プロローグ
「タンタ、どこまで行くんだよ」
前方を歩いている親友に、アキハは声をかけた。その問いにタンタは、振り向きざまに「もう少し奥まで」と微笑む。
鬱蒼と木々が生い茂ったジャングルの中を、二人はひたすら歩き続けた。近くには大河が流れ、アマゾンのようである。その河には鼻水を垂らした巨大なネズミのような動物が棲息し、密林の隙間からは羽の生えたゾウが飛んでいくのが見えた。
前にタンタから教えてもらったことがあり、アキハはこれらの生き物について知っている。鼻水を垂らしたネズミは「ハナススリハナアルキ」、羽の生えたゾウは「アエロファンテ」とかいう名前らしい。
ハナススリハナアルキが垂らした鼻水の先には、魚が絡み取られていて、苦しそうに身体をくねらせていた。その姿は異様であり、且つ滑稽だった。
「アキハ!」
奇妙な光景をただ黙って眺めていたアキハは、タンタから急に名前を呼ばれ、ゆっくりと顔を上げる。タンタの視線を追って指さすほうを見てみると、その先には何本か同じような木が生えていた。頂上に大きな白い実をつけた木々だった。
「見て、バロメッツだ! きょうの獲物はアレにしよう」
そう言うが早いか、タンタは実を収穫し始めた。このバロメッツは前にも食べたことがある。この白い殻を割ると、中から仔羊が生まれる……いや、生まれるという表現は適切ではないかもしれない。つまり、羊の肉と血と骨を持った果実が出てきて、二人はその部分を食べたのだ。
初めて食べたバロメッツは、はっきり言って不味いと思ったが、タンタは「カニみたいな味がして美味しい」と言った。確かに、てっきり羊肉の味がすると思い込んでいたから不味いと感じただけで、カニだと思えばなんてことはない。この上なく美味だったのだ。
想像しただけでヨダレが出てきたアキハは、さっそくタンタの隣りに行き、バロメッツの収穫に取りかかる。重さはそれほどでもないが、かなりの大きさで、一人二つまで持つのが限界だろう。
「今度はロプも連れてこようか」
アキハは呟いた。ロプは六歳になるタンタの弟である。アキハたちの仕事を手伝ってもらうには、もうそろそろ充分な年齢になる。タンタも、ああ、と同調した。
バロメッツのフワフワとした感触を堪能しながら、アキハはこの仕事を始めた当時について想いを馳せる。始めこそ、恐怖や不安というものはあったが、それも数ヶ月のことだった。この仕事を始めて何年になるだろう? もう危機感は遠い過去に置いてきたようだった。
はるか昔は食べ物も普通に手に入ったと聞くが、アキハたちが産まれるより何百年も前の話らしい。とても、そんな平和な時代があったとは思えない。爺婆の空想なのでは、と思えるほどだ。そう語っている爺婆たちだって、実際には体験したことがないくらいの大昔なのだから。
そんな太古の昔が本当はどうだったかなんて、いまとなってはわかりようがない。もはや「伝説」に等しかった。
バロメッツの収穫を終え、アキハは次の獲物を探し始める。噂でしか聞いたことはないが、「アンブロシア」とかいう食べ物は最高に美味しいらしい。一度でいいから食べてみたいな、と周りを見回しながら独りごちた。
タンタは魚を取ろうとして、ハナススリハナアルキがいる河の中へ、足を踏み入れる。ハナススリハナアルキは基本的におとなしい、無害な生き物だ。裾と袖をまくったタンタは、かなり近くまで行って、魚を捕まえようと河の中に手を突っ込む。
そのときだった。
河岸の茂みが、かすかに揺れたような気がした。なんだろう、と目を凝らすと、その茂みの中から突然、猿のような毛むくじゃらが出てくる。
いままで見たことのない生き物だが、タンタは知っているのか「ヤフーだ」と静かに言った。
聞き慣れない言葉に、アキハは思わず訊き返す。「……ヤホー?」
「ヤホーじゃない、ヤフー! パンテオン側のルピテスだよ」
そう言って河から這い出してくると、アキハの腕を掴んで走り出した。凸凹した道を疾走したおかげで、何度もつまずきかける。
あとになって気づいたが、せっかく収穫したバロメッツを置き去りにしていた。このときは、そんなことを考えている余裕などなく、アキハとタンタは必死になって逃げ続けた。
後ろから離れることなく、ガサガサという音がピッタリついてくる。アキハは怖すぎて、後ろを振り返ることができなかった。
