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②古賀リサ

 爽やかな、土曜の朝。のはずだった。遠くで小さく鳴るスマートフォンに目を開ける。頭が痛い。昨日逃げるように帰って来てシャワーを浴びて即ベッドに入った。とてつもなく疲れていた。終業後から大して食べていないことに気付き、空腹のせいか気分も悪い。


 テーブルの上のスマートフォンを手に取り画面を見るとズラリと着信履歴が並んでいた。最新が十時三十分。発信者はヒーローブラック。勝手に登録された。クソ。九時から十五分刻みでかけてきている。何なんだよ。


 歯を磨き顔を洗い、キッチンへ行き冷蔵庫を開ける。取り出した卵をボウルに割り入れ、塩胡椒して混ぜる。フライパンにオリーブオイルを入れ熱して卵液を注ぎ、チーズを加えて混ぜ込むと野菜室から出した水菜を適当に手で千切ってフライパンへ落とした。


 お湯を沸かし、食パンをトースターへ入れる。スクランブルエッグをフライパンからお皿に盛り、沸いたお湯をカップスープへ注ぎ、パンが焼けるのを待つ。スマートフォンが鳴る。四十五分か。勿論無視だ。


 焼けたパンをスクランブルエッグの隣に置き、スープと共にテーブルへ運ぶ。平日も休日も時間帯が違うだけで毎朝同じ流れだ。


 ニュースをチェックしようとスマートフォンに触れると、また着信音だ。時刻は五十分。発信者はヒーロー……ああ、もう面倒臭い。


「……十五分刻みを守れよ」


「だってさすがに起きてると思ったんだよ。おはようヒーローイエロー。言っておくけど着拒したってどんどん違う番号からかけちゃうから無駄だよ」


「やめろ」


 アハハハと楽しげな声が頭痛に耳障りだ。


「休日なんだよ、こっちは」


「ヒーローに休みなんて無いぜ」


「……あのなぁ、俺はやらないって何度も」


「タブちゃんの自立支援だ、これは」


「それはアイツの問題だろ」


「アイツの問題は君の問題だ」


「俺の罪はそんなに重いのか」


「重いも軽いも無いさ。君がタブちゃんを傷つけた、ただそれだけ」


 田淵の泣き顔を思い出してイラッとする。傷つけたのは俺が悪いが殺されるという危機的状況を味わっただけで罪は十分償えてる。


「やって損は無いと思うぜ」


「得もねえよ。俺は人助けなんてやってる暇ないし、お前だってそりゃ純粋に助けてやってる時もあるんだろうが大方自分の欲を満たす為じゃねえの? 悪人の焦る顔を見たいんだろ? やった奴には容赦なくやれる。やれる理由がある。何故ならお前はヒーローだから。でも俺は別にそんなの求めてないし」


「さすがよく分かってるね〜」


「お前に関する噂には間違いがあった。でも間違いなくお前はイカれてる」


「いや、まだまだだ」


「十分だよ」


 電話を切る。窓を見るとカーテン越しに天気の良さが分かる。六月の梅雨の合間の貴重な晴れ日だというのに気分は重い。朝食を手早く済ませるとリビングの一角にある防音室の中に入る。元々備えられているもので、このマンションの入居者は殆どがこの近くの音大に通う生徒だ。


 椅子に座り蓋を開ける。指を鍵盤にそっと置く。ウォーミングアップをすることは殆ど無い。


「おはよ。思い切り弾かせてくれ」


 選んだのはプロコフィエフのソナタ第六番。朝一で弾くには正直厳しい気もするが発散するにはちょうど良い。元々そういう曲ではあるが気分的に、より攻撃的になってしまう。強く、鋭いリズムで。


 購入時、金銭的に余裕はなく、俺のお供はアップライトピアノ。壊れかけのピアノで練習していた日々を思えばそれでも十分だ。


 狭い防音室いっぱいに激しいソナタが溢れ出る。ふと、田淵のピアノが脳裏をかすめる。センスのかけらもない伴奏だった。あれじゃ俺が言わなくても誰か言ってた。


 それにしても。何という偶然だろう。勤め先の学校の最寄駅から数駅の所に黒瀬の経営するバーがあるとは。そして田淵が黒瀬と繋がるとは。黒瀬の不気味な笑顔を思い出してつい指が滑りそうになる。


