34.塩の精霊
ダリルが現れた——と思った、その刹那だった。
ジンスケの視界がぐらりと揺れた。
世界が傾くような、強烈な眩暈。視界の輪郭がにじみ、音が遠のき、空間のすべてが歪んでいくような感覚がジンスケを襲った。
足元がふわりと浮いたかと思うと、次の瞬間には落下するような重力の乱れが襲いかかってきた。
――ワイトの瞬間移動魔法によって、三人は異なる階層へと強制的に転送されたのだ。
重力が戻る。足が地を踏みしめた瞬間、ジンスケは違和感を覚えた。
硬い。冷たい。湿ってもいなければ乾いてもいない。まるで滑らかで不自然なまでに平坦な氷のような床。
石でも岩でもない、人工的に磨かれたかのような異質な材質が、靴の裏からひんやりと冷気を伝えてくる。
ダリルが視線を左右に彷徨わせながら、小さく呟いた。
「……いったい、ここは……」
その声には驚きと混乱が入り混じり、すぐに後が続かなかった。彼女は言葉を失い、ただ口をわずかに開いたまま呆然と立ち尽くしている。
ジンスケもまた、瞬時に周囲の異様さに圧倒され、声を出すことすら忘れていた。
そこにあったのは、想像すらしたことのない風景だった。
天井は遥か彼方、視認すら困難なほど高く、黄金の光がその全体を染め上げていた。
無数の光の粒が上空から舞い降り、まるで太陽の中に迷い込んだような錯覚を与える。だがその光源は太陽ではなかった。
天井全体が、まばゆい輝きを放つ金属——いや、金属とは思えぬ神聖な光を宿した何かに覆われていたのだ。
足元から広がる大地は、一面の白銀。
それは雪ではなかった。凍りついた塩——氷のように硬化した結晶質の塩が、果てしなく広がっていた。
壁も、天井も、大地も、すべてが塩。だがそれらは自然にできたものではなく、意志を持って形作られたかのような美しさを持っていた。
空気は張り詰め、静寂が支配していた。まるで世界が呼吸を忘れたような静けさ。
風もない。音もない。自分たちの衣擦れすら、耳に届かないほどの沈黙。だがその沈黙こそが、この場所の荘厳さを際立たせていた。
その静寂を破ったのは、リフィアの口から響いた、別の声だった。
紫の光を帯びた瞳が、淡く輝いている。
それはリフィアの声ではなく、ワイトの声だった。
「ここはダンジョンの45階層……塩はこの場所にある」
ジンスケが驚いて声をあげる。
「ここが……ダンジョンの中、なのですか? こんなにも広く、明るい場所が……」
「まるで、まったく別の世界に飛ばされたようだ」
ワイトの声が静かに応える。
「嘘じゃない。上空を見てごらん」
ジンスケとダリルが見上げる。
果てしない天井が遥か上方に浮かび、その全体が、まばゆい黄金の輝きを放っていた。
まるで天そのものが黄金でできているかのような異質さ。
その空を、悠然と一頭の竜が旋回していた。
巨大な翼を広げ、滑空するその姿は、風も音も持たぬこの世界にあって、ただ存在するだけで圧倒的な気配を放っていた。
雪のような白銀の鱗は、天井の黄金の光を受けて虹のような輝きを放ち、その動きには威厳と神性が宿っていた。
「……あれは……サラマンダーの何十倍もある……」
ダリルが呟く。
ワイトの声が続く。
「天井が明るいのは、オリハルコンでできているからだ」
「オリハルコン……!? 光を発する金属として、伝説の中だけの存在だったはずが……」
呟くダリルの声には、畏怖と驚愕が滲んでいた。
「上空を飛ぶあの竜は、サルセリオン。別名――ホワイトリザード。だがあれは魔物じゃない」
「サルセリオンは、この世に存在する五大精霊のうちの一つ。人の力ではどうすることもできない存在だ」
ワイトの語りは、まるで長い昔話を語るようだった。