アキハたちが住む村に通じる洞穴は、敵側に気づかれないよう隠してある。頻繁に仕事のために出入りしているから、その部分だけ陥没して目立ってはいるが、二人の背の高さの二倍はあろうかという草木が周りを固めていて、遠目にはわかりにくいはずだ。
その草木を踏み分けて進むと、まもなく安全地帯となる村にたどり着く。
しかし、その寸前でアキハは横にすっ飛んだ。ものすごい勢いで地面に頭を打ちつけ、何事かと確認のために起き上がろうとしても、金縛りにでも遭ったかのように身体の自由がきかなかった。
頭部の痛みで、視界が真っ白になる。目を凝らし飛び込んできたのは、真っ黒な物体だった。
苦しい。
ヤフーの巨体が、アキハの上に乗っかっているのだ。長い毛を掴んで、必死に退かそうとするも、大きく重くのしかかったヤフーは、一向に微動だにしない。
このまま酸欠か、あるいは肋骨の十本でも折られて死ぬのでは。そんな死への恐怖が頭を過ぎった瞬間、急に身体が軽くなった。
アキハは痙攣するように咳き込む。隣りに目を向けると、タンタが木の棒を持って立っていた。
「アキハ、大丈夫?」
「あ、ああ……なんとか」
くらくらする頭を押さえて、アキハは辛うじて答える。ヤフーの身体には棒の先が突き刺さり、血をポタポタと流しながら逃げていった。
この隙に逃げようと振り返るが、奇妙な感覚に囚われる。風もないのに草原が揺れていた。
「よくもまあ、人間ごときが……奴隷を傷つけてくれたな」
どこからともなく声がする。草をかき分けて顔を覗かせたのは、また初めて見るルピテスだった。
「フウイヌム……!」
タンタは驚いたように、そう言う。フウ……なんだって? アキハは小首を傾げ、フウイヌムに目を移す。
馬を人間のようにした容姿であること以外、特筆すべきものはなかった。要するに、馬人間である。ただし、ケンタウロスのような半人半馬ではなく、見た感じは完全に馬が二足歩行したような姿なのだ。
「やばい、逃げよう」
タンタとアキハは、徐々にあとずさる。しかし、なにかが背中に当たって、二人は飛び退いた。背後にヤフーが、もう一体いたのである。
それだけではなく、周囲には黒い毛むくじゃらが、数え切れないほど蠢いていた。さっき感じた奇妙なものの正体は、これだったのか。
アキハは冷や汗をかくのを感じた。まずい、囲まれている。
茂みの向こうから、五体ほどのフウイヌムが現れた。ヤフーは二体ひと組になって周辺に集まり、フウイヌムの手(前足?)に鞭をぐるぐると巻きつける。
取りつけ終わった手を、フウイヌムはひゅっと振りかぶり、鞭をヤフー目がけて打ち下ろす。甲高い悲鳴が起こり、鈍い音を立てた。黒い塊が地面をのたうちまわる。
転がるヤフーの身体を跨ぎ、フウイヌムたちはアキハとタンタに近づく。先端にヤフーの血をつけた棒を構えて、タンタは歩み出ようとした。
アキハは「なにしてんだ、殺されるぞ」と、親友の行く手を阻むが、タンタは「このままじゃ、どっちみち死ぬよ」と言って、木の棒を掴む手に力を込める。
フウイヌムたちの円陣は、次第にその間隔を狭めていく。
「相手は高貴な種族だ。ふたり相手に複数体で、しかも、いきなり殺すような攻撃は仕掛けてこない」
こいつが言うからには、きっとそうなんだろう。アキハは、立ちはだかるタンタの背中を見つめた。だけど、さすがのタンタも緊張しているのか、こめかみの辺りから一筋の汗が滴り落ちる。
手にかいた汗で滑らないよう、より一層の力を込めて木の棒を掴んだ。
棒を振りかぶったのと同時に、フウイヌムの鞭が空を切る。タンタの身体がアキハの目の前をすっ飛んでいき、数十メートル先の木に当たって大きく揺れた。
木の葉がどさりと落ちて、一瞬にして枝だけの姿に変わる。
「タンタっ!」
フウイヌムたちは一斉に、叫んだアキハへと視線を注ぐ。次の標的を見定めるように、じりじりと歩み寄ってきた。
鞭の射程圏内に入ったら、僕もタンタと同じようなことになるに違いない。終わった、と思ってアキハは堅く目を瞑った。
張り裂けそうなほど、心臓が激しく波打つ。
くそ、どこが高貴だよ。めちゃくちゃ野蛮じゃねーか。
ひゅっと、風を切る音が聞こえる。たぶん、鞭を振り下ろしたんだ。
