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36.塩のある食卓の風景

一角ウサギのステーキと野菜スープのランチを、ジンスケは満足げな表情で噛みしめていた。


程よく焼かれた肉は柔らかく、脂の乗りも絶妙で、舌に絡む塩気が味を何倍にも引き立ててくれている。


ジンスケにとって、これほどまでに食欲を満たしてくれる昼食はほかにはない。


料理を作ってくれたノラに目を向けると、彼女は少し離れた厨房から、ちらちらとこちらの様子を窺っている。


ジンスケが美味しそうに食べているのを見るたび、ノラの表情がほころぶ。


教えた甲斐があったなと、ジンスケは心の中で頷いた。


ノラはすっかり塩の扱いに慣れ、絶妙な塩加減を覚えてくれたようだった。


「しみじみ……美味い」


ジンスケは思わず口に出して呟いた。


食事とは本来、こういう幸福感をもたらすものなのだ――戦いのない日常で、じっくりと味わうことのできる食の喜び。それは、かつて殺伐とした世界に生きていたジンスケにとって、何よりも貴重な時間だった。


隣のテーブルでは、ギルド長のアイリーンとギルド職員のアガサが、ノラの宿屋の宿泊者でもないのに、わざわざ昼休みにやってきて同じステーキとスープを食べている。


二人とも、特に塩味を気に入ったという風ではなかった。


ただ、話のネタというか、「ジンスケがあまりに美味しそうに食べているので、ちょっと味見してみたい」といった軽い興味から来ているだけのようだった。


実際、ジンスケはこれまでにリフィアやエミリー、それに宿屋の常連たちなど、知り合いのほとんどにこの塩ステーキを振舞ってきた。


だが、返ってくる反応はだいたい同じだ。


「なんだか口の中がヒリヒリする変な味だね。毒じゃないよね? 毒キノコでこんな味のがあった気がする」


まるで警戒されているような言われようである。


子供の頃からずっと塩味のない食生活に馴染んできた者からすると、塩なんて何がいいのかわからないというのが正直な感想のようだった。


塩の旨さがわからないというのは、少し残念な気もする。


せっかくこの奇跡のような調味料に出会えたのに、その感動を誰とも分かち合えないのは、どこか寂しい。


だがそれでも――。


(いいさ、それでも……自分一人でも、こうして味わえるならそれでいい)