 大きなミス無く何とか弾き終えて脱力する。しばらく鍵盤を見つめ、クロスでさっと拭くと蓋を閉じ、防音室を出た。


 キッチンでコーヒーを淹れ、リビングに戻り一口飲むと一度深呼吸してからスマートフォンを見る。相変わらず画面に並ぶ着信履歴だが、発信者はヒーローブラックではなかった。同様に溜め息は出るが、俺はすぐさまかけ直す。


「リサ、どうした?」


『助けて先生!』


「……今度はどんな悪いことやらかしたんだ?」


『……何で悪いって決めつけるわけ?』


「お前が俺のこと先生って呼ぶ時は大体そーだろ」


『……悪いことはしてないもん。仁くん迎えに来て』


「怪我はないのか」


『ない』


 電話の向こうの彼女の姿、表情がありありと浮かぶ。小さな顔に勝ち気な大きな目はまるで猫のようで、気まぐれで、悪いことをしても反省なんて多分一ミリもしていない。


 彼女が使うヘルメットも用意し、バイクに跨り言われた場所へ走る。今年度に入ってから呼び出しはこれで何回目だろう。クラブで知り合ったという大学生数名と揉め仲裁に入ったのは十日ほど前のことだったか。


 呼び出された場所は俺の住むマンションからバイクで四十分ほどの海が見える公園だった。天気の良い土曜日、駐車場は混み合っていて少し離れたところに停める羽目になった。ヘルメットで蒸し暑く取りきれていない疲れにむしゃくしゃする。海は好きだったけれど、もう何年も来ていなかった。風に乗って届いた潮の香りに胸が締め付けられる。


 賑わう公園内の花壇にはバラが綺麗に咲いていて、波の音をバックにゆらゆらと気持ち良さそうに揺れていた。チャイコフスキーの花のワルツが頭の中で流れる。これを見れただけでも来た甲斐はあった。そう思うことにする。


 海のそばの手すりにもたれかかり遊覧船を眺めるその後ろ姿を見つけると、呆れと安堵の混じった溜め息が漏れた。


「リサ」


 名を呼ぶと彼女はゆっくり振り返った。いつもつけているクリアビーズのネックレスが眩しい陽射しを受けてキラリと光る。アーモンド型の大きな目が俺を捉えるとニッコリと悪びれることなく笑った。メイクをしなくても十分に派手な顔立ちで、ウェーブがかった茶色い長い髪も小麦色の肌も天然物だが、態度がデカいことも相まって俺が勤める学校へ入学したばかりの頃は新入生の癖に生意気だと上級生にいじめられていた。彼女は全く動じていなかったが。


