③ニューヨークスタインウェイ
「バーテンダーなの? 二人とも。超かっこいいじゃん」
リサが目を輝かせる。つい昨日の夜居た地下一階のこの場所は昼間でも昨夜と同じ雰囲気のままだ。
「オレらが正装してお酒作る姿はそりゃもうとんでもなくカッコいいよ。全人類恋に落ちるね」
黒瀬は全く謙遜することなく言った。恋に落ちたらもれなく地獄にも落ちるに違いない。
「リサ。未成年が居ていい場所じゃない。今すぐここを出てこいつらのことは忘れろ」
「ヤダってば。あたしどこ行っても未成年って疑われないし」
「確かに大人っぽいわねえ。どっか別の国の血が混ざってるんじゃない? 俺はスウェーデンの血がちょっと入ってるんだけど」
「そうなんだ。あたしはママがフィリピンとどっかの国のハーフなの」
リサはカウンターの中に入りズラリと並ぶお酒を眺め、これ、美味しそうなどと言っている。人の気も知らないで、と苛立ちが募る。
「お昼ご飯を作ろうと思ってるんだけど食べたいものは?」
黒瀬がフライパン片手にリサに尋ねる。
「凛ちゃん、あたしカルボナーラが食べたいの」
「いいね、作ってあげる」
リサに頷くと黒瀬はカウンターの奥の部屋へと消えた。
「リサやめろって」
「も〜お堅いわねえ、仁ちゃんってば。もっとリラックスしなさいな。ここはバーじゃなくて凛ちゃんのお家だし」
「え?」
「ここの上が凛ちゃんと俺がやってるバーなの。入り口が裏側だから気づかなかったでしょうけど」
モモが天井を指差す。表の案内板によると二階から五階までは美容室や不動産会社などが入っていて、一階は確かただのエントランスホールだった。そのフロア内にバーがあるのか。
「昨日も仁ちゃんがここで凛ちゃんに詰められてる間俺は上でお酒作ってたのよ。ガチガチのオーセンティックバー。会員制だから心配しなくてもリサは入れないわよ」
え〜、とリサが頬を膨らませ、モモのそばへ行き上目遣いする。
「あたしも見たいのに。モモちゃんのカッコイイ姿」
「あら、子猫みたいに可愛いわね。飼いたいわ」
モモが両手でリサの顔を包み込んだ。
「リサに触るな、ももたろう」
「ちょっと……! 何で本名知ってるのよ!」
白い肌を少し赤らめモモが慌てた。まさかの当たりなのか。
「アハハ、楽しそうだねえ」
エプロン姿の黒瀬が奥から出てくる。ほんのり良い香りが部屋に漂ってきていた。
「変なモン入れんなよ」
「入れるわけねーだろが」
「昨日はモヒートに入ってたぞ」
そう言うと黒瀬の目は白々しく宙を彷徨った。
「あ、そーいやタブちゃん、オレとモモちゃんが通ってるジムに今日入会しに行くらしいぜ」
そう言って再び奥の部屋へ消える。
「タブちゃん、頑張るわね」
モモがコンビニのレジ袋からエナジードリンクとタバコを取り出す。不摂生でもとりあえず時々運動しときゃ何とかなりそうじゃあない? とポケットから出した一目で高級だと分かるライターの火をつけた。
「タブちゃんも、火がついちゃったのねえ。凛ちゃんに助けられるとみんな憧れちゃう」
「タブちゃんって誰なの」
リサが火を見つめたまま呟いた。
「リサは知らなくていい」
「仁ちゃんが昔虐めたんでしょ?」
「え」
「違う。誤解だ。正直なことを言ったら相手が傷ついてしまったって話しだ」
フフっとモモが笑う。火をつけたタバコの匂いがキツくてクラクラする。
「リサちょっと離れろ」
「過保護ねえ」
「仁くんは人を虐めたりしないよ」
「まあそうでしょうけど。信頼されてるのね」
煙たくて顔を逸らす。
信頼、するしかないのだろう。リサには他に頼れる人間がいない。小さい頃からそばにいる俺を信じるしかない。
「……仁くん? 大丈夫?」
「ああ、うん。何でもない」
「出来たよ〜」
奥からカルボナーラの載った皿を両手に黒瀬が出てきた。
「はい、リサちゃん。仁人くんもどーぞ」
