⑨相宮仁人の過去.3
「……なんだアイツ、マジで」
学校が終わって一度お父さんの様子を見に家に帰ってから走ってメロディーアへ来た。一秒でも長く弾きたい。ピアノの前に座り、いざ弾こうとした時に飛んできた蚊が、俺の脳内に学校であった出来事を呼び起こした。
黒瀬凛はイカれてる。カッターナイフを持ち歩いている時点で普通じゃないが、まさか蚊に刺されたところを切り付けるとは思わない。
会話すると意外と普通、と感じてもいたがそういえば先日、学校一可愛いと言われている女の子を泣かせたと噂で聞いた。性格もとっても良い子なのに最低、と女子数人が話していた。今までにも通りすがりの人にいきなりジュースをぶっかけたとか、ガラの悪い連中と揉めて相手に大怪我を負わせたとか様々な噂が絶えない奴だ。関わらないに越したことはない。今日の一件で改めてそう思った。
さて。指を乗せる。動き出した指が弾くのはラフマニノフの鐘。重々しく始まるこの曲は不穏さが漂っている。が、徐々にスピードアップしていく中で感じる情熱。ふと黒瀬の顔が浮かんだ。何でだ。そもそもどうして俺の指はこれを弾くことを選んだのだろう。もう随分色んな名曲が弾けるようになっている。昼休みに音楽室で弾いたのはショパンのノクターン第二番だった。たまたま忘れ物を取りに来た音楽教師にこれでもかと褒められ、メロディーアでももう一度、一番に弾こうと思っていたことを思い出した。それなのに。
弾き終え、息が切れる。ピアノってスポーツと変わらない。お茶を飲もうと席を立つと、入り口のドアが開いた。
「ジン」
「……よぉ」
マリアはスタスタとソファへ向かうと、おんぶ紐から眠っているリサを降ろし、寝かせた。閉じられた瞳だと長い睫毛は更に長く見える。正に天使のようだが、起きている時は悪魔のようだ。もうすぐ四歳のリサは可愛い時もあるけどめちゃくちゃ我儘で何か気に入らないことがあると手に負えなくなる。何故か俺にはとても懐いているが、それでもすんなり言うことを聞くわけじゃない。でも多分、リサだけじゃないんだろう。このくらいの歳の子供はきっとみんな大変だ。同級生でも小さい妹や弟がいる奴はそう言っている。
リサが他の子と違うのはやたらよく寝るところだ。今もそうだが、起きているよりも寝ている時間の方が遥かに長い。一年ほど前から徐々に眠る時間は増えていった。心配したシェイラさんが一度病院へ連れて行ったけど問題は見つからなかった。よく食べるしよく話すしよく動く。眠る時間が長いことを除けば至って普通だったから、ダイジョブね、とシェイラさんは笑った。むしろやんちゃな悪魔の眠りに助かっているくらいだろう。
マリアはそっとリサの髪に触れるとトイレへ向かった。昨年十八歳になったマリアはメロディーアで働き始めた。それからトイレ掃除はマリアの仕事になった。そして俺は二十一時までメロディーアに居座り、時々お客さんからリクエストを受けてピアノを弾かせてもらうようになった。弾く回数に関わらず麗さんは俺に演奏料と言って毎月決まった額を手渡してくれた。きっと違法なことなんだろうけど、麗さんは平気、と言って俺のことをお客さんには甥っ子と紹介した。年齢的におかしい気もしたけど誰も突っ込まなかった。
二十一時になるとマリアと一緒にリサを連れてアパートへ帰る。リサは眠ったままのことが多かった。アパートへ着くとマリアはメロディーアへ仕事に戻る。リサは昼間にお風呂も済ませているので俺の部屋で預かっている幼児用の布団に寝かせ、朝学校へ行く前に上の階に連れて行き、マリアの元に帰す。ありがとね、とシェイラさんも毎月俺にお金をくれるようになった。寝ているリサは手がかからないしいらないと断ったけど普通はやらなくていいことなんだから、とシェイラさんは言った。
俺は貰ったお金から少しずつ貯金を始めた。長期休みには学校に許可を取り新聞配達のバイトもする。高校に進学する為だ。そして高校生になったら沢山バイトして今度は大学へ行く為の費用を稼ぐ。ちゃんと勉強して卒業して絶対に安定した職業に就くと決めていた。