「何やらかした」


「フラフラしてたら一緒に飲もうって声かけられたから朝方まで飲んでたんだけどね、家に来ないかってしつこくて。断ったら飲み代全部押し付けられた」


「知らない奴と飲むな。つーか飲むな。これ以上問題起こすと退学になるぞ」


「いーもん別に。お金はまた振り込まれるし」


「良くない。せっかく留年回避してここまできたんだ。……何よりシェイラさんが悲しむ」


「まーたおばあちゃん。仁くんそればっか」


 眉間に皺を寄せ俺から目を逸らす。


「お前にまともな大人になって欲しいんだよ」


「なれると思う?」


「なれる。だからもーちょい俺の言うことを聞け」


 うーん、どうしよっかなぁとリサは海を眺めたまま伸びをする。


「てかおばあちゃんのことばっか言うけど結局仁くんはママの為でしょ?」


「……どっちもだし、お前の為だよ」


「嘘つき」


「金が無い上飲み過ぎで帰れないんじゃないのか。毎回そうやって不貞腐れんなら俺から信之のぶゆきさんに連絡すんぞ」


 そう言うとリサは俺の方に体を向け上目遣いで首を傾けた。


「仁くんごめん。ありがとう迎えに来てくれて。仁くんはあたしのヒーローなの。一人にしないで」


 ヒーロー。今一番聞きたくないワードだ。少しも反省していないであろうリサに背を向け歩き出す。リサは小走りで俺の隣に並んだ。


「仁くん、お腹空いた。カルボナーラ作って」


「……とっとと自立して俺を子守りから解放してくれ」 


「あたし子供じゃない」


 どこがだよ、と横目でリサを見る。見た目だけは高校生には見えないほど大人になったが、天真爛漫で我儘な性格は小さい頃から全く変わっていない。


 古賀(こが)リサ。もうすぐ十八になる。俺の勤める高校の生徒だが、関係性はそれだけではない。俺の実家と彼女の祖母の家がすぐそばで、彼女が二歳の時から知っている。今は俺の住むマンションの近くのアパートに一人暮らししていて、問題を起こす度保護者代わりの俺が出向く。色々と複雑な事情があることをよく分かっている俺は彼女を強く責めることは出来ない。


 リサを後ろに乗せ、バイクを再び走らせる。このバイクはリサの為に購入したと言っても過言ではない。彼女のピンチには駆けつける。そのピンチのほとんどが自業自得ではあるが、確かにヒーローみたいだ。フルフェイスヘルメットもまるで。そういえばこのヘルメットには黄色いラインが入っているが、黒瀬が俺をヒーローイエローと言っていたのはここから来ているのではないか。田淵の依頼を受けて俺のことを調査していたのだから知っていてもおかしくはない。ああ、気持ち悪いな。


 しばらく走り、信号待ちしていると後ろからトントンと肩を叩かれた。


「なんだ」


「コンビニ寄って」


「カルボナーラも買ってこいよ」


「やだ。それは仁くんの手作りがいい」


 全くやれやれだ。俺の休みはどこへ行った。


 コンビニを見つけバイクを停めるとリサは財布を開け、小銭の入っているポケットを確認するとまあ足りるか、と小さく呟き店内へ向かった。


 三分ほどで戻ってくるとコーラと缶コーヒーを差し出された。


「どっち?」


「……コーヒー」


「当たり〜」


 溢れ出そうな溜め息を飲み込み、屈託の無い笑顔で言うリサからコーヒーを受け取る。コーラの気分だったが、リサはコーヒーが飲めない。そしてまさかのホットだ。嫌がらせかと思いかけて、いや、これは彼女なりの気遣いだ、と思うことにする。普段から家で季節問わずホットコーヒーを飲んでいることを知っているからだ。


 缶を開け口に含む。熱い、暑い。リサはコーヒーを飲む俺を満足そうに見ると勢いよくコーラを飲む。くっそ旨そうだな。


「リサ、もう乗れ。誰かに見られたら面倒だ」


 学校側は俺たちの関係性を理解してくれてはいるが生徒に見られるのはやっぱりよろしくない。


「あ〜れ〜、偶然!」


 突如後ろから聞こえたその声に危うくコーヒーを落としそうになる。リサが背伸びして俺の肩越しに声の方を覗いた。


「……黒瀬」


「や〜昨日ぶり」


 これは偶然か? GPSでも付けられているんじゃないか。そう思う俺の表情に黒瀬はフッと笑う。


「このコンビニが一番近い。昨日のバーから」


 どこの駅で降りたのかも覚えていなかったがこの辺りだったか。本当にたまたま、らしい。最悪だな。


「仁くん、知り合い?」


 リサが黒瀬をジロジロと遠慮なく見る。


「あー、まぁ」


「オレは黒瀬凛。仁人くんの友達っていうか……仲間って言う方がしっくりくるかな」


 ふざけるな。何仲間? とリサは首を傾げる。


「リサ行こう。関わらない方がいい」


「え、もっと話したい」


「いーよいーよ! 話そ、リサちゃん」


「やめろ、黒瀬。頼むからコイツとは関わらないで」


 黒瀬とリサは出会っちゃいけない者同士としか思えない。ハッキリ言って恐ろしい。


「行くぞリサ」


「待って待って。こっちも紹介したい人いるし」


 嫌だ。誰だ、それは。これ以上厄介な状況を作り出すな。そんな俺の思いも虚しく、店内から出てきた真っ黒なロングワンピースを身に纏い、レースの日傘をさす女……いや、男……多分ガタイからして生物学的性別は男なのだろう謎めいた人物がこちらに向かってくる。頼むからあれは他人であってくれと願うが、残念ながらその人物は黒瀬の隣で足を止めた。


