0277
この階段を一番下から登るのは初めてかもしれない。聖域の山の下には大きな河が流れていて、階段はその畔から始まっている。
大勢の人々がきょろきょろと辺りを見回している。その構成は老若男女いろいろだ。皆本当に、物珍しそうに周りを見ている……俺には何の変哲もない河原の光景に見えるが。
「おかあさん」「おかあさんだ!」
あれは兄弟だろうか。小さな子供が二人、母親と思しき女性の元へ駆け寄って行く……ああ、あれは親子に違いない、全く良く似てるわ。母親も驚いた顔をして屈み込み、両腕を広げて子供達を受け止める。
「どうぞ、ゆっくり。こちらの階段をお上がり下さい」
俺は群衆にそう呼び掛ける。近くで腕組みをして首をひねり、何事か思案していた男が、俺の顔を見てニンマリと笑う。
「へへっ、急がなきゃ」
「ああ、慌てないでいいんですよ」
しかし、きっと生前から慌て者だったのだろうその男は、勢いをつけて真っ先に階段を駆け上がって行く。そんな男に釣られたように、他にも急いで階段を駆け上がって行く者が居る。
実際何しろ人が多いもので、次第に階段は混雑し始める。それでも早く上に行きたいという人々は、列の後ろに大人しく並んで行く。
急いで行きたい者ばかりではない。一人の女が肩を落とし、俺に尋ねる。
「あの……もう少し、ここで河の流れを見ていては駄目ですか」
「ええ、どうぞ。階段を登る事はいつでも出来ますから」
周りで俺の話を聞いていた人々が、三々五々、顔を寄せ合って話す。皆、知り合いという訳ではなさそうだが。
「聞きましたか、いつ登ってもいいらしいですよ」
「あの子達みたいに家族に会えるなら、もう少し待っていたいけどねえ」
「俺はいいや、もう行くよ」
俺は皆から見えるよう岩の上に立ったまま、それぞれの想いで身の振り方を考える人々を眺める。河原を散策する人々、階段を登る人々……
ここでは時間の感覚がとても曖昧だ。数分経ったのか数時間経ったのか解らないが、ようやく登り階段の手前に並ぶ行列がなくなった。
後は誰でも、好きな時に階段を登れる……俺は岩から降りて、岩の後ろに神妙に立ち尽くしていたじじいとばばあに、真っ直ぐ向き直る。
「そろそろ行きましょう。どうぞ、あの階段を登りなさい」
二人は間違いなく知り合い同士のはずなのだが、決してお互いの顔を見ない。ここまで来て、まだ何か不満があるのかよ。まあ二人共、言われた通り階段の方に向かってはくれたのだが。俺は二人の後ろからついて行く。
「なんだ。あたしらだけご案内つきか」
ばばあの方がつぶやく。俺は黙ってついて行く。
階段を登り始めた辺りで、ばばあが再び口を開く。
「こんな男と組むのではなかった。あたし一人ならもっと早くに逃げ果せていたよ、こっちにはいくらでも時間があったんだ、なのに嫉妬で狂ったこの男が、溜め込んでいた力をありったけ使ってしまった……おかげで全部台無しだ」
ばばあは前を向いたまま、誰にともなくそう毒づく。それは勿論、このじじいに対する不満なのだとは思うが。
じじいは反論も何もせず、ただ俯いたまま階段を登る。
ばばあはお喋りをやめ、黙々と階段を登る。じじいはそこまでずっと黙っていたが、
「こんなはずではなかった」
不意に足を止め、そう言って振り向いた。その顔は相変わらずじじいではあるが、麓に居た時より少し若返っている。
目尻に涙の粒を浮かべ、じじいは高く上ずった声で俺に訴えかける。
「こんなつもりではなかったんだよ、本当に、俺が最初は治療師を目指していたのは知っているだろう!? 俺は人の世に役立つ人間になるつもりだったんだ、だけど色んな事で絶望して、その後でヴェロニク様にお会いして……その時だって、最初は立派な僧侶になるつもりだったんだよ!」
「やめんか! 見苦しい」
ばばあが怒鳴る……こちらも少し若返ったな。ばばあは相変わらず男の顔を見ないままじじいの腕をひったくるように掴むと、そのままその腕を引っ張って階段を登りだす。じじいは項垂れ、前に向き直り階段を登って行く。
「寺院から追放された時も、最初は普通の人間になろうと努めたんだ、信じてくれ、ウサジ……」
「そうですか。私は信じます」
俺は本当に、どうでも良いのでそう答えた。その間にじじいはおっさんに、ばばあはおばさんぐらいの歳になっていた。
階段の途中には座って一休みしている人も居る。ここでは階段を登ったからと言って疲れたりはしないが、そうして振り返る事もヴェロニクは許してくれる。俺達はそんな人達を追い越して階段を登る。
