料を分けてもらえるか交渉できるかもしれない。


ジンスケはアイリーンに訊いた。


「もし人がいるようなら食料を売ってもらえないか訊いてみようと思いますが支払いはプロスペリタの金貨でも大丈夫でしょうか?」


アイリーンは笑顔で頷いた。


「大丈夫ですよ、金貨は各国がそれぞれに発行していますが全て大きさも重さも同じです」


「意匠はそれぞれ違いますが、どの国の金貨でもどこへ行っても問題なく使えますよ」


「銀貨や銅貨は国によって形や大きさもバラバラだったりするので使えない場合も少なくありませんが、金貨なら問題なく大丈夫です」


しばらく進んで行くと煙の正体がわかった。


野原にポツンと一軒家が建っている、その家の煙突から煙りが上がっているのだ。


アイリーンがジンスケを見て言った。


「こんな僻地にポツンと一軒だけ、自給自足の農家のようですね」


「農家なら食料くらいは売ってくれそうです」


「まあそもそもインフルアでは肉は一角ウサギでもなかなか手に入りずらいので野菜しかないとは思いますが贅沢は言えませんね」


美味い肉はもうたらふく食ったから……と言いたいところだが、人間の欲とはきりがないもので美味いものを知ると増々それが毎回のように食べたくなってしまう。


ジンスケは心の中で少しがっかりしながら歩いて行った。


近づいてくと予想通り農家の一軒家だった。


家の周囲は随分と広い範囲が畑として整備されている。


区画されていろいろな野菜が栽培されているようだった。


畑には人が見当たらなかったのでジンスケたちは一軒家へと向かった。


もちろんジンスケは頭巾を被って顔を隠している。


体形を見れば『男』であることは明らかなのだけれど、誰も『男』がこんな風に長旅をするとは思わないので大抵は子供だと勘違いしてしまうはずだった。


頑丈そうな大きな木の扉に金属製のリングがついている。


用がある者はこれでノックしろということだろう。


アイリーンがリングを持ってコンコンと2回ドアに叩きつける。


何の返事もなかったが暫くして突然ギイッとドアが開いた。


顏を出したのは、いかにも農家のおばさんという感じの日焼けした赤ら顔の女性だった。


だいぶ歳はいっているようだがノラさんよりは一回りくらい若いかもしれない。


「なんだい? こんなド田舎に客とは珍しいね。何か用かね?」


アイリーンが満面の笑顔で言った。


「お休みのところすみません、実はプロスペリタから山岳地帯を越えて旅をしてきたのです」


「いきなり訪問してのお願いで恐縮なのですが、腹ペコでして、もし可能であれば食料を少しばかり売ってはいただけないでしょうか?」


日焼けしたおばさんは驚いた顔をして言った。


「おやまあ、水路ではなくてわざわざ陸路で山岳地帯を越えて来たのかい? これはまた酔狂な客だねえ」


「食料といっても家でとれた野菜しかないけど、それでよければ幾らでも売ってあげるよ」


「しかし、まああがりなさい。お腹が減っているんでしょう」


どうやらジンスケを子供が腹を空かしていると同情したようだった。


二人が家に入ると小さな女の子が二人まとわりついてきた。


この家の子供でリタとリズという。


二人ともジンスケの頭巾が珍しいのか、ずっとジンスケにまとわりついている。


この家はやはり農家で、母とリタ・リズのほかに長女がいるらしいが今は町に野菜を売りに行って、必要な物を買いこんでくるために出かけているらしかった。



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