⑦相宮仁人の過去.2
「お母さん、体どう?」
ベッドを少し起こして窓の外を見ていたお母さんに声をかける。
「仁人、来てくれたのね。今日もだいぶ良いわ」
「そう。良かった」
椅子に座ると、お母さんは目を細めた。
「何だかまた成長したみたい。かっこよくなった」
「日曜来た時も言ってたよ」
「そうだっけ」
クスクスと笑うお母さんを見て俺はホッとする。具合が悪い時は会話もままならない。
「ピアノ弾いてる?」
「うん」
「……聴きたいな。仁人のピアノ」
「近いうちに聴けるよ、きっと」
「……そうね」
しばらく会話して、少し疲れたのかベッドを倒したので俺はまた来るよ、と言って病院を去った。ここのところ調子が良いんだ。近いうちにきっと聴いてもらえる。前回聴いてもらったのはいつだったか……上達ぶりに驚くに違いない。
バス停に停まるバスを横目に走り出す。少し距離があるがお金が勿体無いからバスは利用しない。早く、弾きたい。
信号を渡れば辿り着く、という所まで来て、メロディーアのドアに誰かがもたれているのが分かった。こちらに気付くと軽く手を振った。マリアだ。昨日会ったばかりの人なのに何故か姿を見ただけで物凄く胸が締め付けられた。信号が青になると急いで渡ってポケットから鍵を取り出す。
「一人?」
「うん。今日ママ、昼間の仕事休んでリサを遊びに連れて行ってくれたの」
「マリアは行かなくて良かったの?」
そう尋ねるとマリアはじっと俺を見た。
「ジンのピアノ……早く聴きたかったから」
「……そっか」
ドキドキと胸が鳴る。ミス出来ないじゃないか。
店に入ると、マリアはピアノに一番近いソファに腰掛けた。トイレ掃除はいつも弾く前に終わらせるけど待たせるのは気が引ける。先に一回だけ弾いてその後掃除しよう。
ピアノの蓋を開け椅子に座ると、ふうっと息を吐いた。月の光はまだ完璧じゃない。
指を鍵盤に置く。左手から流れるように始まる曲。選んだのはブルグミュラーのゴンドラの船頭歌。難易度はぐっと下がる練習曲だが、カッコつけるよりちゃんと弾ける曲がいい。何よりこの美しいメロディーが好きだ。初めてラジオで聴いた時にあまりの美しさに魅了された。翌日学校の音楽の先生に頼み込んで弾いてもらった。それから何度か音楽の授業が始まる前にお願いして弾いてもらい、耳に覚え込ませ、弾けるようになった。あっという間に終わってしまうことが惜しくて、先生が弾いていたテンポより少しゆっくりにしていつも弾く。
緊張していたが弾き終える頃には胸のドキドキは落ち着いていた。完全にこの曲の世界に入り込んでいた。鍵盤から手を離すと、ぱちぱちとマリアの拍手が聞こえてきて現実に引き戻される。
「……とってもすてき」
「ありがとう」
なんだか恥ずかしくなってつい俯いてしまう。
「でも……」
でも、なんだろう、と思いマリアの方に顔を向けた。
「哀しい音がした。ジンのピアノは哀しい音がする」
「え」
そんなこと、言われたのは初めてだ。哀しい? 俺のピアノが……?
「ジン……何か哀しい?」
美しい瞳で見つめられ、しばらく身動きが取れなくなる。俺は、哀しいのか。
「……あ、ごめん。トイレ掃除しなきゃいけないんだった。ちょっとやってくる」
「手伝う?」
「大丈夫」
そう言って逃げるようにトイレに向かった。びっくりした。自分が泣いてしまいそうなことに。
ずっと仕方ないと思っていた。不安はある。だけど、仕方ない。哀しいとか辛いとかそんなこと思う間もなく、何とか生きるしかなかった。
俺は哀しい。哀しいと、思ってもいいのか。気付けば夢中で掃除していつもよりもトイレは綺麗になった。小さくポン、ポン、と音が聞こえてくる。部屋へ戻ると、マリアがピアノの前に座っていた。弾く、ではなく、ぼんやりと右手の人差し指一本で音を鳴らしていた。
「あ、終わった?」
マリアが俺に気付き席を立った。
「触っててもいいよ」
「ううん、ジン、練習して」
そう言ってマリアはソファに戻る。
「……わたしいると練習しにくい?」
「……そんなことない。好きなようにしてて」
哀しい音と言われて戸惑ったが、掃除をしていつも通り、とまではいかなくてもピアノを練習したい気持ちが戻っていた。
集中して月の光を練習しているとあっという間に時間は過ぎ、他のスタッフが来始めた頃シェイラさんもリサを連れて現れた。
「マァマ」
リサはニコニコとマリアの元に走ってきた。
「リサ、楽しかった?」
マリアが抱っこしてそう聞くとリサは叫ぶように笑った。そして何故か俺に両手を伸ばしてきた。マリアはリサを俺に預けようとする。
「え、待って。抱っこ出来るかな?」
「出来るよ。リサ軽いから」
そうじゃなくて、と思う。手を伸ばしているくせに抱っこしたら暴れたりしないだろうか。昨日凄まじい暴れっぷりを見ているので恐ろしい。それに小さな子供なんて抱っこしたことない。恐る恐るリサの体に触れる。だがリサはあっさり俺の腕の中に収まった。少し緑がかった大きな目でじっと俺を見上げて、頬を首に擦り寄せてきた。子猫みたいだ。甘いお菓子みたいな匂いがして、心がフワフワした。何故だか急に、俺がこの子を守ってあげなければいけない、という思いが沸いた。
「ジント、懐かれた」
シェイラさんが笑う。慌ただしく開店準備が始まり、俺はリサを抱いたままマリアと外へ出た。少し暗くなりつつある空の下アパートへ歩き出す。
「ジン。哀しい音だけどわたし好きだよ。ジンのピアノ」
マリアは小さな声でそう言った。
「……ほんと? いいのかな、これで」
「いいに決まってるでしょ」
哀しいなんて自分でも気付かなかった気持ちを、受け入れてもらえたようで俺は嬉しかった。マリアが聴いてくれてたら俺はもっと上手くなって哀しいだけじゃないピアノを弾けるんじゃないか。そんな気もした。
アパートの階段を上がるマリアとリサに手を振り、いつもより少し満たされたような気分で部屋へ入ると、玄関のすぐそばでお父さんが立ち尽くしていて驚く。
「どうしたの、大丈夫?」
「仁人……ごめん」
いつもながら具合の悪そうな顔でお父さんはいきなり謝った。お母さんの容体が急変して今さっき亡くなった、と消え入りそうな声でそう言った。