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足がもつれる。雪が忌々しい。上手く走れない。息は切れて、限界はとうに超えていた。体のあちこちが痛む。まともな栄養など全く行き届いていない、ボロボロに痩せこけた体だ、当然だ。谷は雪の中を一心不乱に逃げていた。雪上を走る複数の足音と話声が、どんどん近づいて来る。声で分かった、奴らは楽しんでいる。脱走してくれたおかげで、人間ハントが出来るのだ。獲物は武器を持たない人間だ、そうそう出来ないゲームは、動物を追うより楽しいのだろう。

自分の死はまもなくだ。その恐怖は、戦場で嫌というほど味わってきたが、いよいよこれが本当の死だろう、と全身で感じていた。

何故、自分の最期が日本ではないのか。こんなにも寒い、遠い異国の、白い土地で死ななくてはならないのか。その理不尽さに、無くしていた悔しさが改めて込み上げてきた。谷は走りながら日本にいる家族と、そのぬくもりを思った。


谷正造は日本で教師をしていた。23歳で見合い結婚をして、翌年子供が1人生まれた。そしてその年に、出兵したのだ。妻と子の手を握り、必ず帰るから、と告げた。妻の泣き顔と、子供の手の柔らかなぬくもりはいつも心にあった。旗を振り、見送ってくれる人々に、お国のために行ってきます、と叫び、谷は戦場へきた。

そして、第2次世界大戦、末期、1945年、8月9日未明、ソ連は日本に宣戦布告し、満州へ軍事侵攻した。その後、日本がポツダム宣言を受諾、降伏した。満州では停戦会議によって、武装解除後の日本軍、在留民間人の保護が成立したかに見えたが、その通りには行われなかった。100万人以上という、大量の日本軍捕虜を、ソ連の収容所へ移送させて、強制労働を行わせる命令を下したのだ。

谷のいた部隊も捕虜として捕えられた。小銃から軍刀まで、全て奪われ丸腰となった。「武器も手も足も失えば、最後は舌を噛み切り自決しろ」という軍隊教育が頭に浮かんだが、もはや誰一人そんな抵抗を見せる者などいなかった。皆、目から光が失われていた。疲れ果てていた。それから、日本へ帰してやる、と言われて貨車に押し込まれた。最初は、日本へ帰国できるのだ、と期待を抱いていたが、西へ向かっていることが分かり、皆、絶望した。教師をしていた自分は、海や太陽の位置から考えて、進行方向が西だと分かっていたが、隣りにいた若い男が、西のはずがない、と言い張り、周りの人達の希望を生んでいた。だが希望は儚く消えた。捕虜でいっぱいの貨車の中で、疲労と寒さに死んでゆく者もでた。途中、停車中に脱走をはかり、銃殺される者もいた。乾いた銃声を聞いて、皆、顔色が変わり、それからほとんど喋らなくなった。

何人もの死者を見て、やっとたどり着いたのは、雪と氷に閉ざされた極寒の地、シベリアだった。冬は零下40度まで下がり、太陽の出ている昼間でも0度を超えることがない、[音さえ凍る]と言われるその地で、屋外での重労働に従事させられた。

凍土の上を、鉄条網で四角に区切っただけの広場、そこに粗末な建物が並んでいた、それが収容所だった。四隅には監視用の高い望楼があり、連発銃を持ったソ連兵がいた。支給される食べ物は粗末で少なく、常に栄養失調状態でフラフラだった、その体で重労働をした。谷は凍える屋外の、木の伐採作業をした。飢えと寒さに喘ぎ、苦しみ、何人もの仲間が死んでいった。ある日、よく話をして、谷のことも何かと気にかけてくれた村上が(40歳ぐらいの開拓団員で、徴兵され、妻と子供を2人残してきた、と言っていた)あまりの空腹に耐えきれず、一人、雑草を取るために外に出て行った。その時ソ連兵が止まれ、と呼びかけたのだが、村上は耳が悪く聞き取れなかった。銃声が轟く。村上の遺体はしばらく見せしめに晒された。後で、村上は衰弱した仲間のために雑草を取りに行ったのだと知った。そのうちにチフスが流行り始め、1日10人を超す死者が出始めた。毎日のように遺体の埋葬をした。それでも皆、絶対に生きて日本に帰るんだと、頑張った。こんな所で死んでなるものか、と。

零下40度を超す寒い日が続いていた。谷は自分の体の違和感に気付いた。気分が悪く、微熱が続いていたのだ。チフスかもしれない、自分も死ぬのか。チフスで死んだ仲間の遺体を穴に投げ入れながら、絶望した。そして、脱走を決意する。仲の良かった友人、菊池にだけ、そのことを告白すると、自分も共にゆく、と言った。いずれ死ぬのならば、一縷の望みに賭けて死にたかった。逃げ切れる可能性などないことは、承知の上だった。作業場へ行く前に、菊池と固く握手をした。  

「今までありがとう」と涙ながらに言い合った。そして、銃を持った警護兵もいる伐採作業中に、兵の目を盗み、全力で走った。


足の感覚はとっくにない。追ってくる警護兵達の笑い声が聞こえる。体力のない自分達など容易に殺せるので、慌てて追って来ないのか。自分の後に、走って来るはずだった菊池は来ない。さっきの3発の銃声が、友の最期だったのだろう。

