⑤相宮仁人の過去
「ジント、また上手くなった、ピアノ」
大きな口でにっこり笑うと大きなえくぼが出来た。四十半ばになるけどもっと若く見える。フィリピン人のシェイラさんの笑顔は明るくてあたたかくて、みんなを幸せにしてくれる。
「シェイラさんのおかげ」
「ジントが弾いてくれて喜ぶ、ピアノも」
そう言って年季の入った茶色いアップライトピアノに触れた。壊れかけで出にくい音があるし、なんだかぼんやり響いた音色だし、鍵盤は驚くほど軽い。聞く人が聞けば若干上ずっているような音は気持ち悪いかもしれない。だけど小さな電子ピアノを音量を絞って弾いていた俺からすれば十分だ。学校では昼休みに音楽室のピアノを借りて、学校が終わると家に帰ってからすぐここへ来る。
俺が父親と住む小さなボロアパートの真上の階に住んでいるシェイラさんに、夏場窓を開けて弾いていた電子ピアノの音が聞こえていたらしい。二年ほど前シェイラさんは自分が勤めるスナックのオーナーに頼んでスナックに置かれているピアノを開店前までの時間、俺が使ってもいいようにしてくれた。
アパートから徒歩十分ほどのスナック『メロディーア』は赤茶色の内装にチープな照明と、レトロ感満載の造りで、オーナーママの麗さんは八十近い派手なおばあちゃんだ。メロディーアの二階に住宅を構えていて、娘夫婦と共に暮らしている。
シェイラさんが俺の話しをすると二つ返事でピアノを使うことを許可してくれ、あっさり合鍵まで持たされた。小学生を信用するのかと驚いたが、小学生だからこそ信用されたのかもしれない。それから、トイレ掃除だけはお願いよ、と麗さんに言われ俺はピアノを弾く前に必ずトイレ掃除をしている。ただで使わせてもらうのは悪い気がするし、トイレ掃除くらいなら出来るからサボったりはしない。
「パパとママの調子どうなの」
シェイラさんは化粧をしなくても十分くっきりした顔にメイクを施しながら目だけ動かして俺を見た。
「お父さんは昨日は仕事行けたんだけど……やっぱりしんどいみたい。お母さんはまだしばらく退院出来ない」
「そう……ジント、大丈夫? ご飯食べれてる?」
「大丈夫。叔母さんが時々レトルト食品とか送ってくれる。学校の給食はおかわり出来るし」
「何かあったらアタシに言いな」
シェイラさんだってフィリピンへの仕送りの為に昼間も別の所で働いているというのに。優しくまたえくぼを作るシェイラさんにお礼を言うと俺はピアノに向き直った。まだ開店まで少し時間がある。
今練習しているのはドビュッシーの月の光。三年前の誕生日、お父さんの姉である叔母さんがクラシックピアノ名曲集の二枚組CDをプレゼントしてくれた。いとこが使わなくなったCDプレイヤーと一緒に。それから毎日のように寝る前にイヤホンをして弾きたいと思った曲を繰り返し聴いた。
小さい頃からピアノの音が大好きだ。幼稚園で初めて先生が弾いているのを聞いて以来その音色の虜になった。五歳の時に初めてねだって買ってもらったのが四十四鍵の小さな電子ピアノだった。本当は本物のピアノが欲しかったけれどそれが無理なことは五歳の自分も分かっていた。
両親共に身体が弱かった。まだその頃はお父さんは今より元気ではあったが、お母さんは入退院を繰り返していたし、徐々にお父さんも寝込むことが増えていった。今は日雇いの仕事に行ける時に行く。遠方に住む叔母さんが俺を引き取ると言ってくれたが断った。叔母さんには五人も子供がいるし、自分がそこに馴染めるとは思えなかった。
楽譜はそれほど読めない。音楽の授業でなんとなくは分かったけれど、そもそも弾きたい曲の譜面を手に入れられないので耳で聴いて覚えていくしかない。完璧に弾くには難しいけどまず簡単にして、とりあえず最後まで弾き終える。それを繰り返し、徐々にCDで聴く通りに仕上げていく。自分で言うのもなんだがセンスはあるんじゃないかと思う。独学で小学六年生でここまで出来れば……いや、まだまだだ。月の光はもう一年近く毎日練習しているが、まだ完璧とは言えない。弾けると言い切れる曲もまだ少ない。もっと。もっとたくさんの曲をこの指で弾きたい。