「俺は別によかったんだけど」
「けど、ウマそうだろ?」
確かにタバコの匂いを掻き消すくらいには美味しそうな香りが広がり、食欲をそそられた。
「モモちゃんは食べないでしょ?」
「うん、いらなあい。上行ってるね」
エナジードリンクを飲み干したモモはそう言って席を立ち、じゃあまた、と部屋を出て行った。
「ん、美味し〜!」
「……うまいな」
俺も料理は好きでカルボナーラは得意のうちの一つだがこれは良い勝負だ。
「だろ〜?」
黒瀬が嬉しそうにカウンター内から出てきて俺の隣に座った。
「もう気づいてるだろうけどモモちゃんってヒーローピンクなんだ」
「いや、知らねえよ」
まあちょっとその可能性も考えてはいたが。
「何それ」
カルボナーラを口に運びながら俺越しにリサは黒瀬の方をチラリと見る。
「リサは気にすんな」
「仁くんそればっか。酷いよね」
「おかしなことに巻き込みたくないだけだ」
「おかしくないさ。リサちゃん、実はバーテンダーは表の姿で、オレとモモちゃんはヒーローなんだ」
うわぁ、言いやがった。その表情は真剣そのもので、俺は白ける。
「え、ヒーロー? すごい。本物?」
俺の冷め切った心とは裏腹にリサは目をキラキラとさせた。マジか。
「ちなみに仁人くんはイエロー。まあまだ新人だけど」
「えっ嘘、仁くんも?」
「嘘だよ、リサ。こいつの言うこと間に受けるな」
「嘘じゃねえって。リサちゃんは信じてくれるよね?」
黒瀬が席を立ってリサのそばへ行き、カウンターテーブルに腕を組んでもたれかかった。
「信じる、けど……仁くんがっていうのはピンと来ない。確かに仁くんはあたしのヒーローだけど……イエローとか何とかそういうのはちょっと……」
そう言いながらプッと吹き出し、俺をジロジロ見る。やめてくれ。何で俺がちょっと恥ずかしい気持ちにならなきゃいけないんだ。
「でもヒーローって具体的に何やってるわけ?」
「そりゃ正義のヒーローだからさ。困ってる人を助けてる」
「悪いことした奴を懲らしめてるんだとよ」
付け足すと、まあそうだけど、と黒瀬は少し苦笑いした。
「あたしも仲間に入れてよ」
「駄目だ」
「仁くんに言ってない」
「いーよ、リサちゃん」
黒瀬がにっこり笑ってリサの頭に手を乗せた。
「おい、自立してねえ奴は駄目なはずだぞ」
「リサちゃんしっかりしてそうだし」
「いや全然してねえよ。しかも高校生だ」
「オレがいつからヒーローやってると思ってんの」
「それはお前が勝手にやってたんだろうが」
「あたし頑張るもん」
リサはカルボナーラを綺麗に完食し、立ち上がると黒瀬に向き合った。
「凛ちゃん、あたし何色?」
「うーん……リサちゃんの瞳は少し緑がかってるんだね。美しい。ヒーローグリーンだ」
「やったあ」
「おい黒瀬……」
「リサちゃん、一つだけ条件がある」
「なあに?」
「学校はサボらず行こう」
お、何だ。急にまともなことを言い出しやがった。
「じゃないと仁人くんがうるさいだろうし。タブちゃんも頑張ってるからね」
「タブちゃんて何なの」
「そのうち会えるよ」
「……分かった。あたしも頑張る」
リサが素直に頷いた。良くない、良くないが悪くもない。クソ、これじゃ俺が逃れられない。黒瀬はそこまで考えているに違いない。目が合うと黒瀬はまたニヤリと笑う。何なんだ、お前の目的は。ここまできて初めから全てが偶然ではない気がしてくる。俺に何を求めてる。
「……あ……仁くん……眠れるかも……」
リサが虚な目で小さく言った。
「本当か? 悪い、黒瀬。横になれる場所あるか?」
「奥のキッチンの隣の部屋にベッドがある。使っていいよ」
