60.それは無理です。
武士に二言はないと言いたい。
それが武士の誇りというものだ。
いや?先ほど申し出を受け入れた時点で『武士の誇り』は捨てたんだっけ?
まあいい、とにかく『武士の誇り』よりも大切なものもあるのだ。
こんな幼気な少女を抱くことはできない。
もしこの世界ではそれが普通のことなのだとしても相手は自分以外にしてもらいたい。
ジンスケはレイラ姫の目を真っすぐに見つめて言った。
「申し訳ありませんが、そういうことであればお申し出の件はお受けするわけには参りません」
その様な返事は予想していなかったのだろう、レイラ姫の瞳が大きく見開かれる。
ジンスケは続けてまくしたてた。
「お相手はマドリナ閣下だと思いお引き受けしたのです、レイラ殿下とわかっていれば最初からお引き受けはいたしませんでした」
「元服されたと言われましても、まだ殿下はお若くて拙者などがお相手を仕るには高貴すぎますし、純粋無垢に過ぎます」
横でマドリナが酷い言われようだと苦笑いしているが、先にレイラ姫本人のほうが口を開いた。
「年齢のことを言われるのであればジンスケ様も同じではありませんか、見た目だけでの推測で失礼ではありますが私のほうがジンスケ様よりも1つか2つは年が上だと思います」
「それに、このままジンスケ様に断られたとなれば私の一生の恥となりましょう」
この世界の常識では男が女の申し出を断ることなどありえないのだ。
唯一の例外は女が提示した対価の額が不十分だった場合だけだ。
今回の場合、対価については塩の返還で既に話がついている。
この世界では男が女を選別することは不遜であり不道徳の極み。
ましてや、それによって拒否された女ということになれば確かに『一生の恥』なのかもしれない。
レイラ姫の左後方に控える近衛騎士が剣の柄に手をかけた。
彼女の名前はソフィア・レーヴェン。
レイラ姫の護衛騎士だ。
舞踏会場において帯剣を許されるのは王族とその護衛騎士のみである。
ソレーヌ女王が退席した今、この会場の中で唯一帯剣しているのはソフィアだけだった。
下級貴族である女爵家の四女として生まれたソフィアは幼い時に母親から剣の才能を見いだされ、それから一心不乱に努力して元服後の最初の試験で近衛師団に合格したのだ。
入団後も剣技の修練に全力を注いできたソフィアはいつしか騎士団の中でも一二を争う剣の達人と目される様になっていった。
そしてソレーヌ女王に次女のレイラ姫がお生まれになった際に、その護衛騎士を任命されたのだ。
王族の護衛騎士となることは騎士団の中でも最高の栄誉といえる。
それ以来、十数年間ソフィアはレイラ姫が王都にいる時間はずっと姫に付き添ってきた。
レイラ姫は幼少の頃から周囲の者を思いやるその優しい性格と、何にでも勉強熱心で学門にも武芸にも秀でた王女に育った。
護衛のソフィアに対しては周囲に人がいないときにはファーストネームで呼んでくれるほどに信頼をしていてくれた。
そんなレイラ姫に対するソフィアの忠誠心は天空よりも高いと自負していた。
そのレイラ姫が今、侮辱を受けようとしている。
しかも、たかが男ごときにだ。
確かに天使かと見紛うばかりに美しい男だ。
だけれども、たかが男には違いない。
こんなところにいるよりも王都のどこにでもある娼館にいた方が明らかに似つかわしい存在だ。
そもそも男ごときが舞踏会のような公式の社交の場でレイラ姫と対等に話していることさえ分不相応なのだ。
その態度に我慢がならずソフィアは護衛騎士として平静を装いながらもギリギリと歯を食いしばっていた。
護衛騎士は帯剣を許されているといっても舞踏会場で剣をぬくことが許されているわけではない。
それが許されるのは王族の身に危険が差し迫った場合だけだ。
けれどもソフィアの我慢はもう限界に達していた。
レイラ姫はソフィアの全てだった。
それを侮辱されることは自分の全存在を否定されることにも等しかった。
だからソフィアは無意識のうちに剣の柄に手がいっていたのだ。
自分の手が剣の柄に触れたとき、ソフィアはハッと我に返った。
王族守護以外の抜刀は重大な規則違反だ、破れば厳罰が待っている。
レイラ姫の護衛騎士という役目も解任されてしまうだろう。
それでも気持ちは少しも変わらなかった。
この男は許せない。生かしてはおけない。否、生きていることが許されない存在だ。
たとえ宮中で殺生に及んだ罪で死罪となったとしても、この男を切り捨てる。
レイラ姫への態度はあの世で反省させてやる。
ソフィアは覚悟を決めて剣を抜いた。
いや……抜こうとした。
ジンスケはレイラ姫の後方に控える護衛騎士の殺気に気づいていた。
レイラ姫との会話に連れて、その殺気は増していき、そしてついに頂点に達した。
(来る!!)
