82.インフルアへ
目が覚めて、シャワーで頭を洗って、寝間着から道着と戦袴のいつもの服装に着替える。
今日がザカトでの最後の日だ。
いつものように二階の部屋を出て食堂へと階段を下りて行く。
階下の食堂にいる宿泊者たちの数もだいぶまばらになってきていた。
それでも全員がにこやかに「おはようございます」と声をかけてくれる。
ジンスケも笑顔で挨拶をかえしながら食堂の奥の指定席へと座った。
ノラが調理場から顔を出して「おはよう」と声をかけてくれる。
挨拶を返すと「いつものでいいかい?」とこれもいつもと同じ質問をされた。
「いつものでいいかい」と言ってもメニューは一種類しかないのだ。
塩味か無味か、食べるか食べないか?
そういう質問が普通だと思うのだが、ノラは必ず「いつものでいいかい?」と訊く。
この後ジンスケは旅立つので、これがノラの宿屋での最後の朝食だということになる。
ノラもそれは知っていて、それでも努めていつもと同じように接してくれる心づかいが嬉しかった。
中身の自分のほうが年上なのだけれど、やはりノラのことは母親のような存在に感じてしまう。
ゆっくりと噛みしめて、いつもと同じウサギステーキと野菜スープの朝食を楽しんだ。
食後にはいつものように香り高い紅茶をノラが運んでくれる。
「調理場にも塩の塊がまだ残ってるよ、それも持っていくかい?」
ノラが紅茶を入れながら聞いてきた。
王都から運ばれてきた塩の大岩はすでにヴェルデ領に運ばれている。
ジンスケは少し大きめの塊だけをインフルアに持っていくつもりだった。
「いえ、そんなには旅の荷物にできませんので、残りはノラさんが好きにしてください」
ノラは小さく溜息をついて言った。
「そうかい、でもあっちに行ったら宿屋をやるつもりはないんだ、こんな大きな塊、どうしようかねえ」
ジンスケは小さく笑って言った。
「拙者もそのうち戻ってくるかもしれませんので、その時には塩味でステーキを焼いて食べさせてください」
ノラは拗ねたように言った。
「だから宿屋はやらないって言ってるだろう」
「それにこっちは年寄りなんだ、いつになるのか判らないのを待ってたらすぐに死んじまうよ」
「塩味ステーキが食べたいんなら、せいぜい早くに帰ってくるんだね」
ジンスケは微笑みながら、この元気さなら百年は生きそうなくらいだと思ったけれど、それは言わなかった。
食事を終えて部屋に戻った。
旅の準備はもうできている。
準備といっても荷物はたかが知れていた。
塩の塊り、それとノラからもらった調理用のナイフ。
切れ味は悪そうだ、鬼丸を作るときにナイフも作っておけばよかったと後で後悔したが今更遅い。
あとは着替えの道着と金貨、それに火怒石が3個、腰には鬼丸。 それだけだ。
しばらくするとアイリーンがやってきた。
リフィアと一緒に来るかと思っていたが一人でやってきた。
ジンスケはアイリーンを見て思った。
(なるほど旅だとこういう風になるんだ)
「おはようございますジンスケ様、ご用意は整っていますか?」
笑顔でアイリーンがノラの宿屋に入ってきた。
いつもの水色のドレス姿だが違っているのは、上下別々のツーピースでスカートの部分がキュロットになっている。 両足首のあたりがブルーのバンドでとめてあった。
目新しいせいか、いつものドレス姿よりさらに恰好よく見えた。
何を着ても様になる人だな、ジンスケはそう思った。
「おはようございますアイリーンさん、拙者は大丈夫です、いつでも出発できますよ」
アイリーンはグルリとノラの宿屋の中を見回した。
やはりアイリーンにとってもザカトを離れるとなると、懐かしく感じる思い出も少なくはないのだろう。
「いつかまた、ここに戻って来られるようになるといいのですが……」
そう呟いて顔をあげた。
「ジンスケ様のご用意が整っているなら出発しましょうか、城門前の魔物たちは先ほどアガサやギルドの者たちと一緒に退治しておきましたから」
どうやらジンスケがのんびり最後の朝を楽しんでいる間にアイリーンは既に一仕事終わらせてきていたらしい。
ジンスケが大きく頷いて、二人はノラの宿屋の扉から外に出た。
宿屋の宿泊客たち全員がぞろぞろとその後を着いてくる。