黒瀬はカウンターの奥を指差した。リサの体を支え、カウンターから中へ入ると茶色いランプでほんのり照らされたエル字型のキッチンと冷蔵庫が並んでいて、その反対側に木の扉があった。扉を開けると部屋のど真ん中にセミダブルサイズのベッドが置かれていて、片隅にはガラス張りのバスルーム。それ以外は何も無く、ソファがあればソファに寝かせようと思ったが、仕方なくベッドにリサを横たえた。
「仁くん……ありがと」
「ん。後でな」
髪を撫でるとリサは寝息を立て始めた。顔にかかってしまったネックレスをそっとどかす。いつまでこんなの着けてんだよ、と胸がチクリと痛みすぐさまその場を離れた。キッチンへ戻ると黒瀬がタバコを吸いながら皿を洗っていた。
「ごちそうさま」
「言っとくけど薬盛ったりしてないからね」
「分かってるよ。……アイツ普段あんまり眠れないんだ。時々ああやって急に睡魔に襲われる時がチャンスだからなるべく寝かせてやりたい。悪いな、ベッド」
「いーよ。何なら朝まで寝ればいい。オレ隣で一緒に寝るから」
「大丈夫だ。数時間で起きる」
咥えていたタバコを指で挟むとアッハハと黒瀬は笑った。
「リサちゃんのことになると冗談が通じないのか?」
「お前はやりかねないだろ」
「まあね。不眠症か何か?」
「……不眠症ってほどでもないみたいだけど……小さい頃は逆だったのにな。寝過ぎなくらいよく寝てたんだ」
「何がリサちゃんをそうさせたの」
「……さあな」
モモのタバコとは違うその匂いにどうしてか懐かしさが込み上げ思わずベラベラと喋りそうになった。こんなイカれた男に話しても何ともならないだろ、と自分に言い聞かせる。
「仁人くん。ちょっと上行かない?」
黒瀬はそう言ってタバコを上に向けた。
階段を上がって裏手へ回り、重厚な扉を開けると、更にもう一枚スライドドアが現れた。黒瀬がポケットから取り出したカードをかざすと、開いたその向こう側は全てが黒で統一されたシックな空間で、どっしりと構えられたカウンターも椅子も照明も全てが高級感に溢れている。小洒落た黒瀬の部屋の雰囲気とは全く違っていた。これは足を踏み入れるのに少し勇気がいる。何より気になったのは店内の隅にあるグランドピアノだ。引き寄せられるようにそばに行き、思わず息を呑む。
「ニューヨークスタインウェイか……」
マットブラックのグランドピアノを見るのは初めてだ。スタインウェイの音色なら聴いたことはある。大学生の頃知り合いに頼まれ、コンサートホールの警備員を一日だけやった時だ。その日は有名ピアニストのコンサートで、リハーサル時に近くで聞けるチャンスがあった。その濁りない華やかな音に全身が震えた。ピアニストの腕もさることながらスタインウェイが放つ唯一無二の音色に酔いしれた。あれはハンブルグ製だったが、このニューヨークスタインウェイはどんな音を出すのか。
「さすが、見ただけで分かるのか」
黒瀬がピアノを見つめる俺の隣に立った。
「オレにはさっぱり。たまたま譲り受けたものなんだ」
「なかなかお目にかかれない」
「へえ。時々さ、ピアニストを呼んで弾いてもらうんだけど……なんだろう、オレがどうこう言える立場ではないけど、なんつーかしっくり来ないんだよ。みんな上手いんだけどさ。だからこうやって飾りみたいになってることの方が多い」
指でスッと黒瀬がピアノのボディに触れる。
「そりゃ宝の持ち腐れだぞ」
「だろうね。ねえ、じゃあ仁人くんちょっと弾いてみてよ」
ドキリと心臓が跳ねる。ニューヨークスタインウェイを弾けるチャンスなんてそうそう無いだろう。この指で触れて、その音色を確かめたい。だけど。
「……出来ない。俺は人前でピアノは弾かないんだ」
「どうして?」
黒瀬が首を傾げるとサラサラの黒髪が揺れた。こうやって並ばれるとマットブラックのスタインウェイと黒瀬は絶妙にマッチしている。
「……人に聴かせたくない」
「昼休み。よく練習してたよな。音楽室で」
「知ってたのか」
