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35.ザカトへの帰還

塩の大岩は、ジンスケが一生かけても使い切ることはないだろうと思えるほどの、巨大な塩の塊だった。


幅は人の背丈の1.5倍、高さも同じほどあり、角ばった表面には幾何学的な結晶の模様が走っている。


それが氷の層に包まれていたわけではなく、まるで地の奥底から隆起して現れたように、重々しくその場に鎮座していた。


その存在はまさに異質で、静寂の中にあっても圧倒的な存在感を放っていた。


淡く光を反射するその白い表面は神殿の祭壇のような神聖さを纏っていた。


「どうしても欲しいと望みはしましたが、これほどのものが手に入るとは……」


ジンスケは唸るようにそう呟いた。


塩、それはこの世界に来てから今まで、どうやっても手に入らない物だった。


まさか飢えよりも塩に困る世界が存在して、そこに自分が来てしまうなどとは考えたこともなかった。


それが今、塩の大岩が目の前にまさに秘宝のように存在している。


「この大きさ……一度に全部持って帰るのは無理ですね」


リフィアが布袋の口を開け、岩の端を削るようにして、ちょうど抱えられるほどの塊を採取した。


ジンスケはその様子を見て頷いた。


(必要な分だけ持ち帰ればいいさ。また来ようと思えばいつでも来られる)


