①ヒーローブラック、参上
「世の中には出会っちゃいけないタイプの人間がいるんだよ」
そう話す目の前の男から視線を逸らし、それはお前みたいな奴のことだろ、と心の中で嘆く。目の前の男ーー黒瀬凛は昔からかなり変わり者だった。
出会ってしまったのは小学五年の頃だ。俺の通っていた学校に転校してきた黒瀬は男子にしては小柄で女の子のように可愛いく、アイドルだと言われてもおかしくない容姿をしていた。その為初めの頃はかなりもてはやされ注目の的だったが、一ヶ月ほど経った頃に別の意味で話題となり、黒瀬の周りには人が寄らなくなった。
当時黒瀬の担任の教師は新米の女だった。美人でおっとりとしていて、みんなに優梨奈ちゃんと名前で呼ばれ人気があり、若い教師にしては珍しく保護者からも信頼を得ていた。
とある参観日、道徳の授業で優梨奈が前日から用意していたというイラストを黒板に貼った。大きな紙の真ん中に『個性を大切に。仲良く楽しく。人に優しく』と可愛らしい文字で書かれ、周りは人間や動物、花や虹などカラフルな絵で彩られていた。優梨奈ちゃんすごーい、と拍手の上がった教室で、黒瀬凛は思い切り机を叩き立ち上がった。そして黒板の前まで行きそのイラストを睨み付けた。
何事かとクラスメイトや保護者がざわつき始める中、優梨奈は腰をかがめ優しくどうしたの? と黒瀬に尋ねた。すると黒瀬は突然そのイラストを黒板から引き剥がし、ビリビリに破いてしまったのだ。クラスメイトが悲鳴を上げ、保護者は唖然としていた。そして泣き出す優梨奈ちゃん。その優梨奈の耳元で何やら囁き黒瀬は教室を去って行った。らしい。
俺はクラスが違ったので人伝に聞いただけだが、翌日から優梨奈は学校に姿を見せず、そのまま辞めてしまったので相当なショックを受けたのだろうということは分かった。
その後も中学生をカツアゲしたとか、サラリーマンの服をいきなり破いたとか良くない噂ばかりが出回った。幸い関わることなく済んでいたが、中学二年の時とうとう同じクラスになってしまった。だからお互いが認識した出会いは正式には中学二年とも言える。
一学期の途中で行われた席替えで隣になると、黒瀬は時々話しかけてきた。その内容は意外にも至って普通で拍子抜けしたが、やっぱりコイツやばいと思ったのは夏休みに入る少し前のことだった。
蚊に刺された、そう呟いた。その日の最後の授業が始まるチャイムが鳴った直後で、まだ教師は来ておらず教室はざわついていた。黒瀬はわざわざ赤く腫れた左腕を俺の方に向けた。そしてニヤリと笑った。許せないよな、そう言って突然ポケットからカッターナイフを取り出し、自分の腕の赤く腫れた部分を切り付けたのだ。俺の後ろの席の女子がヒッと声を上げた。何やってんだ、コイツ。目を見開いている俺を見て黒瀬は今度はにっこり微笑んだ。どう反応していいか分からず、かなり引き攣った顔で曖昧に笑って目を逸らした。
それから何故か以前よりもよく話しかけられるようになり、勘弁してくれと思っていたら、夏休み明けには学校に来なくなってかなりホッとしたものだった。そのまま黒瀬を見ることはなかった。
そんな男と約十三年ぶりに再会した。勤務先の学校からの帰り道、金曜日で疲れも溜まり飲みたい気分で駅のそばの繁華街をうろついていた。そこで声をかけられたのだ。久しぶりに会った黒瀬は昔とは違い、身長も伸びて可愛らしい、というよりは目付きの鋭い、シャープで精悍な顔立ちをしていた。でも黒瀬だとすぐに分かった。
「仁人くんだろ。久しぶり」
そうニヤリと笑った顔は間違いなく自分自身の腕を突如カッターで切りつけた黒瀬だった。サラサラとした黒髪も変わっていない。俺の顔も間違いなくあの時と同じ、引き攣った曖昧な笑顔だっただろう。