ジンスケは微笑んだ。


自分にとっては、これが小さな奇跡なのだ。


塩の存在が、今の穏やかな日常をより彩り豊かなものに変えてくれた。


あのダンジョンの深層、氷の神殿のような場所で見つけた塩――。


思い出すたびに、あの光景は胸の奥に鮮明に焼きついている。


光り輝くオリハルコンの天井。その天空を悠々と飛ぶサルセリオン。


リフィアとダリルと共に辿り着いた、フロスト・サラマンダーにより全てが氷に閉ざされた白銀の世界。


あの世界はすべてが氷と塩でできていた。


まるでこの世界の神が残した奇跡のように、何も語らず、凍てつく空間に静かに佇んでいた。


エテルカイトに感謝しないといけないなと思う。


ワイトになったエテルカイトはこの世界にきてから一番の強敵だったし、自分が倒してしまった相手なので複雑だけれど、素直に感謝の気持はある。


成仏してくれればいいなと思う。


この世界に成仏ってあるのかどうかわからないけど。



そして、ザカトへ帰還してからというもの――


ジンスケの生活は、まるで無風の水面のように静かで、穏やかな日々だった。


朝は陽が昇ると同時に目を覚まし、ノラの宿屋で朝食を取り、冒険者ギルドに出勤する。


昼にはまた宿屋へ戻り、ノラの作った塩味の昼食を楽しみ、午後は再びギルドで受付をして、日が傾く頃には帰宅する。


シャワーを浴びて、夕食を取り、愛刀の鬼丸を丁寧に磨いてから、静かに床に就く。


町の周辺から離れると強い魔物がでるのでギルドへの依頼は町内の道路の清掃とかボロくなってきた城壁の修理とかそんなのばかりだ。


たまに外に出る依頼があっても、せいぜいすぐ近くでも狩れる一角ウサギの捕獲といった、危険とは無縁のものだった。


そういうわけで依頼の数も多くないしギルドの仕事も実質昼過ぎくらいには終わってしまう。


変化のない毎日だけれどまったく不満はない。


武芸者が果し合いを申し込みに来ることもないし、塩味の食事もある。


町の人はみんな親切だし、今のところ領主からの呼び出しもない。


町の外はあいかわらず魔物が出没していたけれど、ジンスケは特に魔物と戦いたいと思わないので関係ない。


日々平安。 けっこういいものだ。


ノラの宿屋で食事をとっている者の半分くらいは塩味ステーキを注文している。


口にはあわない筈なのだけれど、それでもジンスケと同じものが食べたいということらしい。


ギルド長のアイリーンまでわざわざ塩味ステーキを食べに来ているのが解せないけれど聞いてみたら


「もちろんジンスケ様は私の推しですからね、同じものが食べてみたいにきまってるじゃないですか」


平然とした顔でそんなことをいう。


アイリーンの大人びて涼しげな横顔を見ながら「それは絶対にないな」と思う。


子供だと思ってからかわれているのだろう。


本当はアイリーンのほうが私からみたら、まだほんの子供みたいなものなのだけれど。


ただザカトの町そのものはちょっと困ったことになりつつあるらしい。


街道に強力な魔物が出没するせいで交易がまったく途絶えてしまっているからだ。


このままだと足りない物資がでてきてしまうかもしれない。


ジンスケはこの町が気にいっているので、少しはこの町の役にたちたいという気持ちはある。


もしそうなったら場合によっては自分が交易のために協力をしてもいいと思っている。


戦えることは、まだ知られたくないけれどリフィアと一緒ならなんとか誤魔化せるだろう。


交易の護衛として町の外に出るのならば。


その時は、イノシシやブタ、牛や馬のような魔物を見つけたら倒して肉をもって帰ろうと思っている。


食べてみないとわからないけれど、もしかすると一角ウサギより美味しい魔物もいるかもしれない。



ゼブレに残ったダリルはダンジョンの入り口の封印が壊されていたことを領主に報告すると言っていた。


ゼブレの領主は国から派遣された役人だと聞いているので、国にも報告がいくかもしれない。


もしかすると王都から騎士団が派遣されて、ダンジョンを片っ端から調べて再封印して回るというようなことになるかもしれないとアイリーンが言っていた。


たぶんそうなれば、この魔物騒ぎもおさまるのではないかとアイリーンは言う。



でもジンスケはアポフィスが言っていた『魔王に何かあったのかもしれない』という言葉が気になっていた。


もしそうだとしたら、騎士団がダンジョンに封印して回ったくらいでは問題は解決しそうにもないように思えるからだ。


ジンスケにも一つ思い当たることがある。


前世で戦った宮本武蔵が『自分は転生者で魔王だ』と言っていたことだ。


もし宮本武蔵がこの世界の魔王だったとするなら、逆にこの世界には魔王が不在になってしまったことになる。


その為に魔物界と人間界のバランスが崩れてしまったのかもしれない。


そうだとするなら、これからは人と魔物が戦う時代が来てしまうのかもしれない。


世界が乱れれば人の国同士でも戦争がおきることだってないとは言えない。


アポフィスの予言はそれに近いことを言っていた。



できれば巻き込まれたくないものだなとジンスケは思った。


魔物も食べる目的以外で殺したいとは思わないし、ましてや人とは戦いたくない。



愛刀の鬼丸を鞘から抜いて光にかざしてみる。


本当に曇りひとつない美しい刀だなと思う。 ミスリルすごい。


そう言えば鬼丸ではまだ人間を切ったことがないなと思い当たる。


前世では数えきれないほどの人を切ってきたので、なんだか不思議な感じがする。


この世界ではできれば死ぬまで一人の人も切らずにすめばいいとジンスケは心から思った。


今はこの平穏な暮らしを満喫したい。



宮本武蔵だって、この世界の魔王だったとは限らない。


こことは全然別の世界の魔王だったのかもしれない。


エテルカイトが言っていた落世人のユウイチという者はトウキョウという国から来たと言っていた。


トウキョウ? 全然聞いたことのない国の名前だ。


きっとジンスケのいた世界とは全然別の世界から転生してきたのだろう。


そうだとすると色々な世界がこの世には無数にあるのかもしれない。



それなら武蔵が転生したせいで、この世界の魔王がいなくなったのかもしれないという考えはジンスケの杞憂にすぎないのかもしれない。


宮本武蔵はこことは全く別の世界の魔王だったのかもしれない。


それならこの国の魔王は今も健在だということだ。


魔物騒ぎもダンジョンの封印で解決してしまうのかもしれない。


考えすぎても仕方がない、とうていジンスケに理解できるような現象ではないのだから。


とにかく今はゆっくりと寝よう。


熟睡しても、この世界では睡眠中に武芸者に襲われることなどは絶対にないのだから。




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