十八時近くになるとシェイラさん以外のスタッフもチラホラやってきて、俺はいつもこれくらいで練習を切り上げる。ピアノに蓋をして立ち上がると、麗さんがカウンターにいることに気がついた。麗さんは開店準備をスタッフに任せてギリギリの時間に来ることが多いので会うのは久しぶりだった。
「麗さん、こんばんは」
「仁人ちゃんこんばんは。将来有望ボーイね、あんた」
タバコをふかしながら真っ赤な唇で麗さんは言った。
「そうかな」
「男前になるよ。ピアノ上手いし真面目そうだし。トイレ掃除も完璧だ。三十歳若けりゃ結婚してやったのに」
そう言ってイヒヒと笑った。七十歳は若くしてもらわないと困る。
「アタシもジント、良い大人になると思う。今生活大変だけどきっと大丈夫になるよ」
シェイラさんがおしぼりを畳みながら言った。
「シェイラちゃんもさ、頑張ってるよ。家族のために。いつか楽になるね」
「レイさん、メロディーアで働けてシアワセ」
シェイラさんがクシャッと笑う。俺も頑張ろう、と思う。
「そういえば最近小さい子供の声が聞こえるけど誰か来てるの?」
今日も朝、学校へ行く前に泣き声が上の階から聞こえたことを思い出し、シェイラさんに尋ねた。
「ごめんね、ジント。メーワクしてる? 娘がね、子供連れてこっち来ることになったのよ。急だったんだけどね」
少し眉を下げてなんだかちょっと泣きそうな笑顔でシェイラさんは言った。
「あ、噂をすればだよ」
麗さんがタバコで入口の方を指した。
「マリア」
そう小さく言ってシェイラさんは小走りで入口へ向かった。
「マリアどうしたの」
「ママ、ごめん。適当に散歩してたら家分からなくなった。そしたらここ見つけたから」
「そう。ここにいる? あ、それか……ジント、もう帰る?」
シェイラさんが俺を見る。同時にマリアと呼ばれたその人も俺を見た。一瞬、時が止まったように感じた。緑色の大きな瞳がじっとこちらを見つめている。美しい色だけど、なんだか哀しい感じがした。シェイラさんと同じ小麦色の肌も健康的に見えるはずなのに、華奢だからか儚ささえ漂っている。
「俺……帰るよ」
「彼はジント。同じアパートに住んでる。道、教えてもらう?」
「……うん。そうする。行こう、リサ」
そう言って彼女は隣でニコニコと笑っていた小さな女の子を抱き上げた。マリアによく似た、猫のような目をした女の子だ。髪は根元の方からクルクルと綺麗にカールしている。
「可愛いリサ。ママの言うこと聞いてね」
シェイラさんはそう言うと、リサと呼んだその子の頬を優しく撫でた。
「ジント、よろしくね。娘のマリアと孫のリサ」
「うん。じゃあね、シェイラさん」
俺が店を出るとリサを抱いたマリアも後ろを着いてきた。
「……俺、相宮仁人」
「アイミヤ、ジン、ト」
小さな声でマリアはそう繰り返した。
「……ジント……ジン。ジンが呼びやすい」
「何でもいいよ」
「何歳?」
「十一。小学六年」
「……大人っぽい。わたしもうすぐ十七歳。リサは二歳」
表情はあまり変えなかった、と自分では思うけど驚いたことは伝わってしまったようだった。
「十五で産んだ」
「……そっか」
なんて言っていいか分からずそれだけ言うと俺はアパートへ歩き出した。
「……あれ? 日本語すごい上手いけど、ずっとフィリピンにいたんでしょ? シェイラさんの旦那さん……マリアの……父親が日本人ってわけではないよね?」
聞いておきながらそんなはずはないよな、と思う。もしそうならシェイラさんは一人で日本に出稼ぎには来ないだろう。
「あの人が何人か知らない。緑の目はあの人の遺伝。だからあんまり、好きじゃない……リサの父親はフィリピンに来てた日本人。日本に来る時のためにもっと日本語勉強したくて近づいたの。でもリサは会ったことないよ」