一緒に飲もうぜ、そう言われて即断ったが、馴れ馴れしく背中を押され気付けば電車に乗せられ降りたこともない駅で降り、駅から五分ほどの五階建てビルの地下一階に連れて来られた。黒瀬はポケットから取り出した鍵で扉を開け、中へ入るよう言った。かなり戸惑った。怪し過ぎる。俺の表情を見て、ここは自分の経営するバーなんだ、と説明した。扉から覗いた店内はよくある普通のカジュアルバーで、黒瀬はカウンター内に入ると奢るから好きなの頼めよ、と笑った。
かなり迷ったが、ここまで来て引き返すのもどうなんだと思い、飲みたい気持ちもあったので俺はカウンター席に腰掛けた。蒸し暑い夜にサッパリしたくてモヒートを注文した。
黒瀬はタンブラーにミントとライムを入れ軽く潰すと手際よく作り進めていく。途中目が合うとまたあの不敵な笑みを向けられ、なんとなく嫌な予感はしたのだ。その予感に従い、席を立つべきだった。しかし出されたモヒートがあまりにも美味しそうだったので俺は躊躇いながらも飲んでしまった。黒瀬が何やら話しているが頭に入ってこない。おかしい、と思った時には意識が飛んだ。
「でもタブちゃんは出会ってしまったわけだ。君に」
手足を椅子に括り付けられ身動きの取れない俺のすぐそばまで来て黒瀬は耳元でそう囁いた。手にはナイフ。
「……タブって誰だ。俺は知らない。そんな奴」
「うーん、会ったら分かるかな? タブちゃんは酷く傷ついた、君のせいで」
黒瀬が俺を真っ直ぐ見る。
「……でもオレは正直、本当に君が傷付けたのか疑問なんだよねー。君っていい奴じゃん?」
「……俺のどの辺がいい奴なんだ」
「オレがカッターで腕切った時微笑んでくれたじゃん。そんなのいい奴に決まってるさ」
ヘラヘラと笑い、自分の左腕を右手に持ったナイフでなぞる真似をした。あの引き攣り笑いを微笑みと解釈するのか。やっぱり普通じゃない。
店内は薄暗く、かなり控えめな音量でクラシックが流れていた。ブラームスの愛のワルツだ。ゆったり酒を嗜むなら悪くない選曲だ。だがこの物騒な状況には似合わないだろう。
「そのナイフで俺を刺すつもりか?」
「うーん、どうかな。君次第かなぁ。タブちゃんの依頼は君の土下座だし」
「は?」
「タブちゃん、そろそろ来るはずだぜ」
カウンター横のスタンドタイプのステーションクロックに目をやり、黒瀬は言った。時刻は二十二時を回っている。サクッと飲んで帰って一週間の疲れをのんびり癒すつもりだったのに。何故ぶっ飛んだ奴の言われるがままにしてしまったのか。とんだ大馬鹿野郎だ。自分に舌打ちする。
「か、がね。蚊。モスキートね」
手に持ったナイフを眺めながら黒瀬は呟いた。
「刺さなくなったんだ、オレのこと」
「刺さなくなった?」
「そーなんだよ。オレの苛立ちを理解したんだろうね。いや、蚊が血を吸うのは仕方ない。子孫を残す為だ。でも痒くなるのは本当に許せないんだ。痒みに耐えられずつけた怒りの傷口に蚊は恐れ慄き……仲間の蚊に伝えたわけだ。黒瀬凛の血は今後一切吸うんじゃねえと」
真剣な顔でそう話す黒瀬に俺は、相変わらずどう反応するのが正解なのか分からない。勿論冗談なのだろうが黒瀬が言うと本当にそうなのではないかとも思えてくる。目を泳がせていると、黒瀬はアハハハと大袈裟に笑った。
「やー、でも気持ち良かったぜ。痒いところをカットするのは」
「……やめろよ、気持ち悪い」
黒瀬から目を逸らしたその時、扉がコンコンと鳴った。
「お、タブちゃんかな?」
軽やかな足取りで入り口まで向かうと、黒瀬は勢いよく扉を開けた。
「捕まえたぜ、タブちゃんの敵」
親指で俺を差し、黒瀬は店の外に立つ人物に言った。誰なんだ、タブ。扉の方を睨み付けていると、そいつは黒瀬の体からひょこっと顔を出した。
「……ん?」
「あ、あ、相宮仁人っ!」
震える声で俺の名を呼んだのは眼鏡をかけた太った男だった。誰だよ。全く見覚えがない。威勢よくこちらに向かって歩いてくるが、ヨレたTシャツにジャージを合わせていてだらしない印象を受ける。
「き、君のせいで僕の人生は終わったんだ!」