一方、時には後ろから階段を駆け上がって来る人も居る。
「お先に失礼っと!」
「走ると危ないですよ」
俺はその若い男に一声掛けてやる。あの男も下で見た時は老人だったな。
僧侶男が、また振り返った。こいつ、若返ったら誰かに似てるな……ああ、ジュノンが居たパーティのゆうしゃ男にそっくりだ、そういやあいつ、あれからどうなったんだろう。
「教えてくれ。お前と俺、何がそんなに違っていたんだ」
「何も違いませんよ」
「そんな訳がないじゃないか、俺には何も許されなかったのに、お前はずっとヴェロニク……ヴェロニク様の側に寄り添っていたのだろう?」
「何を言ってるんですか。貴方達がヴェロニク様を閉じ込めたりしなければ、私がヴェロニク様に出会う事もなかったんですよ」
男は口を開けたまま、しばらく呆然としていたが。
「では、俺のした事がお前とヴェロニク様を引き合わせたと言うのか……?」
ええ……マジでそんな事も解らなかったのか。自分の怨念に押し潰されていたんだろうな、こいつも。俺は敢えて返事をせず、ただ階段を指差す……ちょうどそこを、三人の子供が笑いながら駆け上がって行く。
「あははは」「待ってよ、あはは」「待て―、あは、あは」
鬼ごっこでもして遊んでいるように見えるそれは、先程河原で再会した親子ではないだろうか。階段を登るうちに母親がどんどん若返り、子供達もより幼くなってちょうど三人とも同じくらいの屈託のない幼子になってしまったのだ。
「気をつけて、転ばないように」
俺は子供達に声を掛ける。ああ。階段の終わりが見えて来た。
「本当の事を言うと、あたしもホッとした」
ばばあだった女魔術師も、すっかり若い娘のようになってしまっていた。大層な美人だなこいつも。この美貌の上に溢れるほどの才能を持っていたら、増長しても仕方ねえわ。
「自分では止めようがなかったんだ。さっきは逃げ果せていたら何て言ったけど、そうなったらまた二百年の間、憎しみを養いながら闇を這いずりまわる羽目になっていたんだな……フン、ウサジめ、アンタのおかげで大助かりだよ」
やれやれ。素直じゃねえなあ。
「ねえ、ウサジ様。この先に、ヴェロニク様が居るの?」
僧侶男は年端も行かぬ少年になっていた。その少年が振り返り、円らな瞳で俺を見上げながら足を止めた。
「そうですよ。どうかしましたか」
「僕、何かヴェロニク様に怒られるような事をしたんだよね?」
少年はそう言って俯く。もうこの子はヴェロニクに出会う前に戻ってしまったのだ、自分が何をしたのかも覚えていない、いや、何もしてないのだから知らないのだ。
「いいから来なさいよ」
女魔術師も小さな女の子になっていた。昔から勝気だったのだろう、少女はもじもじしている少年の手をぎゅっと握りしめ、すたすたと階段を登って行く。少年の方はだいぶ恥ずかしがり屋なようで、女の子に手を握られどぎまぎしている。
俺は歩みを緩める。
少女は少年を連れ元気よく階段を駆け上がって行く……その先にある、遊園地の入場ゲートのような聖域の入り口へと。もうあの二人は特別な奴らではない。他の子供達と同じ、穢れなき魂だ。
ゆっくりと階段を登る俺を、他の幼子達が追い越して行く。痛みや苦しみは誰にもない、みんな、門の向こうにある世界にわくわくしている。
階段を登りきった子供達は、次々とゲートの中に飛び込んで行く……そこに入った子供達はすぐに、歩き始めたばかりの赤ん坊のようになる。そして笑い声を上げながら、広い聖域の中へよちよちと駆け出して行く。
俺はゲートの前に暫し佇んでいた。カリンはヴェロニクと十七福神の案内に行っていて、不在のようだ。
聖域に危険などないとは思うが、念の為ちょっと見ておこうか。そう思った俺はゲートに近づく。
……
しかし。遊園地の入場ゲートのような聖域の門の、遊園地の入場ゲートのような回転バーは、俺がいつものように押しても、ピクリとも動かなかった。
外の世界における俺の肉体は、亡者の群体に飲み込まれ役割を終えた。
俺は……俺自身もこの世界で新たな人生を送らせて貰えるものと思い、ここへ来たのだが……トホホ。外で魔王になれなかったように、俺はここでも世界の部外者だったか。俺、子供に戻れてないしなあ……ズボンの中を覗いてみても、ちんこも黒くて毛が生えたままだ。
これからどうしよう。一旦下に降りるか。
河原に居る人達にはまだ生前の記憶が強くあって、階段を登るのをためらっている者も居る。
俺も坊主の端くれだ、最後の一人まで寄り添ってやろう。




