0003 俺の股間のコンピューターがこいつはヤバいと告げている
俺は思い出していた。
そこは……古い古い、小さな町医者の待合室のような場所だった。
建物と同じくらい古びた石油ストーブの火が燃え、ゆらめいていた。
目の前には長く艶やかな黒髪の美少女が居た。青灰色の瞳がミステリアスで、目鼻立ちもどこか神々しいような、神秘的で繊細な、大変な美貌を持つ少女だった……少女と言っても十八歳ぐらい、まあギリギリ少女と言ってもいい年頃か。
「ごめんね。なかなか準備が終わらないの」
待合室には窓もあるのだが、窓の外は真っ暗で何も見えない。
今時白熱灯の照明は少し暗く、古い家具の暗い配色も相まって、この場所をより陰鬱に演出していた。
「お茶……いれましょうか?」
「いえ……結構です」
少女は冬物の、少し古いデザインの上下紺色のセーラー服を着て、赤いスカーフをきちんとつけていた。
柱の高い所に掛けられた振り子時計が、これまた陰気な音を立てる。
――ぼーん。ぼーん。ぼーん。
俺達は古いテーブルを挟む、向かい合った長椅子に座っていた。
ここに来て、最初の二時間くらいは、何でこんな可愛い子と二人っきり? などと思ってドキドキしていたのだが。いまやそんな気持ちは毛頭無い。
「ごめんね……」
「もういいですから……」
彼女は自分を女神だと言った。俺は最初それを聞いて面食らった。だけど結局の所、信じるしかなかった……俺はここからどこにも行けないのだから。
思い出せるのは、目前まで迫ったダンプカーのフロントグリル。そして気がついたらもうここに居た。俺は最初、病院に運び込まれたのだと思ったのだが、そうではなかった。
「その椅子、疲れるでしょう? 診察室にベッドがあるのよ。少し横にならない?」
「いえ……疲れてませんから……」
女神が立ち上がり……30cmくらい間をあけた隣に座りなおした。
「おなかは空かない?」
「いえ、全然……」
「そうよね……ここ、そういう場所じゃないもんね……」
女神がそっと……膝に置かれた俺の手に、手を重ねようとして来る……
俺は冷や汗を流し、慌てて立ち上がって反対側の長椅子へと移動した。
女神は……先程まで俺の手があった空間を指でなぞっている……俺の手の形を浮かび上がらせるように……ッ! 勘弁して下さい! 神様! 助けて神様!
どのくらいこうしているのだろう。二週間くらい経ってる気もするし、まだ三、四日かもしれない。
窓の外はずっと真っ暗なまま。時計だけが回る、古い町の診療所のような空間に、俺と女神の二人きり。それがずっと続いている。
俺が死んだのは、間違いだったらしい。
俺は最初にそう告げられた。
ウサジという男が天国か地獄へ行くのはまだ早い。元の世界に戻す事は出来ないので、代わりに異世界に転移させると。女神は最初、そう言っていた。
俺は形ばかり怒ったフリもした。最初は、とにかくこの美少女女神と少しでも仲良くなれたらいいなという下心もあった。
女神が自身の身の上話を始めた時には、これは脈ありかと思ってさらにドキドキした。女神の身の上話は何時間も続いた。
新しい話がなくなると今度はゲームやアニメ、小説の話、プロ野球チームや特撮ヒーローの話まで、とにかく俺が興味を持ちそうな事なら何でも、嬉々として話す女神……俺の話をキラキラ瞳を輝かせて聞いている女神……
それを見ているうちに……どうしようもない寒気が襲って来た。
「それで……異世界へはいつ……」
「もう少し……もう少しだけ……」
この話も、何回繰り返しただろうか。
最初は、俺が異世界の話をすると、女神は思い出したかのように別の話をしたり、ちょっとした芸を見せてくれたりしたのだが。そういうネタも尽きると、女神はもう、あと少ししか言わなくなってしまった。
このままでは、いけない。
「御願いします……御願いします女神様、俺を異世界に転移させて下さい、俺、まだまだ世界に未練がいっぱいあるんです!」
そうだ、俺はまだ家に呼んだ彼女にチアリーダーの衣装を着せた経験もない。まあ、まず彼女が居ないんだが……そう思った瞬間、女神のセーラー服はチアリーダーの衣装に変わっていた。
「そういう意味じゃありません! 早く俺を異世界に連れて行って下さい! 御願いします!」
「そう……こんなに尽くしても……駄目なのね……」
女神は俯き、その顔が艶やかで豊かな黒髪の中に隠れる……怖い怖い怖い怖い!!
「ごめんなさい足止めして……貴方を異世界に転移する儀式を始めるわね……」
やっと……解ってくれたのだろうか。女神はチアリーダー衣装のまま、俺に近づいて来た。
「両手を出して」
俺は言われるがまま、両手を出す。女神はその手をしっかりと握る……すべすべとしたきめ細やかな肌だ……だけどかなり冷たい。
「ごめんね、冷たい? 貴方の手で暖めて。そうしないと儀式が出来ないの」
「あの……そこにストーブがありますけど……」
女神は勝手に俺の手を握り、自分の手を包み込ませる。
「さあ、私の目を見て……いい?」
「は、はい……」
「もう暫く見つめて。それから、私が手をぎゅっと握ったら、目を閉じて」
「え……ええ……」
女神の視線がねっとりと絡む……やばい……全てがどうでもよくなりそうな美しさだ……だめだだめだ、しっかりしろ俺! 明るい未来の為だ!
女神の手が、俺の手を強く握った。
俺は目を閉じ……
「ひゃあああああああ!!」
ギリギリで目を開いた俺は慌てて床に飛びすさる。危なかった。迫り来る女神の唇が、あと5mmで俺の唇と接触する所だった。
「解ったわよ……行けばいいじゃない……行けばいいわよ……その……トイレの扉! そこが異世界の入り口よ!」
女神はぼろぼろと涙を零し、長椅子のクッションをバンバン叩きながら、そう言った。
トイレの扉かよ! この場所ではぜんぜんトイレに行きたくならないから、気づかなかった……
「だけど私! 見てるから! 24時間、365日、ずっとずっとウサジの事、見てるから! 私、ずっと見守っているからね! それだけは……忘れないで……バカ! ウサジのバカ!!」
俺は振り返りもせずトイレの扉に飛び込んだ。一体俺はどうなってしまったのか。
一つだけ解っているのは、あの女神を受け入れていたら、俺は永遠にあの空間で女神と二人きりだっただろうという事だけだ。
それが、俺があの箱の中で目覚める前に経験した出来事だった。