⑥一勝
「ヒーローイエロー、今すぐ根城に来てくれ」
久しぶり、と言ってもほんの数日だったのにスマートフォンに表示されたヒーローブラックの文字が久しく感じられつい電話に出てしまった。馬鹿か俺は。
「行かない。週のど真ん中だぞ。明日も仕事なんだ」
「ふうん。じゃあこの声を聞いても?」
そう言われ耳を澄ますと電話の遠くの方で小さく騒ぎ声が聞こえた。クソ、リサのやつ。
乗ろうとしていた電車には乗らず、反対側のホームへ回る。確かこの線だったはずだ。
スマートフォンでBAR svartと検索し、降りる駅を確認する。ホームページを見ると定休日、水曜となっていた。なるほど。リサは学校が終わるなり黒瀬に会いに行ったのか。入会案内のところをクリックすると入会金、年会費共に結構な金額が記載されていて思わず声が漏れそうになったが、あの内装とあの二人がカウンターに立つ姿を想像したらまあ妥当かもしれない。そして例え飾りだとしても美しい、ピアノ。
最寄駅で降りると足早に黒瀬の家に向かう。前を歩く丸い背中に見覚えがあり、追いついて通り過ぎざまにちらっと顔を見ると、思ったとおり田淵だった。
「あ、相宮!」
「よぉ。黒瀬のとこ行くのか?」
「そうだ……ジムに通い始めたことと、ハローワークに行った報告だ!」
「お、やるじゃん。てか五日くらいしか経ってないのにちょっと痩せたな」
「ほ、本当か!?」
一気に顔が明るくなる。いや、ほんのちょっとな、と心の中で付け加える。
「君も黒瀬くんのところへ行くのか……?」
「呼び出し食らったんだよ。マジで鬱陶しい」
「くそっ……なんで君ばかり」
「いくらでも代わってやりたい」
舌打ちして何やらブツブツ呟く田淵を置いて目的地へ急ぐ。帰ってピアノを弾くはずだったのに何が楽しくてこの一週間内で三回もこの地下への階段を降りなくてはならないんだ。
ほんのりライトアップされた木の扉を叩く。少しして扉が開いたと思えば出てきたリサに思い切り抱きつかれた。
「仁くんおそい〜」
「離れろリサ」
「なっ……!?」
その声に振り返ると田淵が目を見開いてリサと俺を見ている。
「ん? だあれ?」
抱きついたままのリサが顔を傾け田淵を見た。
「あ、もしかしてタブちゃん?」
そう言って俺から離れるとリサは田淵の前に立った。
「え、あ、えっと」
「タブちゃんでしょ? あたしリサ」
「あ、はい、えっと、た、田淵です……り、リサさん……」
顔を赤らめ何やらモジモジし始めた。
「か、か、可愛い……」
「え〜ありがと〜!」
蚊の鳴くような声で言った田淵の手をリサが握った。田淵は茹蛸のようになっている。
「おい黒瀬。リサに飲ませてねえだろうな。やたらテンション高いぞ」
カウンター内の黒瀬に声をかけるとまさか〜と返ってきた。
「ただのノンアルカクテルだ。モモちゃんと遊んでたら楽しくなっただけだよ」
「そうだよ〜仁くん」
「モモちゃんと何して遊んでたんだ?」
「ネイルしてあげただけよ〜。心配しないで、仁ちゃん」
そうニッコリ笑うモモにリサがクスクスと笑っている。リサの爪は鮮やかな緑色をしている。
「く、黒瀬くん」
「よ〜タブちゃん。ちょっと引き締まったんじゃない?」
「本当!?」
またしても明るい表情を見せた田淵に、いや気のせいかな、と遠慮なく黒瀬は言った。
「まあ何事も継続が大事だ」
「はい……! 頑張ります! 仕事も、頑張って探してて……」
田淵はそう言って眼鏡を掛け直した。
「頑張るじゃん。期待してるぜ? 何たって残る枠はただ一つ……ヒーローレッドだから」
「え!?」
目を丸くする田淵に黒瀬は笑顔で頷いた。
「ぼ、僕が……? レッド……!?」
「相当頑張らないとだわねぇ、タブちゃん」
モモが田淵の前に移動し、田淵を見下ろした。
「は、はい! 頑張ります!」
フフっとモモは笑うと、ダイキリちょーだい、と黒瀬に注文を入れた。
「オッケー。仁人くんとタブちゃんは? 何か飲む?」
「僕は……やめておきます。しばらく断酒です」
「偉いねぇ。まあタブちゃん悪酔いするから懸命な判断だ」
「俺はリサ連れてすぐ帰る」
「え、やあだ」
リサはモモの腕にしがみつき俺を睨む。