でもアキハの身体に鞭が当たることなく、代わりに水滴が顔に降りかかる。
それが量を増していき、スコールのような土砂降りになった。
うつむいたまま、アキハは恐る恐る目を開ける。
その瞬間、馬の脚が目に映ってフウイヌムだと思ったが、顔を上げて四足歩行の普通の馬であることに気づいた。
その背中には、誰かが乗っている。それが周囲に十騎ほど。
フウイヌムの仲間かと思って警戒したが、それも瞬時に解かれることになった。
馬に乗っている人が羽織っている、背中のマントには見覚えのあるマーク。輪の中に剣が描かれており、その輪の左半分が植物のツル、右半分が赤い炎だった。そして、縦に貫かれた剣を「Lævateinn」というロゴが横断する。
タンタから前に見せてもらった写真と同じで、そんな勇ましく格好いいエンブレムがマントに描かれていた。ずっとタンタが憧れていた、レーヴァテインの紋章である。
レーヴァテインとは、パンテオンを討伐するために結成された組織だ。しかし、アキハも噂でしか聞いたことがなく、その実態は謎に包まれている部分も多い。
一般的に公開されている情報は非常に少なく、活動目的のみで、所在地や人数については明かされていなかった。
タンタは「わからないからロマンがあるんだよ、秘密結社みたいで」と嬉々として語っていたっけ……アキハは紋章を眺め、記憶をたどる。
この世界に存在する生き物や組織について、アキハは幾度となくタンタから聞かされていた。
どこで得たのか、タンタが持っている「外の世界」に関する知識は膨大で、食料調達する際は魔物から襲われるのを回避するのに役立った。
しかし、魔物は知らず知らずのうちに心に入り込み、油断という大きな魔物を生み出していたのである。
アキハはレーヴァテインの人々をすり抜け、木の近くで横たわるタンタのそばに駆け寄った。
「タンタ!」力の限り叫ぶ。「大丈夫か!」
抱きかかえたタンタの身体は、ぐにゃり、とあらぬ方向へと曲がっていた。あっという間に、アキハの手は真っ赤に染め上がった。
大丈夫なはずがない。とんでもない馬鹿力で軽々と飛ばされ、大木へと衝突したのである。そんな身体が、大丈夫なはずもなかった。
アキハの腕の中で微動だにしないタンタの身体が、ひどく冷え切っているのは、雨に濡れたせいばかりではないのだろう。
アキハの必死の呼びかけに、タンタが反応することはなかった。視界がぼやけて、ほとんど見えなくなる。
雨滴が目に入ったのか、それとも涙が溢れ出てきたのか、それすら判然としない。
ましてや視界不良に伴って、聴覚まで悪くなったのか、あるいは雨音にかき消されていたのか、後方でフーフーという荒い息遣いがすることに、まったく気づかなかった。
「パナ! ヒュギ! 援護して!」
女の子の叫ぶ声がして、そこでようやく、異変に気がついた。
毛むくじゃらのヤフーが、すぐそこまで迫ってきていたのである。
馬から降りてきた少女は剣を振りかざし、ヤフー目がけて勢いよく斬りかかった。一目散に逃げ出したヤフーを追うことなく、その少女はアキハのもとへと近づいてくる。
白いマントを身にまとい、手には麻袋を携えていた。
「わたしたちは、レーヴァテインの救護班です」
その人は、そう名乗った。
タンタを地面に寝かせるよう、アキハに指示を出し、麻袋の中から草を取り出す。もう一つの麻袋の中には、すり鉢とすりこぎが入っていた。
少女はそれで草をすりつぶし、タンタの痛々しい皮膚へと塗り込む。
「な、なにしてんの……?」
少女は、なにも答えなかった。
次に麻袋から小瓶を取り出すと、中に入っていた透明な液体を、タンタの口元へと持っていく。
なかなか流れ込んでいかず、溢れ出た液体が地面へと落ちた。
二人の近くでは、同じ白いマントを身にまとった人たちが、周りの戦況に気を配りながら、タンタと少女の様子を見守る。
フウイヌムが繰り出すムチ攻撃に応戦しつつ、一人が大声で少女に声をかけた。
「どう、サルース? 治りそう?」
「全然ダメ! ジヴァヤ・ヴォジャも効かない……!」
「ジヴァヤ・ヴォジャも?」
少女の言葉に、表情を曇らせる。振り下ろされたムチを躱し、アキハたちのもとに駆け寄ると、急いでタンタを担ぎ上げた。
「だったら一旦、退避しよう!」