ジンスケがそう思った瞬間、護衛騎士が剣の柄に手をかけた。
しかし、ジンスケから見るとその抜刀は素人同然であり、あまりにもスローモーだった。
簡単に先手が取れた宮本武蔵と比べても緩慢にすぎるくらいだ。
ジンスケは帯刀していないが、当然のことながら素手での護身術にも心得はある。
世間では『剣聖』と呼ばれているが、真の武芸者とは総合格闘技なのだ。
どんな時でも、たとえ帯刀していない場合であっても臨機応変に対応できないようでは武芸者として生き残ってはいけない。
ジンスケは護衛騎士に向けて手刀を繰り出した。
右手の5本指を第2関節で曲げ、それを護衛騎士の鳩尾に向けて高速で繰り出した。
指を延ばして突いた方が威力は強い、けれどもその場合には指を骨折する虞がある。
指の骨折は時に剣士にとっては致命的なハンデとなってしまう。
手刀が護衛騎士の鳩尾に届いたとき、護衛騎士の剣はちょうど鞘から2/3ほどが抜かれかけたところだった。
人は攻撃に移る瞬間が最も隙が大きい。
護衛騎士はジンスケに手刀で突かれたことさえも気づかないうちに昏倒していた。
舞踏会場は騒然となった。
レイラ姫とジンスケが会話をしている最中にいきなりレイラ姫の護衛騎士がその場に昏倒したのだ。
手もつかずにそのまま大女が床に昏倒したのだ、ダーンというような大音響をあげて倒れた。
誰も何が起こったのか理解していなかった。
ジンスケの高速突きは人の目にとまらぬほどに速いのだ。
すぐ横にいたレイラ姫もまったく気づいていなかった。
いきなり昏倒したソフィアを見てレイラ姫も仰天しているようだった。
慌てて、しゃがみ込みソフィアの首を支える。
死んではいない……。
レイラ姫が叫んだ。 「誰か、ソフィアをすぐに医務室へ!!」
騒ぎを聞きつけて近衛騎士が2名、ぐったりしたソフィアを抱えて退場していく。
ジンスケは動揺しているレイラ姫を見て言った。
「殿下、ちょっと今はお話ができる状況ではないようですね、この件につきましてはまた改めてご相談させていただきましょう」
レイラ姫も目で頷いた。
「そうね、そうさせてください」
あわててソフィアを運ぶ近衛騎士たちを追いかけて退場していったのだった。
舞踏会場の中で事の真相に気がついている人間が二人だけいた。
ジンスケの間近にいた騎士団長のネティルと軍総司令官のマドリナだ。
けれども二人は何も言わなかった。
舞踏会はそのままお開きとなり、貴族たちは三々五々、会場を後にしていったのだった。
ジンスケとリフィアはヴェルデ卿と一緒に帰ろうと姿を探した。
その時、ヴェルデ卿の従者のイルゼが自分のほうから二人の元へとやってきてくれた。
「ヴェルデ卿がお待ちです、さあ早く私と一緒に」
まだ多数の貴族がジンスケの一挙手一投足を見つめていたが、ジンスケたちはそれに構わず足早に会場を後にしていた。
ヴェルデ卿は自身の控室でジンスケたちを待ち受けていた。
「ジンスケ様、長居は無用です。さっさと退出して我が館まで戻りましょう」
そう言って愛刀の鬼丸を渡してくれる。
ジンスケは頷いてヴェルデ卿とイルゼの後に続いた。
ヴェルデ卿が歩きながら心配そうに問いかけてきた。
「なぜレイラ姫のお申し出を断るなどという暴挙に出られたのですか?」
ジンスケも歩きながら仕方なく答えた。
「レイラ姫は私には若すぎますので」
ヴェルデ卿は不審そうに目を細めた。
考えていることは判る。
それを言ったら、お前はいったい何歳なんだ?というところだろう。
ヴェルデ卿が、そういう意味も含めて言う。
「対価は塩でご不服はなかったのでしょう? マドリナ閣下なら良くてレイラ姫がダメという理由がまったくわかりません」
「だから拙者にはレイラ姫は若すぎてお相手するのが申し訳なかったのです」
なぜ理解してもらえないのだろうとジンスケは居たたまれない気持ちになったが、ヴェルデ卿ばかりではなくイルゼもリフィアさえも、全く理解できないという顔をしていた。
ヴェルデ卿はこれ以上は聞いても無駄だと思ったようだった。
「あの護衛騎士、貧血ですかね? 理由はわかりませんがあの騎士が突然昏倒してくれたおかげで、うやむやというか大事になりませんでしたが、ジンスケ様とレイラ姫の会話を近くで聞いていて快く思っていない者もいるはずです」
「面倒ごとに巻き込まれないうちにさっさと退散しましょう」
けれどもそう簡単にはいきそうもなかった。
舞踏会場から外への最後の出口で門番のように両脇に立っている騎士に止められたのだ。
「ジンスケ様。騎士団長より舞踏会場におとどまり頂くよう言われています」
ヴェルデ卿が『ジンスケ様はお疲れなので、また明日にでも』と取りなしてくれたが、二人の騎士は頑としてきかない。
そのうちに別の一人の近衛騎士が現れ、女王陛下の命によりお部屋にご案内いたしますと言った。
女王の名を出されてはヴェルデ卿としても如何ともしがたいのだろう。
ジンスケに目で『申し訳ない』と告げてきた。
ジンスケとリフィアは仕方がないので近衛騎士に連れられて舞踏会場へと戻り、その奥の部屋へと案内されたのだった。
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