塩の大岩はここに残して行っても問題はないだろう。


この世界にジンスケ以外で塩を欲しがる者がいるとは思えなかった。


ジンスケはそう考えながら、ほんの少しだけ振り返って塩の大岩を見た。


その白さは彼の脳裏に深く焼き付けられる。


それは前世と現世で知っているどんな宝石よりも価値のあるものに思えた。



リフィアが塊を布袋に包み終えたとき、彼女がふと顔を上げて言った。


「これで、村へ帰れますね。ジンスケ様が戻ればザカトの人たち、きっと喜びますよ」


ジンスケは笑顔でうなずいた。


「……ああ。そうですね」


塩を背にして、ジンスケとリフィアは静かに無限の塔を後にした。



道中、森の空気はさらに不穏さを増していた。


濃い瘴気がゆっくりと地を這い、時折、どこかで呻くような声が響いた。


それはこの森そのものが呼吸しているかのようでもあった。


途中、彼らは何度も魔物と遭遇した。


ワーウルフ。


ゴブリン


スケルトン


さらには、二体の亡霊剣士まで現れた。


だが、リフィアは的確な攻撃で次々と敵を沈めていった。


今では亡霊剣士に対しても、「右」「左」とジンスケが声をかけるだけで、リフィアは即座に本体を切り裂けるようになっていた。


そしてある晩、森の出口近くへと差し掛かった時のことだった。


暗闇の中に、異様なほど大きな影が立っていた。


「……人か?」


思わずジンスケが問いかけると、その影がゆっくりと首を上げた。


――牛の顔。


そこにあったのは、猛牛の頭を持つ、異形の巨体だった。


「見るのは初めてですが……ミノタウロスだと思います」


リフィアが静かに言った。


「強いのですか?」


ジンスケの問いに、リフィアは首を横に振る。


「詳しい情報はありません。ただ、とにかく怪力で知られていると聞いたことが……」


だが、その答えはもはや必要ではなかった。


ミノタウロスは咆哮も上げず、ただ無言で、すぐ脇にあった巨大な大木に手をかけた。


根を揺るがしながら引き抜かれた大木が、ブンと音を立てて振り回される。


リフィアはすぐに魔法の詠唱に入った。


火球が一閃、ミノタウロスの胸に命中した。


だが、まるで火種を浴びた小石のように、それは一瞬にして黒煙を出すだけで収まってしまった。


「効いてません……!」


「拙者がやります」


ジンスケが前へと出る。


鬼丸を両手に構え、正眼の構えでミノタウロスを睨みつけた。


ズン……ズン……


地面が揺れる。ミノタウロスが、唸るような息を吐きながら歩み寄って来る。


その瞬間、大木が風を切って振り下ろされた。


ジンスケは動いた。


鬼丸が閃光のように上がり、大木の先端を一閃で両断する。


刃が堅い木を切る音はなく、ただ「スパッ」と空気が断ち切れる感触だけが残った。


ミノタウロスは一瞬、目を見開いた。


「次」


ジンスケがまた一歩踏み込み、振り下ろす。


大木の中ほどが再び斬れ、破片が空を舞う。


「……グオウッ」


ミノタウロスが咆哮を上げた。今度は、大木そのものを投げつけてくる。


だがジンスケはそれも、まるで紙を切るかのように真っ二つにしてみせた。


怒り狂ったミノタウロスが次に手に取ったのは、岩だった。


自分の体よりも大きな岩。


それを軽々と持ち上げて、渾身の力で投げつけてくる。


「……!」


ジンスケは一歩も退かず、正眼の構えから一閃。


鬼丸が放つ刃が閃光のように走り、巨大な岩がまっすぐ真っ二つに裂けた。


切り裂かれた岩が地面に落ちる轟音。 そして静寂。


風の音さえ、凍りついたように止まった。


ジンスケの一撃を見たミノタウロスは、もはや武器になりそうな物を手に取ろうとはしなかった。


その牛の瞳に宿ったのは、明らかな「恐怖」だった。


ズ……ズズ……


ミノタウロスが後退を始めた。


大きな足で、ゆっくりと、摺り足のように距離を取っていく。


そして次の瞬間、くるりと背を向け――


森の奥へ向かって脱兎のごとく全速力で駆け出した。


「……逃げた?」


ジンスケが呆気にとられたように呟く。


「まさか……魔物が人間を恐れて逃げ出すなんて、私も初めて見ました」


リフィアが笑みを漏らす。


「やっぱり……魔物も命が惜しいんですね」


「これは……他人に話しても信用してもらえそうもありませんね」


ジンスケが何か言おうとしている事を察したリフィアが手をふってそれをとどめるように言った。


「わかっています。ジンスケ様が戦える。本当は鬼神のようにお強いということは誰にも言いませんよ」


その後は強敵といえばワーウルフが巨大化したディアウルフが現れたくらいで、それもジンスケの敵ではなかった。


二人はキャンプを張ることもなく歩き続けて、そのままザカトへと帰還した。


ザカトの城門に辿り着いたとき、門は固く閉ざされていた。


周囲には人の気配も少なく、どこか緊張感が漂っている。


門番に声をかけると、彼は険しい表情のまま、かぶりを振って答えた。


「最近はますます強力な魔物が街道に溢れてきてね。ゼブレや他の町との往来はほぼ完全に断たれてるんだ。ここを開けるのも命がけさ」


その言葉に、ジンスケは胸の内で頷いた。


彼らが帰ってくる途中の様子を考えれば、それも当然だった。


だが同時に、ようやく帰ってこられたという安堵が、静かに心を満たしていく。


城門が重たく開かれ、町の中に足を踏み入れた瞬間、ジンスケの胸に込み上げてきたのは、懐かしい故郷に帰ってきたかのような感覚だった。


そして、我が家となったノラの宿屋――その木の看板を見つけたとたん、全身から力が抜けていくようだった。


宿の扉を開けると、待ちかねたように常連の宿泊者たちから「おかえり!」の歓声が上がる。


その賑やかさに少し驚いた様子のリフィアを見て、ジンスケは微笑んだ。