「やだじゃない。明日も学校だ。遅刻続きだろお前。その爪もアウトです」
「え、ええ、まさか相宮の学校の生徒、とか……? こ、高校生?」
田淵がワナワナと震えている。なんでいちいち漫画みたいなんだ、コイツは。
「まあ、そうだ」
「じ、自分の学校の生徒と学校の外で仲良くしてるのか……? あり得ない、君ってほんとう……」
「いやそれはちょっと誤解だ。リサは」
「相宮先生今日も大人気だったなぁ〜。みんな問題解けないフリしちゃって」
リサがわざとらしく上目遣いで俺を見る。
「純粋に分からなくて聞きに来てるだけだ」
「わざわざ放課後に? 熱心〜。勉強以外のことも聞かれてるくせに」
「ある程度のコミュニケーションはこっちにとっても必要だ。問題ない」
「ふうん、コミュニケーションねえ」
そう言ってリサはモモに抱きつく。
「ももたろうから離れなさい」
「モモちゃんって呼んでちょーだいって言っただろうが」
モモがリサの髪を撫でながら苛立ちを隠さない口調で言った。
「ほらほら喧嘩しないの。はい、サマーデライトだ。サッパリしてくれ」
黒瀬がカウンターに三つ、淡い赤に染まるグラスを並べた。モモちゃんはこれね、とダイキリをモモに手渡す。
「せめて飲み終わってから帰ってくれ。仕事をお願いしたくて呼んだんだ」
「じゃあ即飲み切るよ」
「あたしゆーっくり飲も」
グラスを手に取るとリサはカウンター席に腰掛けた。舐めやがって。仕方なく俺も座ると離れたところに田淵も座った。
「あるお宅の庭を綺麗にしてきて欲しい」
「庭?」
「ここ数年手入れ出来ていないらしい。本格的に夏に入る前にそれをヒーローイエローに何とかしてもらいたい。一人で大変ならグリーンも連れて行ってくれ」
「あたし行く」
リサがグッドサインを黒瀬に向けた。
「ちょっと待て。それがヒーローの仕事?」
「困ってる人を助けるんだから間違いないさ」
黒瀬は毒々しい紫色のカクテルを口に含んだ。
「なんだそれ。便利屋みたいなとこに依頼してやってもらうべきだろ」
「依頼出来るお金が無かったらどうすんだよ。依頼人はオレの知り合いなんだ。助けてやりたい」
「お前の知り合いならお前が助けろ。ボランティアだろ、それ」
「オレはこの間話した件がまだ片付いていない。他にも仕事はあるし。そっちをグリーンに回してもいいのか?」
「いいわけねーだろ。リサを利用すんじゃねえ。お前を慕い助けてくれる人間はいっぱいいるんだろ。そいつらに頼めよ」
「君が行くことに意味がある」
あるわけ、ない。
「いーよ、いーよ。仁くん。あたし一人で行くから」
「ふざけるな。お前は行かなくていいんだよ」
「あたしもう場所も聞いてるし仁くんが何言っても無駄」
舌打ちすると黒瀬はフッと笑って毒を飲み干した。
「決まりだな」
「暇じゃねんだよ、俺は」
俺が席を立ちかけた時、バンっと大きな音が響いた。田淵がカウンターテーブルを思い切り叩いた音だった。顔を真っ赤にしている。
「贅沢なんだよっ! 頼られてその態度か! ……いつもいつも君ばかり」
「なあに、タブちゃん。ノンアルで酔っちゃったの?」
モモが呆れた顔を見せる。
「恵まれ過ぎなんだよ……きっと生まれながらにそうなんだろ? 何の苦労もせずさ。ピアノだって良い先生付けてもらえりゃあんな風に弾けるんだろうな。みんなにチヤホヤされてそれが当たり前みたいな顔しやがって」
……してねえよ。
「勝ち組ってやつだ、生まれた時から。ああ羨ましいよ。そうだ、僕は君が羨ましい」
田淵はそう言い切るとグラスの残りを飲み切った。息が荒くなっている。ブタが。
「……そう思ってもらえるなら、俺はここで一勝だな。ちょっと外の空気吸ってくるよ」
まだ中身が残っているリサのグラスに目をやり席を立った。
「仁くん……」
「黒瀬、タバコ一本くれ」
「仁人くん吸うのか」
「たまにな」
黒瀬からタバコとライターを受け取ると外へ出て階段に腰掛けた。久しぶりに吸う。イライラした時も解決してくれるのはピアノだが時々、吸いたくなる。
火をつけて気付く。これは麗さんが吸っていたタバコと同じだ。立ち上る煙にあの頃の記憶が蘇る。もう一度、あの壊れかけた茶色いピアノが弾きてえな。