⑧仲間
建物の隙間から覗く空に星は見えない。その上蒸し暑いしタバコは決して美味しくはない。あと数週間で梅雨明けのはずだが茹だるような暑さ、というのも苦手で待ち遠しくもない。なんだかなぁ、と思う。明日は一番ダルい木曜か。週末しか飲まないようにしてるけど俺も頼んでしまうか、ダイキリ。立ち上がろうとした時、扉がギィっと開いた。出て来たのは田淵だ。
「あ、相宮……」
「帰んのか?」
「い、いや……その」
モゴモゴ言って、俺の二段下に座った。
「ごめん。リサちゃんに怒られたんだ。相宮は……子供の頃結構苦労してたって」
「……あぁ、まあ、そうでもないよ」
気まずそうな顔をする田淵に居心地が悪くなってくる。やっぱり酒が欲しい。
「……まさかそんな生い立ちだったなんて思わなくて……」
「いや、しょうがないさ。みんな色々あるだろ」
田淵はゆっくり首を横に振る。物凄く同情を感じるその後ろ姿にもう気にするな、と言おうとしたら、田淵が振り返りじっと俺を見た。
「そうそう無いだろ……熊に育てられるなんてさ」
「……は?」
「幼い頃に家族と山で逸れてそれから熊に育てられてたんだろ? 十歳でようやく人間の家族の元に帰れたけど……やっぱり人とコミュニケーション取れてないから上手く話せなくてピアノに打ち込んだって……だからなんだよな? 僕に遠慮なくズバッと言ったのも……」
田淵の目が少し潤む。やめろ。
「……リサがそう言ったのか?」
「僕も信じられないと思ったけど……黒瀬くんもモモさんも神妙な面持ちで聞いてたからさ」
心の中では大爆笑だろう。許さねえぞ、リサ。
「田淵。いいか、お前がヒーローに憧れるのは勝手だがここの奴らのことは信用するな。普通じゃない。リサもその類だ。アイツの言うこと間に受けるな」
「え、嘘なのか!?」
「いくらアイツらを崇拝しててリサが可愛いからって信じるお前も相当おかしいけど」
「はぁ!? じゃあやっぱり勝ち組なのかよ! なんだよ、謝ったのに」
立ち上がりまた顔を赤くして喚く田淵に苛立つよりも呆れてしまう。
「……俺を育ててくれたのは人間だったけどあんまり元気じゃなかったんだ。その上父親は人が良すぎて昔の仲間の借金を背負っちゃってたんだよな。多分必要以上に巻き上げられてて、流石に父親が完全に入院生活になった頃には取り立てに来なくなったけど……国はほとんど働けない両親を助けてくれてはいたけどそれはもう貧しい暮らしだったよ。……そんな俺を支えてくれたのがピアノだった」
「……良い先生が付いてたんじゃないのか……」
「家の近くのスナックにあった壊れかけのピアノが俺の友達だった」
「ス、スナック……」
「そこで働いてたリサのおばあちゃんやオーナーママがすごい優しくてさ。そのおかげで俺はピアノが弾けたんだ。親は元気じゃなかったけど……確かに恵まれてたな。リサは小さい頃から知ってるんだ。別に生徒と個人的に学校の外で仲良くしてるわけじゃない」
「そう、なのか……」
田淵が再び座り、眼鏡を外して大きく息を吐いた。
「……僕は負けっぱなしだ。君の言う通り、あれは単なるきっかけに過ぎなかった。本当は小学校でも中学でも虐められてたんだ。何かが、ダメなんだろうな。高校では頑張ろうと思って唯一習い続けてたピアノで役に立とうと思ったんだけど空回りだ。君はあまり人と交わろうとしないのにみんなは君が好きだったように見えた。すごく……悔しかった」
他人を羨ましく思ったことなんてないけど、時々違う人生だったらと思うことなら俺だってある。田淵の気持ちは分からなくもない。
「……これから勝ちに行きゃいいじゃねえか。その為に今頑張ってんだろ? まだ諦めない気持ちを持てるのはかっこいいと思うぜ」
「……僕でもヒーローになれるのかな」
「さぁな。ヒーローレッドはめちゃくちゃかっこいいからな。並の努力じゃ駄目かもな」
「何だよ……! そこはなれるって言ってくれよ」
顔を顰め情けない声を出す。レッドのイメージとはかけ離れ過ぎだ。
「適当なことは言えない」
「……どうして相宮はヒーローになりたくないんだ?」
大真面目に聞いてくる田淵につい眉根を寄せる。
「普通の人生でヒーローになるならないという選択肢はまず無いはずだ」
「でも僕らの人生にヒーローは現れた」
「俺は助けてもらったわけじゃないんだけど」
ハハッと田淵が笑った。肉付きのいい頬が揺れる。高校の時も含め、初めて笑っているのを見た気がする。虐められ続けた人生は辛いものだろう。
「……お前下の名前なんだっけ?」
忘れるなよ! とまた少し顔を赤くする。
「ひでおだ。……えいゆうと書いてひでお」
「英雄……良い名前じゃん」
「え……」
「なれよ、田淵英雄。ヒーローレッドに。見ててやるから頑張れ」
田淵は少し驚いた顔をして、下を向いてゴシゴシと目を擦った。
「ずっと仲間が欲しかった……僕がレッドになれたら僕は君の仲間ってことになるか?」
「……俺はヒーローじゃない。でも別に友達にはなれるんじゃないか? ……そろそろ中入ろうぜ」
何だか小っ恥ずかしくなってきて立ち上がった。扉を開けるとリサが駆け寄ってきてまた抱きつかれる。
「仁くん、大丈夫?」
俺を心配そうに見上げる顔に頷く。
「大丈夫だ、ちょっとやそっとじゃ傷つかない。なんたって俺は熊に育てられた男だから」
黒瀬とモモが声を上げて笑う。頭を小突くとリサは舌を出して悪戯っぽい笑顔を見せた。
「黒瀬、ダイキリ作ってくれ」
「お、いいの? 飲んじゃって」
「今日だけ特別だ」
「じゃああたしもー!」
「お前は駄目だ」
リサが頬を膨らませる。ここにいるのはどいつもこいつもおかしい。おかしいけどなんかちょっと面白いな、と思ってしまう俺も、もうちょっとおかしいのかもしれない。