なんだか複雑でよく分からない。
「小さい頃から日本人が集まる場所時々行ったりした。こっそり話し聞いてちょっとずつ覚えた。ママにも日本語の本送ってもらったし」
「……すごいな」
かなり流暢で何ならシェイラさんより自然な気もする。
「何で日本に来たかったの?」
「……ずっと逃げたかったから。リサ産まれてもっとそう思った」
淡々と、マリアはそう言った。それ以上はなんとなく聞けなくて俺は黙って歩いた。リサが機嫌良く何か歌っていたから気まずくはなかった。
「……ジンはなんであそこにいたの」
アパートが見えた頃マリアが言った。
「ピアノ借りてるんだ。シェイラさんが頼んでくれて使わせてもらえるようになった」
「ママが……そう」
「着いた。じゃあ」
アパートに着き俺がそう言いかけた時、ご機嫌だったリサが暴れ出した。マリアがしゃがみリサを降ろすと地面にひっくり返り泣き出した。あまりの声量に驚く。
「……まだ入りたくないのね。最近多い、こういうの」
マリアがふうっと息を吐いた。アパートのどこかの部屋からうるせえ、と声が聞こえた。
「しょうがない。リサ、もう少し散歩しよ」
「大丈夫?」
「迷わないところで歩いてる。ありがと」
そう言ってマリアはリサをもう一度抱き上げた。リサはまだ暴れている。
「ジン。今度ピアノ聴かせて」
「うん。毎日あそこで練習してる」
「分かった」
マリアはよしよし、とリサの頭を撫でながら歩き出した。リサはピタリと泣くのをやめ、俺に手を振った。振り返すとまたニコニコ笑い、歌い出した。天使のような見た目なのに爆弾みたいで大変だな。
部屋へ入ると珍しく電気がついていた。台所にお父さんが立っている。
「おお、仁人、おかえり」
「ただいま。体平気なの?」
「今少しマシになって……ラーメン作ってるんだ。食べるか?」
そう言って激しく咳き込みだす。
「あとやるから座ってて」
体を支え、台所のすぐ後ろのちゃぶ台の前に座らせる。
コンロの鍋を見るともやしがたくさん入ったスープが湯気を立てていた。開けかけの袋から麺を取り出しスープの中に入れる。ほぐして半分お椀に盛ると、ちゃぶ台に置いた。面倒なので自分の分は鍋のままだ。
「仁人……ごめんな、色々」
「大丈夫だよ。ちゃんと食べて寝て。明日学校終わるの早いからお母さんのお見舞いも行ってくる」
「……ありがとう」
「……あの変な男達、来てない?」
「あぁ……仁人は何も心配しなくていい」
「わかった」
俺が食べ終わってもお父さんはなかなか食べ終わらず結局少し残して、すぐ横になった。
片付けながら台所の小窓の前に置いてある家族三人で写る写真を見る。俺が三歳の時のだ。今の痩せているお父さんとは全然違う。お母さんもまだ元気そうだ。でもあんまり覚えていない。
時々この状況は何なのだろう、と思う。俺が一体何をしてしまったんだろうかと。両親を責める気持ちは勿論ない。だけどこれからどうなるのだろうという不安が常に俺を襲う。
頭を振り、大丈夫だ、と言い聞かせる。俺にはピアノがある。ピアノの音色を聴いている時、弾いている時は不安が小さくなる。大丈夫だよとあの美しい音が慰めてくれる。
ふとマリアの顔が浮かんだ。もう戻ってこれただろうか。もうすぐ十七歳と言っていた。まだ、十六歳。学年で言うと俺とは五個しか変わらないことになる。あのシェイラさんと血が繋がっているとは思えないほど彼女には影があった。哀しみに包まれていると、そう思った。どんな気持ちで日本へやってきたのだろう。明日もお見舞いの後メロディーアに行くつもりだが、マリアはピアノを聴きに来るだろうか。俺のピアノを聴いたら少しは彼女を癒せるだろうか……いや、そんなこと求められてもいないのに。でも何故か聴いてもらいたいと思ってしまう。俺のピアノを、マリアに聴いてもらいたい。