「……俺のせいで? 悪いけど身に覚えがない。というかお前誰だ?」
そう言うとその男は顔を真っ赤にしてブルブルと震え始めた。こんな漫画みたいな奴ホントにいるのか。
「高校一年の時! 合唱コンクールの為に一生懸命ピアノを弾きながら歌っていた僕に! リズム感が無い上に音痴だからもっと練習しろと言っただろう!」
「……は?」
「ああ言われて僕は自信を無くし……そしてクラスのみんなから揶揄われるようになった! そしてだんだんいじめと化し、壮絶な嫌がらせを受けた! 僕は学校に行けなくなり今もニートさ! 方や君は高校教師!」
「はぁ?」
「全ては君のせいだ! 君のせいで僕は……!」
「待て待て。お前、あれか。……田淵か」
やっと思い出した。同じ高校の田淵……名前は忘れたが一年の時同じクラスだったと記憶している。
「そうだよ! 思い出したか、クソ野郎!」
「……あー、うん。合唱コンクールな。思い出した」
「自分の罪も思い出したのか!」
「罪って……悪いが俺は事実しか言ってない。お前はピアノのセンスが無かったし、とんでもない音痴だった。勿論お前以外にも音痴はいた。でもお前は声がデカ過ぎたんだ。みんなもやりづらそうだった」
「な……」
田淵は更に顔を赤くし歯を食いしばっている。
「お前いじめられたの? それは知らなかった。悪かった。でもそれはいじめた奴が悪くないか? 俺はいじめたりなんかしてないだろ」
「でも君があんなこと言わなければ……僕は……」
「いや、単なるキッカケに過ぎないだろ。そりゃいじめられる奴も悪い、なんて俺は思わない。いじめる奴が百パー悪い。俺の言葉をキッカケにするなんてタチの悪い奴らだ。なら今ここに縛られるのは俺じゃねえはずだ」
「でも……僕は……」
何やらゴニョゴニョ呟いていて聞き取れない。いじめる奴が百パー悪い、の考えは変わらないが思わずキツい言い方をしたくはなるな、と思ってしまう。何故なら。
「俺が羨ましかったのか。そりゃ妬みだろ」
「な、なにを……!」
「ん〜? タブちゃん、そうなの?」
黙って聞いていた黒瀬が口を挟んだ。
「俺はピアノがめちゃくちゃ上手い」
自分で言うのも何だがセンスはある。合唱の伴奏などには興味が無かったが高校一年生の頃だったら音楽室を借りて好きなクラシックを演奏していた。田淵がそれを知っていてもおかしくはない。
「でもまぁ……みんなの前で言ったのは確かによくなかったかもな。改善したくて口を出したつもりだったんだけど……あの後そういやお前弾くの辞めるって言って結局コンクール出ることもしなかったもんな……それで、そうか。学校来てなかったな、確かに。いや、悪かった、本当」
「くっ……くっそ……」
田淵は膝を突き涙目になっている。心底、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「君みたいな、奴が、教師やってるなんて……本当に許せない……」
「……だよな。ごめん。黒瀬、縄解いてくれよ。土下座するよ」
「うーん……まー本来の目的はそれだもんね。いーよ」
黒瀬が俺の後ろに回り縄を解こうとする。
「……いや、なんかもう、惨めだ……土下座なんてされても……」
田淵の目から涙が零れ落ちる。やめてくれよ。いたたまれない。
「タブちゃん……じゃあグサっといっちゃう?」
……は? 何言ってやがる。
「殺しちゃえばいーじゃん。そしたら君のその惨めな姿を知ってるのはオレだけになるし」
「え、でも……殺すのはちょっと……」
ちょっと、どころじゃない。
「それはおかしいだろ。殺したいほど憎くはないだろ」
「……いや、憎いさ。何度も君を心の中で殺したよ」
おいおいマジか。黒瀬を見ると満足そうに頷いている。
「じゃあやっちゃいな。ほら」
黒瀬がナイフを田淵に手渡す。田淵の手はブルブルと震えている。いや、待て。それじゃ上手く刺せねえよ。やるならしっかりやれ。じゃなくてやめろ。何でこんなとこで死ななきゃならない。