「音楽室の準備室がさ。昼寝するのにちょうど良かったんだ。日当たりよくて。うとうとしてる時にいつも心地よいメロディが耳に届いて……上手くはなかったけどすげえ良かったんだよ。中学生になった頃にはかなり上達してたよな。あれは確かにタブちゃんも嫉妬する」
真剣な顔でそう話す黒瀬から思わず目を逸らす。自分のピアノを知っている人間が昨日から立て続けに目の前にいる。もう十年は人に聴かせていないのに。
「でも中学の時吹奏楽部には入らなかったよな。今も音楽の先生やってるわけじゃないんだろ?」
「数学だ。音楽教師は枠が少ない。そもそも音楽を仕事にしようと思ったことはないしな。知識があるわけじゃないし。吹奏楽とかも……あんまり興味無かった。ただ昔からピアノの音だけが好きだったんだ」
「仁人くんに弾いてもらえりゃこいつも喜ぶと思うけどな。別にオレやモモちゃんがいない時に来て弾いてくれてもいいんだぜ?」
「よっぽどなのね」
その声に振り返ると黒のサテンシャツに黒のパンツ姿のモモが白いネクタイを締めながらこちらを見ていた。
「ここに客以外の人を入れるなんて」
「まあね。でも中学の時であのレベルなら今は相当な腕前のはずだ。宝の持ち腐れって仁人くんのことなんじゃない?」
「いいんだ、別に。誰かに聴かせるために弾いてるわけじゃない」
黒瀬は、そう、残念、とピアノを撫でるとカウンターの方へ向かった。
「こんなに早くから開店準備するのか?」
時刻は十四時になろうとしているところだった。
「今日は特別よ。十五時にどうしてもって予約が入ってるの。滅多に受け付けないけど……相手は詐欺グループに加担してるオトコだから」
「ん?」
「接触したのは約半年前。じっくりゆっくり近づいてこのBAR svartに入会させた。俺を気に入ったソイツは自分のバースデーの今日、早くから俺のお酒を飲むために意気揚々とやってくるわけ」
モモは胸ポケットから取り出した手櫛で髪を梳かしうっすらと笑みを浮かべた。
「美しく完璧な俺のお酒に酔いしれて……」
「締めにはリキュールかな。そこに君のモヒートにも入れた魔法のお薬をドンでバーンだ」
「は?」
「眠りこけたら椅子に手足を縛り付け……ナイフ片手に詐欺の実態を暴く」
「待て、それはいわゆる正義のヒーローの仕事なのか?」
「それ以外に何があるって言うのよ? こんな話し、あなたがイエローじゃなきゃしないわよ」
「俺はイエローじゃないしそんなの警察案件じゃねえか」
「警察に出来ないことをやるのがオレらの仕事」
「田淵の件と違い過ぎる」
「正義のヒーローが仕事選んでどうすんだよ」
黒い手袋をはめ、黒瀬は大きな氷をアイスピックで削りながらニヤリとする。まるで罪人の精神もこう削っていくんだと言わんばかりに。
「依頼人はまず、詐欺に引っ掛かったことを恥じている。警察になんか相談しないさ。そして、今金に困っている。狙われるくらいだから元々それなりの金持ちなんだが色々重なって貧困に陥りそうなんだと。だから返してもらいたいわけ」
「人生何があるか分からないわよねえ」
「でも詐欺グループなんて相手にしたらお前らもただじゃ済まないんじゃないか?」
「凛ちゃんに救われて凛ちゃんを慕い力になってくれる人はたくさんいるわ。タブちゃんみたいにはっきりヒーローになりたいなんて言う人はなかなかいないけど。しっかり根回ししてあるの」
「さすがにゴム製のナイフ一本じゃ無理だ」
まん丸に削られた氷を目の前に持っていき黒瀬は満足そうに頷いた。
「心配しなくても仁人くんやリサちゃんにこういう仕事はさせない」
「心配しなくても絶対に関わらねえよ」
「そういえば子猫ちゃんはどうしたの?」
「お昼寝しちゃった、オレのベッドで」
「ふうん、可愛い」
やっぱりコイツら普通じゃない。何としてでもリサをこれ以上近づけてはいけない。