城門へ向けて歩いているうちにザカトの町中からパラパラと人々が出てきて、その行列に加わる。
いつの間にか大名行列のような大行進になってしまっている。
城門が見えてくると、城門前にも集団で町の人々が待ち構えていた。
その中心に鮮やかな長い緑髪のリフィアがいる。
ジンスケとアイリーンが城門までたどり着くと周囲を人々に囲まれてしまった。
口々に「行ってらっしゃい」とか「気を付けて」、「お元気で」などと声をかけてくれている。
でも「さようなら」という言葉は誰も発しなかった。
プロスペリタの今の状況を考えると、ヴェルデ領へ移住する自分たちとインフルアへ行くジンスケがこの後いつかまた会える日が来るかは怪しかったけれど「さようなら」は誰も言いたくなかったのだ。
最後にリフィアがジンスケに近付き両手を握って言った。
「必ずすぐに後を追いますのでレイネールで待っていてください」
ジンスケもリフィアの瞳を見つめて頷いた。
アイリーンは何も言わず黙ってその様子を見つめている。
ジンスケはアイリーンに向きなおった、目で頷く。
アイリーンが微笑を浮かべて言った。
「それでは出発しましょう」
ジンスケもアイリーンに続いて城門を出る。
見送ってくれる町の人たちにジンスケは出せるだけ大きな声で叫んでいた。
「お元気で~、また会いましょう!!」
ジンスケたちの姿が小さくなり、やがて見えなくなるまで町の人々は見送ってくれたのだった。
田園地帯を抜けて森に入ってもジンスケたちは魔物に出会わなかった。
町の城門には雑魚とはいえ魔物が毎日のように押しかけてきているというのに、いつもは魔物の多い森を歩いても魔物が出ないのだ。
「おかしなものですね、町には魔物が来て、森では現れないとは……」
ジンスケが呟くとアイリーンも頷いた。
「出発から危険な旅になると覚悟していたのですが、拍子抜けというか……まあそれにこしたことはないのですが」
「なんだか魔物が意思をもって襲撃場所を選んでいるようで気味が悪い」
ジンスケも頷いた。
ザカトの領主のクロウヘルムが言っていた通り、魔族が計画的に魔物を操って攻めてきているのかもしれない。
ジンスケは歩きながらアイリーンに訊いてみた。
「アイリーンさんは魔族について何かご存じですか?」
アイリーンは怪訝な顔でジンスケを見る。
「魔族……ですか? 何か歴史の本で大昔には人間の他にそういう種族がいて人間と争っていたことがあると読んだような気がしますが、よくは知りませんね」
ジンスケはアイリーンを見返して言った。
「今のプロスペリタの状況は魔族が魔物を操って人間界に攻め込んでくる前兆だと言う人がいるのです」
アイリーンは小さく笑って言った。
「誰ですか、そんな子供に聞かせるおとぎ話のようなことを言うのは」
ジンスケは真面目な顔でアイリーンを見つめた。
「誰とは言えませんが、かなり見識のある方です。あながち、おとぎ話のようとも言ってはいられないかもしれません」
アイリーンはジンスケの真剣な態度に思わず、見つめ返していた。
「もしかしてゼブレでお会いになられたというエルフの大魔導士の言葉でしょうか?」
ジンスケは小さく首を振った。
「エルフの大魔導士はアポフィス殿と言われますが、彼女も同じようなことを言われていました」
「魔物地帯には魔王がいて、その魔王が魔物地帯から魔族や魔物が人間界に進出するのを禁じていたとか」
「もし、その状況が変わったのだとすると、魔物の増加は一時的なものではなくて単なる序章にすぎない」
「そしてこれから本格的に魔族・魔物と人間の大戦争が始まるのかもしれないということです」
今度こそアイリーンが驚いて目を見張っていた。
「それではバルナートやゼブレの町が滅んだのは魔物が戦争を始めたからだということですか?」
ジンスケは頷いた。
「そうかもしれぬ…ということです」
アイリーンは深い溜息をついた。
「もし本当にそうだとするなら私たちにできることなどありませんね、もうこれは女王や国軍、騎士団の話だ」
ジンスケもそれに深く頷くことしかできなかった。
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