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26.心眼で見る

「リフィアさん、ここは私が参ります――」


ジンスケは静かにそう告げると、足を一歩、ぬかるんだ地面へと踏み出した。


鬼丸を中段に構え、息を整える。雨が降ったばかりの森の空気は湿っており、木々の間から射す光が薄く揺れていた。


目を閉じたジンスケに、リフィアが慌てて声を上げる。


「ジンスケ様、それは――危ない!」


彼女の声をかき消すように、亡霊剣士が黒ずんだ刃を振りかぶった。


その剣は腐蝕の魔素をまとっており、触れただけでも命を脅かす猛毒が含まれている。


間合いは五尺。斬撃は一瞬で届く距離だ。


だが、ジンスケは微動だにしなかった。


亡霊剣士の振り下ろす剣が、ジンスケの額を真っ二つに断ち割らんと迫る。


その直前――


ジンスケは、ほんのわずかに左足の指に力を込め、重心を滑らかに移した。


「――残心」


低く絞り出すような気合と共に、鬼丸が左横の空間へ鋭く振り抜かれる。


それはまるで何もない虚空を斬り裂くように見えた。


だがその瞬間、ジンスケの正面にいた亡霊剣士の姿がぼやけ、霧のようにかき消えた。


同時に――鬼丸の刃先が描いた軌道の中央に、突如として本物の亡霊剣士が現れた。


「……そこか」


ジンスケの口元がわずかに緩む。


振り抜かれた鬼丸の刃が、正確に亡霊剣士の首元を断ち割っていた。


瞬間、金属と肉の斬れる音が響き、亡霊剣士の胴が上下に切断された。


下半身が音もなく崩れ落ちる。


上半身は一瞬、空中に浮かんでいたが、喉の奥に埋まっていた青白く光る核から煙が吹き出し、次の瞬間――


ぼうっ、と音を立てて炎が上がり、上半身ごと燃え尽きていった。


青黒い魔素が煙となって漂い、そして霧のように拡散していく。


ジンスケは静かに刀を下げ、目を開いた。


「消えましたね……あれが、アポフィス殿の言っていた“魔素に還る”ということか」


辺りから魔物の気配が消えていた。


リフィアが驚きと尊敬の入り混じった目でジンスケに駆け寄ってきた。


「ジンスケ様、今の……今の技は、いったい……?」


ジンスケは鬼丸を鞘に納め、雨に濡れた前髪を指で払った。


「あの亡霊剣士は、幻術を用いる魔物です。先程リフィア殿が斬っていたのは、実体ではなく幻。視覚に依存していては、決して本体に届きません」


「では、どうしてジンスケ様は……?」


「実体の位置を見極めたのです。目ではなく、気配で――魔力のわずかな流れ、草木の揺れ、空気の震え。ああいった高位の幻術は、完璧には隠しきれません。そこに刀を振るうのが、私の“残心”という技です」


リフィアは深く息をつき、ジンスケを見る目に一層の敬意を込めた。


「凄い。その剣オニマールも凄いですが、ジンスケ様はさらに凄い」


「私は今まで、亡霊剣士と戦って一度も勝てませんでした。同行した魔導士の聖魔法で怯ませて、逃げるのが精一杯……それ以外の方法があるなんて」


「人間が聖魔法以外で亡霊剣士を倒すところを初めて見ました」


「剣術だけなら、亡霊剣士は素人同然。幻さえ見破れば、それほど恐れる相手ではありません」


ジンスケはそう言ったが、決して軽く見ているわけではない。


目に見えぬ敵を“心の目”で捉えるには、相応の修行と神経の集中が必要だった。


ましてや、魔素の流れを読むには、繊細な魔力操作と洞察が求められる。


それを自然体でやってのけたジンスケを、リフィアは言葉なく見つめた。



「……これなら、本当に30階まで行けるかもしれませんね」


「え?」


「正直、最初は無理だと思っていました。ジンスケ様がなんと言おうと……でも、今の戦いを見て、少し信じられそうになったんです」


ジンスケはその言葉に、静かに目を細めた。


――やはり彼女は、本当は不安だったのだ。


それでも、ついてきてくれた。命を懸けて。


「ありがとうございます、リフィアさん」


ジンスケは地面に残された魔石を拾い上げ、それを彼女に差し出した。


「こちらをどうぞ。火怒石のお礼には到底及ばないでしょうが……お受け取りください」


リフィアは小さく驚いた顔をして、両手で魔石を受け取った。


「……本当に、ありがとうございます」


その後、魔物に出くわすこともなく、二人は静かに森を抜け、ゼブレの町へと無事たどり着いたのだった。


ゼブレの町にたどり着いたジンスケは、真っ先にアポフィスの姿を探した。


人混みの中、市場の路地裏、宿の前や教会の回廊まで歩き回ったが、どこにもあの女の影はなかった。


やはり――どこかへ姿を隠してしまったのだろう。


あの飄々とした性格からして、こちらの意図など意にも介さず、風のように消えるのも不思議ではない。


もしかすると、本当にもう二度と会うことはないのかもしれない――そう思うと、ジンスケの胸にひとつ、小さな寂しさのようなものが灯った。


一方リフィアは、町の道具屋で薬草を大量に買い込んできていた。


ふだんよりも大きめの革袋に詰め込まれた包みを手に、少し得意そうな顔で戻ってきた。


「いつもいつも、リフィアさんにはお世話のかけっぱなしで……本当に、かたじけない」


ジンスケが頭を下げると、リフィアは首を横に振って微笑んだ。


「礼などいりません。私が望んでついてきているのですから」


その口調は冗談めいていたが、目はまっすぐだった。


「それに、亡霊剣士との戦いを見て思いました。ダンジョンに潜れば、私はジンスケ様の足手まといになるばかりでしょう。だからせめて、薬草運びくらいはしますよ」


そう言って肩をすくめるリフィアの態度はどこか照れくさげで、それでも真剣な意志が滲んでいた。


どうやら――日本刀の製作、サラマンダーとの死闘、そして亡霊剣士との対峙。それらを目の当たりにするうちに、リフィアの中でジンスケは「庇護すべき存在」から「仕えるべき存在」へと、立場が変わっていったらしい。


彼女の胸中には、もはや疑いはないのだろう。


――この人なら、自分が命を預けてもいい。そう、どこかで覚悟を決めた顔をしていた。


ジンスケはその思いに気づきながらも、あえて口には出さなかった。ただ一言、小さく。


「……ありがたい」


とだけ、静かに礼を述べたのだった。


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