ピアノの前に座り直し、今度こそノクターン。静かで優しいメロディ。やっぱり全然違うな、と思う。学校のしっかり調律されたグランドピアノとこの壊れかけのピアノじゃ。どっちが良いとか悪いではなく、同じように弾いても溢れてくる音色は全然違う。どっちも好きだけれど、この少し響く、古めかしい音に俺の心は震える。
弾き終えると、そばにマリアが来た。
「……好き。とっても」
「……ありがと」
マリアはカウンターへ入るとグラスを磨き始めた。
「リサ、ジンと遊びたいから頑張って起きてるって言ってたのに……」
「そっか。土曜日遊ぶよ」
「……わたしも、一緒にいい? どこか出かけたい」
「え、うん。もちろん」
どこへ行こう。いつも近くの公園で遊んでいてマリアは少しだけいたりいなかったりだけど、一緒なら少し遠くへ行ってみようか。貯金から少し出して。
マリアは淡々と開店準備を進めている。いつも同じ表情だ。何をしてても。リサと接していたって。どうすれば彼女は笑うのだろう。彼女の笑顔が見たかった。俺のピアノを哀しい音、と言ったマリアは出会った時からずっと哀しい目をしたままだ。
今思えばだが、一度だけ少し表情を変えたことがある。まだ会ったばかりの頃、俺のお母さんが亡くなった時だ。俺は少しの間メロディーアに来られなくなった。毎日をぼんやりと過ごした。そんな時部屋を訪れてくれたマリアは俺を見て眉を少し下げ、その緑色の美しい瞳を少し揺らした。そして俺を抱きしめた。どれくらいの時間だったか分からないくらい長いこと、そうしてくれた。
ピアノの練習を終え、宿題をしているとシェイラさんと他のスタッフもやってきて、十八時半になると店はオープンした。お客さんはほとんどが常連で優しい人が多い。マリアがにこりともしなくても怒るような人はいなかった。俺のピアノも好評だった。
何曲か弾いて、時々更衣室のソファに移動させたリサの様子を見に行く。相変わらず天使のような顔をして眠るリサにタオルケットを掛け直し、隣に座った。
「……土曜日、いっぱい遊ぼうな」
俺が抱き上げるといつも、シェイラさんそっくりの笑顔を見せるリサを思い浮かべ愛おしい気持ちが湧いてくる。きっとマリアも笑えばそっくりなはずだ。俺が笑わせてやる。こっそりと誓う。
二十一時を過ぎて、俺は寝ているリサをおんぶした。いつもマリアが自分がやると言うが、お金を貰っているからと俺は率先しておぶった。リサはマリアと同じく小柄で、同じ歳の子の平均より軽いはずだ。実際そんなに苦では無かった。
外へ出ると梅雨明けした空には星がキラキラと光っていた。アパートまでの少しのこの時間が俺は好きだ。あまり会話はないけれどマリアの隣に並んで歩くのが、好きだ。
「……来月リサ誕生日だな」
「うん。早い」
八月五日がリサの誕生日だ。去年、麗さんが大きなホールケーキを注文してみんなで食べた。リサは小さい体で嬉しそうにたくさん食べていた。
「どうして……こんなに眠るんだろう」
「問題無かったんだろ? 寝る子は育つんだしいいんじゃない? 今にめちゃくちゃ大きくなるよ」
きっとすくすく育つに違いない。
「……どうした?」
マリアが急に足を止めて俺をじっと見た。
「……ジンもそういえばまた背が伸びたね。わたしよりだいぶ高くなってる」
中二になって急激に伸びた。個人的に手が大きくなったことが嬉しい。よりダイナミックに演奏出来る様になったと実感していた。
「……すぐ大人になるよ、俺」
自分の手のひらを見つめていると、ジン、とマリアに小さく呼ばれた。
「近いうちにわたし、結婚することになった」
「え……」
けっこん? 理解するのに時間がかかった。
「……結婚……? なんで……」
「リサが困らないように」
そう言ってマリアは初めて俺に笑顔を見せた。相変わらず哀しい目をしたままの、何かを諦めたようなそんな笑顔だった。