「待て、人殺しになりたいのか? 今からでも何だって出来る。人なんて殺しても良い事一個もねえぞ」
「う、う、うるさい、もういいんだ……」
震えながらジリジリと近づいてくる。確かにその目には、恨みがこもっている。
「おい、止めろよ黒瀬」
黒瀬は腕を組んでカウンターにもたれかかったまま楽しそうに笑っていた。完全にイカれてる。
「おい、田淵……マジで悪かったって」
「し、死ね、死ねっ!」
田淵がナイフを思い切り振りかぶる。途端に目の前の光景はスローモーションになる。ああ、終わった。相宮仁人、二十七歳。中学の頃のヤバいクラスメイトにノせられた高校時代のクラスメイトにナイフで刺され、死亡。なんてこった。
ゆっくり目を閉じると風を感じ、腹部にナイフが当たるのが分かった。
「……れ? あれ?」
「……ん?」
確かにナイフは振り下ろされた。だが、多少の痛みはあるものの刺された感覚は全く無い。見ると、ナイフはぐにゃりと曲がっている。
「……は? 何だこれ。ゴムか?」
「あ〜た〜りぃ」
そう言いながらゲラゲラと笑う黒瀬に、田淵は荒い息のままヘナヘナと座り込んだ。
「や〜、よく頑張った、タブちゃん。まさか本気で殺したいとはねぇ。でもさ、仁人くんの言う通り、何だって出来るさ。きっと仁人くんがこの世から去ったってスッキリなんかしない。むしろ一生、四六時中仁人くんが付き纏うぜ」
そう言って黒瀬はオバケポーズをし、指をチラチラ動かした。田淵を恨んでも四六時中そばにいたくはない。
「うぅっ……」
項垂れ再び涙を流し始める田淵を見てなんだかもう訳の分からない感情になってくる。とりあえず俺は、助かった。盛大な溜め息が漏れる。
「……ところで。黒瀬。お前は一体何なんだよ」
「オレ〜? よくぞ聞いてくれた。オレは正義のヒーローだよ」
「……悪の手先の間違いだろ」
「何でだよ! オレのどこが悪なんだ?」
大袈裟に首を捻る黒瀬にどの辺がヒーローなんだよ、とこちらも首を捻る。
「……まぁ確かに、傷ついた田淵の為に動いてたんだもんな。でもお前に纏わる数々の噂はどれも結構酷いぞ。まさかそれも誰かの為だったのか?」
「オレはさ。人を傷つけたり迷惑行為する奴が許せないんだよ。そういう奴は同じく傷つくべきだと思ってる」
黒瀬は真面目な顔でゴム製のナイフを拾い上げ言った。
「……じゃあ優梨奈ちゃんは誰かを傷つけたってのか」
「……優梨奈ちゃんね。優梨奈ちゃんは被害者」
「ん?」
「一部の保護者たちから壮絶な嫌がらせをされてた。そのくせ辞められないよう圧力かけられて精神崩壊寸前だった。あのイラストはある保護者が用意したものだった。優梨奈ちゃんが用意したものは直前に捨てられてたんだ。ビリビリに破かれて」
「……それ本当か」
「個性を大切に。仲良く楽しく、人に優しく、だってよ。笑っちまうよな」
アハハハと黒瀬は手を叩く。
「……教師も元々目指してたわけじゃないらしいし、あの後やりたいこと始めたらしいぜ」
「お前は何でそのことに気付いた? まさか優梨奈ちゃんがお前に相談したわけじゃないだろ?」
「小五のガキに話すわけないでしょ。放課後忘れ物取りに行ったらメソメソ一人で泣いてたからちょっと調べただけだ」
黒瀬はカウンター内に入りグラスに氷を入れた。
「優梨奈ちゃんに何て言ったんだ?」
「一一こんな奴らのために頑張らなくてもいい。逃げちまえ一一。かぁっこいいだろ〜! ヒーローブラック参上! ってね」
豪快に注いだ何かよく分からない液体をガブガブと飲んでそう笑う。
「か、かっこいいです、ホント……」
田淵が座り込んだままそう呟いた。目が心なしか輝いているように見えるのは多分気のせいじゃない。
「……中学生カツアゲしたのは?」
「そりゃ多分カツアゲしてた奴をカツアゲした」
「サラリーマンのズボン破いたってのは?」