ノラの宿は、いつもこうだ。疲れた者を、温かく迎えてくれる。


宿屋の主人ノラが、カウンター越しに目を細めて言った。


「おかえり、ジンスケ。リフィア」


「いくらC級冒険者のお前だってねえ……ゼブレからよく無事に戻ってきたもんだよ」


リフィアに向き直り、声を潜めながらも詰め寄るように続ける。


「最近はミノタウロスやらワーウルフやらがうようよ出てるって話だし、まさかとは思うけど……ランドドレイクを見たって奴までいるんだよ」


それを聞いたリフィアは、少しばつが悪そうに頭をかいた。


「そうだったのですか……知りませんでした。」


「私たちは運が良かったのかもしれません。ワーウルフは確かに多かったですが、まあそれだけでした」


ノラは両手を腰に当てて呆れたように言う。


「まったく。あんたが死ぬのは構わないが、ジンスケに何かあったら私は泣くよ、ほんとに」


ひどい言い方にも思えたが、驚いたことに周囲の宿泊者たちまで、まるで当然だとでもいうように頷いている。


リフィアは「ははっ」と苦笑いを浮かべて肩をすくめた。


ジンスケは小さく頷くと階段へと顔を向けた。


「それでは帰ったばかりで恐縮ですが、拙者は一休みさせていただきます」


ジンスケはリフィアに深く頭を下げる。


「リフィアさん、道中の護衛、何から何まで本当にありがとうございました」


「礼なんて、いりませんよ」


そう言って笑ったリフィアの顔には少しだけ、どこか誇らしげな表情が浮かんでいた。


ジンスケは自分の部屋の扉を開けると、ふっと息をついた。


木の香りと懐かしい寝具の匂い――まさに“帰ってきた”という実感が、ようやく胸に満ちていく。


まずはシャワーだ。身体についた汗と埃を洗い流し、あとはベッド。


そして……そのあとは待ちに待った塩味ステーキだ。


楽しみにしていたご褒美タイムのはずだった。


しかし、全身の疲労が一気に押し寄せてきたのだろう。


ベッドに横になった瞬間、ジンスケは思考が途切れ、そのまま深い眠りに落ちてしまった。


目が覚めたのは、眩しいほどの朝日が部屋を照らしていた翌日の朝だった。


まるで数日も眠っていたかのような感覚に、ジンスケは軽く伸びをしながら苦笑する。


 ――こんなに泥のように眠ってしまうなんて、もう二度と剣聖には戻れそうにないな。


そう思うことが、今では不思議と嫌な気分ではなくなっている。


「悪くない」


そう一言だけ呟き、ジンスケは階下へと降りていった


温かな朝の香りと、目指す塩味ステーキが、彼を迎えてくれることを願いながら。




「おはようございますジンスケ様」


宿泊者の皆さんから、あちらこちらから朝の挨拶の声がかかる。


以前はこちらから声をかけるまでは誰もが黙っていたけれど、今ではジンスケが嫌がらないことがわかっているので皆のほうから挨拶の声をかけてくれるようになったのだ。


「おはようございます」


笑顔でジンスケが答えると、皆その100倍くらいの笑顔を返してくれるのだった。


挨拶の声でノラがジンスケが降りてきたのに気づいて話しかけてきた。


「あのまま朝まで寝ちまうなんてよっぽど疲れたんだろう。子供が無理しすぎるんじゃないよ」


「いくらリフィアがついてるからって魔物が出る道は怖かっただろうに」


「朝食は普通に食べられそうかい?」


以前とかわらないノラのぶっきらぼうな物言いが懐かしかった。


「ええと、ノラさん。 実はちょっとお願いがあって」


「へぇ、ジンスケが私にお願いなんて珍しいね」


「実はこれを肉にふりかけて焼いてほしいんですけど」


そういって塩のはいった布袋をとりだした。


ノラはそれを受け取ると不思議そうに中を覗き込んでいたが、はたと気づいたようだった。


「もしかして、これがジンスケがいつもわあわあ言ってた塩っていうやつかい」


「そうですこれが塩です。 これを肉にかけて焼いてください」


ノラは感心したように言った。


「よくこんな見たことも聞いたこともないようなものが手に入ったね」


ジンスケは笑顔で答えた。


「たまたまです、たまたまリフィアさんが見つけてくれて。よかったです」


嘘も方便だ。わざわざ心配させることはない。


ノラはまったく疑ってもいないようだった。


「そうかい。なんだかんだいってもC級冒険者だからね、たいしたもんだ」


「それじゃあちょっと待ってな、この塩とかいうのをかけて普通に焼けばいいんだね?」


「はい。塩をかける以外はいつもと同じで大丈夫です」


しばらくするとノラがほかほかの朝食の皿をもって現れた。


「初めてだから勝手がわからなかったけど言われたとおりに塩をかけて焼いてみたよ」


出てきたのはいつものウサギステーキだ。


でもそう思って見るせいか、ものすごく美味そうに見える。


たまらずに料理がでてくるやいなやジンスケはウサギステーキにがぶりと噛り付いた。


「うっ、しょっぱい。」


ノラさんが心配そうに覗き込んでくる。


「どうかしたかい?」


ちゃんと指示しなかった自分が悪い。


たぶん肉一枚にひとつかみもの大量の塩をかけてしまったのだろう。


さすがに相当に塩辛い。


それでもジンスケは嬉しかった。


たとえどんなに塩辛くても、何も味付けのないウサギステーキから解放された喜びは格別だったからだ。


「いえ、なんでもないです。美味いです。ノラさんありがとう」


そう言いながらジンスケは次回は自分でやってみせて塩加減をノラに覚えてもらおうと考えていた。




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期待のできる作品 ぜひ完結まで行ってほしい
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