「凛ちゃんお待たせ〜。だあれ、この子たち」


 彫刻のように整った顔立ちのその人はピンク色の唇を動かし俺たちを見下ろして言った。俺も黒瀬も平均より少し高めの身長だが、すぐそばに来るとその人物の方が遥かにデカいことが分かった。ヒールを履いているが脱いでも俺より絶対に高い。肩まである金色の髪をハーフアップにしていて、覗く右耳の耳たぶから軟骨まで余すことなくピアスが光っている。首には何語なのか分からない文字の刺青。こいつはヤバい。


「ほら、話したじゃん。同級生の仁人くんだよ」


「ああ、言ってた彼ね。なかなか可愛い顔してるじゃない。この小娘は?」


 そう言われて小柄なリサはぐっと上を見上げ、その人物を睨み付けた。


「リサよ」


「ふうん。気が強そうね。良いわ。俺あんた嫌いじゃないわよ」


 そう言って微笑む。なんだ、どっちなんだこの人は。まあそんなのどうでもいい。どうでもいいが厄介な状況だということは間違いなくて、俺の頭はズキズキと痛み始める。混ぜたら確実に危険過ぎる三人、ということは赤の他人からしても一目瞭然なのではないか。


「俺はモモ。モモちゃんって呼んでちょうだい」


「オレの仕事仲間なんだ」


 仕事。それは、あのバーのことか。それとも。


「リサちゃんと仁人くんはどういう関係?」


「こいつは……」


「教師と生徒」


 にっこりとそう答えるリサに黒瀬がニヤリと笑う。間違いではないが違うだろうとリサに苛立つ。


「休日に生徒をバイクに乗せて連れ回すんだ? 相宮先生は」


「相宮先生はあたしのことが大好きなの」


「あらま」


 モモが目を見開いた。


「オムツ一枚で歩き回ってる頃からの知り合いなんだよ。未だに子守りさせられてんだ」


「仁くんサイテー」


 リサに睨まれる。


「ちょっと今のはデリカシーに欠けるわねぇ」


「でも相宮センセー女子生徒に人気あるでしょ」


「あるよ」


 苛立ち任せに黒瀬についそう答えてしまう。決して全くの嘘というわけでもない。


「仁くんなんて先生の中でちょっと若いってだけじゃん。大してカッコよくもないくせにさー。あと数年もしたらみんな見向きもしないんだから」


 俺からしても女子高生なんてただの生意気なガキだ。その代表がリサ、お前だよ。


「ねえ〜ちょっと、俺そろそろ湿気でおかしくなっちゃいそう。凛ちゃん戻りましょ」


「オッケー。仁人くん、電話にはちゃんと出てくれよ」


「出ない。ほら、リサ行くぞ」


「やだ」


 リサは俺からプイっと顔を背ける。


「おい」


「あたし凛ちゃんとモモちゃんと一緒に行く」


「ふざけるんじゃねえ。先生の言うことを聞きなさい」


「知らなーい」


「絶対に駄目だ、リサ。関わっちゃいけないタイプの人間だ」


「まあ、失礼ね」


 口元に手を当てモモが眉を顰めた。唇同様真っピンクに塗られた爪は長く尖っていて、備えられた武器にしか見えない。


「おいで、リサちゃん。オレと遊ぼ」


 黒瀬がリサの肩に手を回す。


「やめろ黒瀬」


「心配なら仁人くんも来ればいい。教師が生徒を見放すわけにはいかないよなぁ」


 ニヤニヤ笑う黒瀬にもう昨日から何度目か分からない溜め息が出る。数年後には俺はもう白髪まみれで本当に誰も見向きもしないのかもしれない。重たい足取りでバイクを押し、三人の後に続いた。

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