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56.舞踏会の開宴

翌日、陽が傾き始める頃、王都はどこか落ち着かない熱気に包まれていた。


舞踏会の夜を告げる鐘の音が、中央区の塔から響き渡る。


宿の一室では、ジンスケが淡い銀灰色の礼服を身につけ、胸元の金糸の刺繍を指先でなぞっていた。


この世界では男性が社交の場に出ることはない。


なので当然のことながら男性用の夜会服というようなものは存在しなかった。


にも拘わらずマドリナが用意させたものは仕立ても完璧で、肩回りや腰の動きも阻害されない。


鏡に映るのは、この世界には存在したことがない男性の貴族の若君。


けれども、その瞳の奥には、いつもの油断のない光が宿っている。


「……ジンスケ様は何をお召しになられても本当にお似合いですね。まるで物語の中から現れたようです」


背後から声をかけたリフィアは、昨日選んだ青銀色のドレスに袖を通していた。


ゆるく結い上げられた髪に、月光石の髪飾りが光を返す。


普段の戦闘向きの装束とはまるで違う彼女に、ジンスケは一瞬だけ視線を細めた。


「そちらも似合っています。武器が剣から言葉に変わっただけですね」


「……ジンスケ様は褒め方がいちいち物騒なのだけが問題ですね」


リフィアはため息をつきつつも、頬の端に微かな笑みを浮かべた。


やがて、イルゼがジンスケたちの準備が整ったかの確認に現れた。


昨夜とは違い、彼女も深緑のイブニングドレスに身を包み、髪をきっちりとまとめている。


表情は変わらず引き締まっていたが、ジンスケを一目見て、そのまま硬直してしまった。


「し・・・失礼しました。あまりに・・・その。。。」


そのまま失神してしまいそうなほどに目が遠くを見つめているかのようだった。


イルゼが頭巾をしていないジンスケを見るのは初めてだし、ましてやそれに加えて銀灰色の礼服姿だ。


『無理もない』とリフィアは思った。


ほぼ毎日一緒にいる自分でさえもジンスケのこんな凛々しい姿を目にしたのでは胸の高鳴りが抑えられないのだ。


イルゼは呆然としたまま暫く、そこに佇み続けていた。


「イルゼさん、大丈夫ですか?」


ジススケにそう声をかけられてイルゼはやっと我にかえった。


それでもジンスケ達の舞踏会の準備を確認するという役目は頭からすっぽり抜け落ちていた。


(この男と寝るにはいったい幾らいるのだろう? 私の今の全財産はどれくらいだったかしら?)