「塩のブレスを吐くが……卵を守るときだけは、天井のオリハルコンと同じ性質の輝きを放つブレスを吐く」
「サルセリオンは、今あの天井近くの巣で卵を守っている。精霊の卵は、五千年かけて孵化すると言われている」
「このフロアは、もともとはただの深層の洞窟だった。しかしサルセリオンが雛を守るために、すべてを塩で構築し直した」
「だからこの階層の空間そのものが、ダンジョンマスターの支配を超えた、特別な“聖域”なんだ」
「ここにあるすべての地形――大地も壁も空も――塩でできている。これこそ、君が求めていた“塩”だよ、ジンスケ」
ジンスケは周囲を見渡しながら、首を傾げる。
「しかし、氷のようにしか見えません。すべてが凍りついていて……塩とは思えないのですが」
「それは……」
ワイトの口調が少し柔らかくなる。
「奥にいる“フロスト・サラマンダー”の仕業だよ」
「サラマンダーと同種の竜だが、あちらは炎ではなく、凍てつく氷のブレスを吐く」
「塩でできた世界を、まるごと凍結させたんだ。奴のせいで、この神聖な空間が凍土と化した」
「サラマンダーよりも性質が悪い。攻撃範囲が桁違いで、岩陰に隠れていたって即座に凍らされる」
ジンスケは低く唸った。
「そこまでの存在となると……とても敵いそうにありません。ここまで来て、塩を得られぬとは……」
ワイトは静かに笑った。
「だがジンスケ……お前は戦いを望んでいるわけではないだろう?」
「ユウイチもそうだった。私のユウイチ……」
「……もうすぐ、私の魂も消える」
「最後に、塩を君に託したい。きっと、ユウイチもそれを望んでいるはずだから」
リフィアの紫の瞳から、静かに光が消えていった。
まるで魂が遠ざかっていくように、その輝きは淡く、儚く、そして確かな終焉の予兆だった。
胸元から、ふわりと浮かび上がった紫色の魔石が、空気を震わせながらゆっくりと回転を始める。
宙に浮かぶその光球は、まるで心臓の鼓動のように脈打ちながら、淡く強く輝きを増していく。
そして――
ワイトの声が最後に響いた。
「さようなら、ジンスケ。……君に出会えて、本当に、よかった」
その言葉は、ただの別れではなかった。
どこか懐かしさと救済の匂いを纏いながら、彼の存在のすべてがその一言に凝縮されていた。
直後、魔石の光が一気に強まる。
眩い紫の閃光が、空間すら塗り潰すかのように広がった。
「――シュッ」
鋭く、しかし小さく抑えられた音。
光が弾け、空中で煌めいたその魔石は、痕跡すら残さず掻き消えた。
その直後だった。
世界が揺れる。白銀の大地が波打ち、空間の線がたわむ。
光は塗り潰され、音も、温度も、すべてが混濁するように崩れていった。
まるで夢から覚める直前の、最後の断片のように。世界が、崩壊し、再構築される。
――そして気がつけば、ジンスケたちはダンジョン《無限の塔》の地上入り口、そのすぐ近くに倒れていた。
澄んだ空の青さが、どこまでも高く遠い。
つい先ほどまでいた神域のような空間は、まるで幻だったかのように――もう、どこにもない。
ジンスケは素早く身を起こした。
咄嗟に周囲を見渡し、近くに倒れていたダリルとリフィアの姿を確認すると、すぐに駆け寄った。
二人とも目を閉じ、意識を失っている。
けれど、命の気配はしっかりと感じられる。
ジンスケはそっとリフィアの胸元に手を当て、軽く拳を握り、深く呼吸を整える。
「――喝」
声とともに、気が流れ込む。
リフィアの胸が小さく上下し、瞼が震える。
次いで、ダリルも同様に――彼女の肩に手を添え、「喝」の一撃を加えると、ゆっくりと意識を取り戻した。
リフィアが、ぼんやりとした目でジンスケを見上げる。
「ジンスケ様……ここは……?」
