第1話 真珠の耳飾りの少女
――― 西暦1913年 オランダ国内の美術館
「僕はピカソは好きじゃない。だって、本気を出せばいくらだって美しい絵が描けるのに、手を抜いて抽象画なんていうわざとらしい個性に頼るんだもの」
オシャレに髪型を整えた痩身の青年が恋人に語りかけた。
彼の名前はハン・ファン・メーヘレン。24歳の大学生である。
隣に寄り添っているのは、彼と同じ大学に通う同級生で名はアンナという。
「メーヘレンは抽象画は嫌い?」
アンナが隣に立つメーヘレンに目を向けると、彼は正面の絵画に見入ったまま答えた。
「ああ、嫌いだね。それに比べて、この絵を見なよ」
指差した先には1枚の風景画。
「フェルメールはピカソと違って一筆一筆に魂を込めて書き上げているし、見たままをそのまま描くんじゃなくて、自分の感性に沿ってアレンジもしている。モデルになったデルフトの港を見に行ったこともあるけど、本物の景色よりこの絵の方がずっと美しいと思ったね。「フェルメールと言えば人物画」という人も多いけど僕はこの絵が一番好きだな」
「『真珠の耳飾りの少女』よりも?」
アンナが、からかうように横目でメーヘレンを覗き込む。
「真珠の耳飾りの少女は間違いなくフェルメールの最高傑作だよ。でも、僕が彼女に魅了されているって言ったら、君はきっとやきもちを焼くだろ?」
メーヘレンが機嫌を伺うようにアンナの顔を見た。
「一度でも彼女を見たらその虜にならない人はいないわ。でも私、絵画や女優には嫉妬しないことにしてるの。嫉妬するだけ無駄だもの。彼女たちには勝てっこない」
「そんなことないよ。君は君で十分魅力的だ」
メーヘレンが恥ずかしそうに目を見つめると、彼女もフフッと照れながらそれに応えた。
絵画を背にして歩き始める二人。
メーヘレンはゆっくりと進みながら彼女に言った。
「僕は絵画で絶対に成功してみせる。父さんにはずっと反対されてきたけど、ロッテルダム賞を受賞してからはあまり文句も言われなくなったんだ」
「あの絵、本当に素敵だったわ! あなたは絶対にスゴイ画家になる! 私、信じてるから!」
「まかせてよ! いつか君をモデルにして、『真珠の耳飾りの少女』以上の名画を描いてみせる! なんてね、ちょっと理想が高すぎたかな?」
「ううん。そんなことない。私、あなたと幸せになれる日を待ってるから」
そう言うと、アンナはメーヘレンの目の前にピョコリと飛び出して向かい合わせになった。
「ねえ! 今日も私の家でご飯食べてってよ。あなたが来るとお母さんも喜ぶから」
こうして順調に愛を育んでいった2人は、やがて結婚し子供も授かった。
幸せの絶頂を迎えるメーヘレンとアンナ。
しかし、その後の生活は順風満帆とはいかなかった。
メーヘレンの新作が評価されない日々が続いたのだ。
天狗になっていたメーヘレンは、画商に絵を見せる時も謙虚ではなかった。
自分中心に話を延々と繰り返す。
「見て頂ければ当然分かると思いますが、この作品のこの部分は17世紀の〇〇を意識して、タッチは〇〇の技法を用いています。使用している筆は〇〇で、顔料には貴重な〇〇を用いています。製作に掛けた日数は…………」
販売価格も強気であり、また一見すると流行遅れのありふれた絵にも見えてしまうメーヘレンの作品は、バイヤーからの評判も芳しくなかった。
やがてロッテルダム賞の受賞作を売ったお金も底をついたため、やむなく古い絵画の修復をして生計を立てるようになっていった。
請け負う仕事で得られるお金はわずかであった。
困窮した生活を送る日々。
まれに自分の絵が売れて報酬を得ることもあったが、そんな時はきまって友人たちを集めて歓楽街に繰り出してしまう。
場合によっては見栄を張って周りの人たちにお金を配ることもあった。
(しまった!)と我に返るのは、夜中に家に帰って奥さんの顔を見た時である。
メーヘレンは残ったわずかなお金をアンナに手渡して「絵が売れた」とつぶやく。
「遊ぶお金があるなら、生活費をもっと増やしてください」
育児や家事に追われて余裕のないアンナが涙を滲ませるのは当然のことであった。
そんな日々が繰り返されるなか、ついにアンナが愛想を尽かす。
「ごめんなさい。私たちやっぱり無理みたい」
出ていく奥さんと子供を止めることがメーヘレンにはできなかった。
一人ぼっちになった部屋で、延々と古い絵画の修復に追われる日々。
愚痴をこぼす相手はもういない。
(なんでアンナは僕をおいて出て行ってしまったんだ。そうだ、絵が売れないからだ。なぜ売れない? 僕に才能がないからだ。でも、彼女も息子も僕の絵を見ると笑顔になってくれた。ではなんでアンナは出て行った? 僕に魅力が無いのなら、最初から僕のことなんか放っておいて欲しかった)
やがてメーヘレンは心を病み、酒とドラッグに溺れる生活を送るようになってしまう。
それから数年後、メーヘレン35歳の時に転機は訪れた。