「なんだっけ? ……あぁ、痴漢のズボンをビリビリに破いたことならあるな」
それから小学生の時なら火のついたタバコポイ捨てした奴の手に根性焼きしたこともあった、と黒瀬は話した。
「……田淵はどういう経緯で黒瀬に頼ったんだ?」
田淵の方を向くとフンっと目を逸らされた。相当嫌われている。殺したいほどなんだから仕方ない。
「SNSで知り合ったんだ。僕が恨みつらみを書き綴ってたらヒーローブラックが声をかけてくれたんだ」
俺に対する恨みつらみを世界中にばら撒いてやがるのか、クソ。
田淵はポケットからスマートフォンを取り出し、俺の顔を見ないまま画面をこちらに向けた。某巨大SNSの画面の左上のアイコンには黒い戦隊モノのマスクでピースサインをしているおそらく、黒瀬、が見えた。
「ヒーローブラック……君を救う、正義のヒーロー……胡散臭い」
「ホントのことしか書いてないぜ」
「胡散臭いのに縋る奴もいるわけだ」
「実際優しく声かけてくれて君を捕まえてくれたんだ! 胡散臭くなんかない!」
そう喚く田淵はヒーローブラックのアイコンを拝むように見つめている。気持ち悪いな。
「ここがアジトなのか?」
「根城と言ってくれ」
「金は貰ってんの?」
「む、無償だ! ヒーロー様だぞ!」
黒瀬が答える前に田淵が眉間に皺を寄せ叫ぶ。
「アハハ、まあね。オレはさっきの仁人くんみたいな悪人の焦った顔を見るのが大好きだからさ。それが報酬だ」
「俺は悪人じゃねえよ」
「でもタブちゃん、スッキリはしたのか? オレは君を救えたのか?」
「ぼ、僕は……」
「本物のナイフだってあるんだぜ?」
カウンターから黒瀬はナイフをチラつかせる。
「焚き付けんな」
「ウソウソ。さっき言った通り殺したって意味は無いさ」
そう言いながらナイフを持ったままにこやかに黒瀬は俺に近付いてくる。
「こんな風にさ。刃を向けて……」
ナイフを俺の体のそばへ寄せる。
「お、おい」
「傷つけたってさ……」
「く、黒瀬くん……」
田淵が焦りの表情を見せる。何でだよ。お前さっき俺を殺そうとしただろうが。だが黒瀬の狂気に満ちた微笑みは誰が見ても恐ろしい。コイツもマジでやり兼ねない。
「黒瀬、やめろ……!」
思わず顔を背ける。
「ハーイ、解いたよー」
「え?」
「縄、解いたよ」
一気に手足が軽くなる。同時に全身の力が抜ける。冷や汗かきまくりだ。何なんだよ、もう。
「タブちゃん。君はこれからどうしたい?」
「ぼ、僕、は……自立、したい……ちゃんと、生きたい……!」
「うんうん」
「そして……ヒーローブラックみたいな、正義のヒーローに、なりたい!」
「……うん?」
黒瀬が笑顔のまま首を傾けた。
「ぼ、僕を仲間にしてくれませんか!?」
「……う〜ん、うんうん、まあね。どうかね〜君がヒーロー……」
黒瀬の煮え切らない返事に田淵がまたしても泣きそうな顔をする。やめろよ。
黒瀬は目だけ天井に向け、しばらく無言を貫き、ニヤリと笑った。嫌な予感がする。
「仁人くんもヒーローになってくれたら、考えてもいいかな」
……何だって?
「オレからの制裁だ。タブちゃんを傷つけた」
「いやお前何様なんだよ」
「ぼ、僕じゃダメかな……?」
田淵は縋るように黒瀬を見る。
「自立したいんだよな? まずはそれからだ。自立出来てない人間にヒーローは務まらねえよ」
「いや、悪いが俺にも務まりそうにない。無理だ、ヒーローなんて」
「向いてると思うぜ? 仁人くん」
ナイフを俺に向ける。やめろよ。
「タブちゃんがヒーローになる条件。自立すること。仁人くんがヒーローになること」
「何を勝手に……諦めろ、田淵」
「分かった!」
「は?」
「かなり腹が立つけどブラックの手助けが出来るヒーローになる為に、相宮にはヒーローになってもらう! 自立もちゃんとする!」
おい、本当にさっきから何なんだよこいつら。やめろって。
「き〜まり! よろしくねー、仁人くん」