まだ焦点の定まらない瞳。
そして、不安げに尋ねた。
「それに……サラマンダーは……討たれたのですか?」
彼女は、ワイトに憑依されていた間の記憶を、すべて失っていた。
何が起きたのかも、自分が何をしたのかも、まったく覚えていない。
ジンスケは、リフィアの目をまっすぐに見つめ、わずかに首を横に振った。
「……サラマンダーは、倒せなかった」
「……けれど、ワイトが現れて、拙者たちを塩のある場所へと導いてくれたんです」
「彼は……このダンジョンの奥深くで死んだ、エルフの魔導士の魂から生まれた存在だった。最後には……自らの命を消して、拙者たちをこの場所まで送り届けてくれました」
その言葉に、リフィアは目を丸くし、小さく息を呑む。
何かを言いかけて――だが、それが何であったかを思い出せないように、唇を閉じたまま、俯いた。
そのときだった。
「そんなことより、これを見ろ!」
ダリルが、唐突に声を上げる。
その声は、どこか緊張と驚愕に満ちていた。
ジンスケとリフィアが視線を向けた先に――それはあった。
大地の片隅に、まるで神々の供物のように、静かに鎮座していた白い塊。
それは氷のように硬質な光を放ち、雪のように柔らかな輪郭を纏っていた。
どこか温度を感じさせない、不思議な質感。
視る者すべてに、自然と畏敬の念を抱かせるような存在感があった。
ジンスケは無言で近づく。
腰の鬼丸を抜き、刃の先でその塊の一角をそっと削り取る。
小さな白い結晶が刃先に乗り、それを指先で摘み、舌の先に触れさせた。
――そして、短く息を吐く。
「……塩だ」
その声は、呟きに近かった。
けれど、その声音には、深い確信と安堵がこもっていた。
ジンスケの表情が、ふっと緩む。
まるで長い旅の果てに、ついに目的地に辿り着いた旅人のように。
険しい顔に、静かな喜びの光が差した。
その姿を見て、リフィアもほっとしたように微笑む。
「よかったですね、ジンスケ様……念願が、叶いましたね」
彼女の声は、温かく、どこか誇らしげだった。
ジンスケがここまで積み上げてきた努力と苦難を、そばで見てきたからこそ、心からの祝福の言葉が自然と出たのだろう。
けれど――
その場にいた三人のうち、ただ一人だけ、違う想いを胸に抱いていた者がいた。
ダリルだった。
彼女は微笑むことなく、冷たい目でジンスケの横顔を見つめていた。
(ジンスケ……本当に、あなたは人間なのか?)
彼女の心に、言葉にならぬ疑念が渦巻いていた。
あまりにも異質。
あまりにも強く。
あまりにも妖しく美しい。
その存在感は、もはや人の枠に収まるものではなかった。
あのワイトですら恐れ、サラマンダーとすら対峙し得た存在。
それが今、笑っている。
無垢な笑みで――けれど、その美しさはどこか恐ろしかった。
(まるで……災厄そのものだ)
彼の背後に立つたび、まるでこの世界そのものが揺らぐような錯覚を覚える。
彼は――もしかすると、この世界を壊しうる存在ではないのか?
否。
そんなこと、今さら考えても仕方がない。
ジンスケの力を、彼女は知っている。
まともに戦えば、何があろうと敵わない。
人間の身で、あの剣を止める術はない。
だからこそ。
(――お願いだから、どうか……)
彼女は、心の中で強く祈るように願った。
(どうか、ザカトの町で……静かに暮らしていてくれ)
ジンスケの背が、朝陽を受けて光っていた。
まるで――この世界に、決して触れてはならない何かが、そこにいるかのように。
ダリルは、ただ、彼の背中を見つめていた。
それ以外に、できることなど何もなかった。
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