そんなことだけが頭の中をグルグルと回っている。


イルゼの戻りが遅かったせいか、そこへヴェルデ卿が迎えに現れた。


彼女はいつもの飄々とした態度を少しだけ引き締めており、礼服の上からは上質なマントを羽織っていた。


それでもジンスケの様子を見て目を見開いた。ごくりと唾を飲む。


「お二人とも準備は整いましたね。では、参りましょう」


なんとか平静を装って、そう言うのが精一杯だった。


二台の馬車が用意されて、一台にはジンスケとリフィアが、もう一台にはヴェルデ卿とイルゼが乗り込んだ。


ヴェルデ卿とイルゼはジンスケが馬車に乗り込むまで目線を一瞬たりともジンスケから離すことができないようだった。


馬車は静かに石畳を進み、白大理石の舞踏会場へと近づいていく。


夕陽はすでに暮れかけ、夜空には初めの星が瞬き始めていた。


王宮前の広場は光の洪水に包まれ、魔晶灯が列をなし、色鮮やかな絹の衣装をまとった貴族たちが次々と馬車から降りていく。


耳に入るのは笑い声と挨拶の言葉。だが、その裏に潜む探り合いの視線を、ジンスケは感じ取っていた。


ヴェルデ卿の馬車が先に停まり二人が会場の入り口へと降り立った。


ジンスケの馬車へと近づこうとするイルゼを制してヴェルデ卿がジンスケの馬車のドアを開けて、降りるのを手伝うために手を差し伸べる。


高位貴族が自分自身で御者のように他の馬車の介助をするなど前代未聞だ。


その様子に自然と周囲の視線が集まっていた。


差し出された手を僅かにとって銀灰色の礼服を着た小柄な人物が馬車から降りてきた。


その姿を目にした途端、周囲から一斉に「ほうっ」という溜息があがった。


それに続く静寂。


その辺りだけ時間が止まったかのようだった。


ヴェルデ卿が小声で告げた。


「ジンスケ様、入場の瞬間から舞踏会は始まっています。特にジンスケ様は既に注目を集められております」


「どんな貴族でも舞踏会に出席する男性に慣れている者などいるわけもありません」


「何かあるといけませんので私がエスコートいたしますので、片時も側をお離れにならぬよう」


ジンスケは短くうなずき、リフィアと並んで舞踏会場の大扉をくぐった。


中は天井が高く、金箔を施した梁が幾重にも走り、シャンデリアが無数の光を落としている。


壁際には楽団が並び、静かな弦の調べが響く。


大理石の床に映る光の波の中、ドレスと礼服の海がゆるやかに揺れていた。


でもそれもジンスケが一歩会場に足を踏み入れるまでのことだった。


ジンスケが一歩、一歩と進んでゆくにつれてドレスと礼服の海は静止し、人々の耳には楽団の音さえも聞こえていないかのようだった。


そのすべての視線はヴェルデ卿と、その一歩後ろを歩むジンスケとリフィアに注がれていた。


ヴェルデ卿は無言で周囲左右に少しだけ視線を投げながら誇らしげに胸を張り、会場の奥へと静かに進んでいった。


誰もが呆気にとられたように静止していて、ヴェルデ卿に挨拶の言葉をかけることさえ忘れていた。



ヴェルデ卿が最奥の大階段前まで進んだあたりまで来て、ようやく人々は我に返ったようだった。


ざわり、と小さな波のような声が広がり、遠巻きの視線が再び流れ始める。


耳を澄ませば、「男?」「誰だ…」「あの服…どこの仕立て?」「まるで美の男神が地上に舞い降りたようだ」と、好奇心と猜疑心そして感嘆が入り混じった囁きが渦巻いている。


そのとき、奥の円柱の影から、一人の女性がゆったりと姿を現した。


群青色の礼服に銀糸の刺繍が施され、肩章には国防長官の紋章が輝いている。


年若いが、冷ややかに整った顔立ちと鋭い眼差しは、場にいた者すべてを黙らせるだけの威圧感を備えていた。


彼女は迷いのない足取りで近づくと、ヴェルデ卿の前で立ち止まった。


「ご機嫌ようヴェルデ卿――このお方は?」


低く、よく通る声。問いかけというより、聴衆全員に相手の素性を即座に明らかにするよう求める響きがあった。


ヴェルデ卿は一歩進み出て、応じる。


「国防長官閣下、こちらはジンスケ殿。遠方よりの客人にて特別にこの場へお招きしました」


国防長官セラの目がわずかに細まる。


彼女はジンスケを頭の先からつま先まで、隙なく観察した。


「珍しい。…この国で男性の客人を舞踏会に迎えるのは有史以来のことです」


淡々とした口調だが、その裏に探るような気配が潜んでいる。


「お立場は?」


「ただの旅人です」


「マドリナ閣下のご紹介により騎士団長のネティル・フェルミナ・アイゼルハルト公にお願いの向きがあり参上させていただきました」


ジンスケは簡潔に答える。だがセラはその返答に表情を変えず、さらに一歩近づいた。


「ならば、なおのこと――あなたの目的が気になります。ここは、ただ踊るだけの場ではありませんので」


まるで、舞踏会そのものが戦場であると言わんばかりの言葉だった。


ジンスケはその眼差しを受け止めながら、心の中で警戒心を強める。


(この国防長官、若いが……ただ者ではない――。)


この会場にいる者の中でセラだけはジンスケの容貌に心を奪われていないように思えた。


「申し訳ありませんが、それは直接に騎士団長閣下にお伝えさせていただきたく」


会場の誰もが息を飲んだ。


貴族でもない一般人が、ましてやたかが男が……一国の国防大臣の言葉に従わぬなどありえないことだからだ。


けれどもセラは小さく笑っただけだった。


「なるほど肝がすわっているようですね、噂の通りだ」


「このような場は初めてでしょうに礼法も立ち居振る舞いも見事です、それに確かに剣の柄を握る指先をしていらっしゃる。」


ジンスケの目が鋭くなった。


舞踏会には女王も出席するということで会場には王族の護衛騎士以外の帯刀は禁じられている。


ジンスケもヴェルデ卿から説明を受けて愛刀の鬼丸を置いてきていた。


舞踏会への招待はこちらの戦闘力を知ったうえで、武器を持たせないための罠だったのではないかという疑念が頭をよぎる。


ジンスケは呟くように答えた。


「たいした腕ではありません」


セラは微笑みながら言った。


「そうは聞いていませんが、まあいいでしょう。これ以上は騎士団長が来てからということで」


会場の誰もが聞き耳をたてている。


誰もが考えていることは同じだった。


王都の娼館にいる男でないのであれば、寝たければ本人に直接交渉するしかない。


けれども誰か貴族のお囲いである男であるならば、その貴族を通さずに男に直接交渉を申し出ることは重大なマナー違反だった。


それが自分よりも立場や爵位が上の貴族であれば尚更であるし、自分よりも爵位の高い者に対して男の仲介を依頼するのも通常タブーとされている。


ヴェルデ卿がジンスケを連れて舞踏会に現れるのを見た貴族たちは、ヴェルデ卿より爵位の低い者は溜息を洩らし、同等か上位の貴族は舞踏会が終われば直ぐにでも申し出ようと手ぐすねを引いていた。


それが国防長官とジンスケの会話で軍総司令官や騎士団長ともジンスケが繋がりがあるとわかって、いったい誰がパトロンなのかと、それが知りたくて躍起になっているのだ。


そんな貴族たちの焦燥感が舞踏会場に渦巻くうちに音楽が流れ始めた。

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