フウイヌムたちも散り散りになり、圧倒的にレーヴァテインのほうが優勢に見える。すでにヤフーの姿は、半分も見えなくなっていた。
アキハは促されるまま、初めての乗馬にチャレンジする。タンタを抱えた少女と一緒に、同じ馬へと乗り込んだ。
これまでに経験したことがないような視野の広がりに、全身に鳥肌が立つのを感じる。手綱を引っ張りながら、少女が声を張り上げる。
「ラーガ! あとは戦闘班に任せてもいい?」
「ああ。問題ない」
どこからともなく男性の返答が聞こえ、残りのヤフーの群れを蹴散らしながら、救護班を乗せた馬は出発した。
木陰に隠れていた幾匹ものヤフーを通り過ぎる。
その中には命からがら逃げてきたであろう、負傷したフウイヌムも混じっていた。
気づいていないのか、それとも、そんな体力はないのか、過ぎ去っていくアキハたちに見向きもしない。アキハにとっても、それはありがたかった。
「ここを過ぎれば、わたしたちの城が見えてくる」
地面へと潜る洞窟を進みながら、少女はアキハに向かって振り返る。
「一般人が入るのは、これが初めてだよね?」
もうひとりの少女が「二年ぶりです」と答え、持っていた松明に火を灯した。周りが仄白んで、タンタの青白かった顔も、微かに血の気がさしたように感じる。
タンタ。僕たちは、夢にまで見たレーヴァテインのアジトに、足を踏み入れようとしているんだよ。
いつまでも寝てないで、しっかり目に焼きつけようよ。
☆ ☆ ☆
傷を負ったフウイヌムは、アキハはもちろん、レーヴァテインの人たちにも知られないうちに、ジャングルの奥に築かれた城塞へと逃げ延びていた。
重く閉ざされていた門を開き、最後の力を振り絞って声を張る。
「エル・ガバル様!」
その声を聞いて、城の中心にある塔の最上階で、優雅に紅茶を啜っていたエル・ガバルは、ひょいと椅子から立ち上がる。
さらにフウイヌムは、声を張り上げて続けた。
「レーヴァテインの連中が……!」
そこで、そのフウイヌムの力は尽き、床に崩れ落ちた。またか、と思ってエル・ガバルは舌打ちする。
それから、直立する部下に向かって「表の馬人を処分しといて」と命令する。
「レーヴァテイン……」
エル・ガバルは、ぽつりと呟いた。
「なんて腹立たしい連中かしらっ」
自作解説:マゴラカ
いま思うに最初は、ワンタさんに送った私の駄文でありました。
ワンタさんと会って、いろいろな企画や話を重ねていくうちに、あの文を小説にしてみようと話が盛り上がり、今回のパンテオン大戦として、めでたく世の光を見たと思います。
もともと私は、さまざまなゲームや本などの影響から、神々やモンスターと、いま自分のいる現実とが合体した世界は、どんな世界であろうと妄想していました。
ワンタさんから小説を書いてみないかと、お話をいただいたときも、そんな世界観の小説を書いてみたいと始めました。
しかし、いざ始めてみると、小説のストーリー立てなどが思いつかず、また、私の悪いクセである「飽きやすさ」などが出てしまい、途中で断念してしまいました。本当にすみません。
そして、この途中で放置された小説が、最初の駄文であります。
その世界観を受け継ぎ、ワンタさんの手をお借りして、二人で(ほとんどワンタさんに頼ってありますが)パンテオン大戦を作っていきました。
ここで、今回のプロローグと駄文のつながりを紹介します。
パンテオン大戦内での世界観では、最初にジャングルが登場しますが、もともと実は荒廃した街という設定でした。
バロメッツもその中で、廃墟と化したスーパーの床の割れ目から生えているということでした。
また、そのスーパーでタンタとアキハが食料を調達中、ばったりと遭遇したフウイヌムを、そのあとに倒す「レーヴァテイン」の青年が主人公でした。
タンタは死んでしまい、助かったアキハはお礼を言うという、ちょいキャラだったのですが、このアキハが今作では主人公に大出世を遂げました。
これから始まるパンテオン大戦ですが、どんな世界が次々と登場するのか楽しみです。
さて、次回はフウイヌムの上司であるパンテオンの神が登場します。
しかし、この神がとても強烈なキャラクターなのですが、それは次回のお楽しみ。
これからもパンテオン大戦を、どうかよろしくお願いします。
(2017年9月23日)