ダーン、ダーンと音がして、近くの雪が飛び散る。音は、この白いだけの世界に、綺麗に吸い込まれてゆく。また、銃声がした。右のふくらはぎを撃たれた。ぐらりと体が倒れる。凍傷のせいか、必死になっているせいか、痛みはあまり感じない。もたつきながらも、ほふく前進で前に進む。倒れた時に口に入った雪が冷たい。遠くで警護兵は盛り上がっていた。俺のが当たったんだ、とでも言っているのだろう。ザッザッと足音がどんどん近づいて来る。歯を食いしばった。谷は覚悟を決め、諦めた。

生きることを。

ゴロリと仰向けになる。高く、青い空が、そこには広がっていた。何て綺麗なんだ、そう思った。不思議なことに、谷の顔は笑っていた。

警護兵が、仰向けになった谷正造に銃を向けた。

その時だった。

突如、空が急激な速さで迫り、谷は気を失った。谷の体が突然、空高く舞い上がったのだ。そして、あっという間に見えなくなってしまった。警護兵達は呆気にとられ、銃を撃つことも出来なかった。

真っ白な雪の上に、谷の流した赤い血だけが残っていた。



パチパチと、木がはぜる音が聞こえる。足が疼いて痛い。痛みはだんだんと強くなってゆき、谷はゆっくりと目を開けた。ここは天国だろうか、そう思いながら体を起こそうとしたが、足が痛くて起き上がれない。見ると、自分の右足がなかった。なんとか手を付いて起き上がり、少しの間、かなり短くなってしまった自分の足を見つめた。それから周りに顔を向ける。ごつごつとした岩肌に囲まれた場所だった。円形の洞窟のようだ。かなり広く、天井も高い。石で囲った焚火が、ボウボウと燃えて、谷の後ろに大きく揺らめく影を作っていた。洞窟の先の方は暗くてよく見えないが、道が続いていて、枝分かれしているように見える。さらに奥は炎の光も届かない真っ暗闇だ。入口らしき場所は見当たらないし、全く寒くないので、どうやら入口からかなり奥にいるのだろう。谷の体には、ボロボロになった毛布が掛かっていた。近くにはバケツがあり、水が入れてある。木をくり抜いた皿らしい物には木の実が入っていた。人の気配はない。

一通り周りを見て、谷は改めて自分の足を見た。太ももの上部までしかない。切断された所には、木の皮を薄くしたようなものが巻かれてあった。ズクズクと、激しい痛みがある。熱があるのか、ぼーっとする頭で谷は考えた。

どうやら誰かに助けられたようだ。そして凍傷と被弾で腐りかけた足を切り落とし、高熱を出して意識を失っていた自分を介抱してくれた。

谷はクラクラと眩暈を感じ、体を横にした。洞窟の中にしては高い、天井の岩肌を見つめる。あの時、死を覚悟した瞬間、何が起こったのだろうか。まるで何かに引っ張られるように、すごい速さで空が迫ってきた、そこまでしか覚えていない。自分の魂が、死の世界に引き上げられたのだと思った。意識を失うと、ああいう風になるのだろうか、いや、もしかしたら今もまだ夢の中か、それともこれが、死の世界なのか。けれど、右足の痛みは現実としか思えない。ぐるぐる回る頭で考えてみても、答えは出そうになかった。とりあえず今、警護兵が追ってくる気配はないようだ。そう思ったら安心し、谷は再び眠りに落ちた。


喉の渇きと足の痛みを感じ、目を覚ました。焚火の薪が少なくなり、炎が小さくなっていた。谷はバケツに入っている水を飲もうと、痛みを堪えて体をなんとか起き上がらせようとする。すると、洞窟の奥から足音が聞こえた。ゆっくりと、足音は自分に向かってくる。炎に照らされ、暗闇の中から少しずつ、姿が見えてくる。

それは、母だった。呆然とする谷へ、母は悲しそうな顔をして何かを言おうとした、そこで目が覚めた。

喉がカラカラだった。まだ眩暈がしている。足も痛みが増したようだ。谷は周りを見回した。まだここに母がいる気がした。けれどどこにもいない。パチパチと焚火は音を立てている。新たに薪がくべられたのだろうか、炎は、眠りに落ちる前に見た時と同じぐらいに、勢いよく燃えている。ゴウウー、と洞窟の中に風の音が聞こえていた。外は吹雪なのかもしれない。

谷は夢と同じように、バケツの水を飲もうと、起き上がろうとした。その時、足音がした。体が固まる。息を呑んで、足音がする方を見つめた。炎に照らされて、少しずつ姿が見えてくる。それは、若い娘だった。モンゴルの民族衣装によく似た服を着ている。けれどモンゴル人でもロシア人でもない。どことなくアジア人の雰囲気はあるが、どこの国かよく分からない顔つきの、17、8歳くらいの娘だ。肩には雪が掛かっていた。娘は厳しい顔つきで、谷をじっと見て、

「サエン バエ ノー」

と言った。何語か分からないが、娘から敵意は感じない。挨拶のようだった。何もしゃべれず、ぼうっと見つめる谷に、娘はバケツを持ってきて、谷の前に置いた。谷は頭を下げ礼をして、手で水をすくい飲んだ。とても冷たい水で、熱かった谷の体に、それは心地よかった。娘は水を飲む谷に、少しずつ近づき、すぐとなりに腰を下ろした。どうやら娘の方も警戒しているようだった。恐る恐る、という感じで、娘は谷の右足の切り口をなでた。谷は驚いて娘を見る。炎の明かりで先ほどよりもハッキリと見える娘の顔は、とても美しかった。悲しげな顔で谷を見つめる、その娘の目は、谷の心を溶かしていった。

それから数日、谷は熱にうなされ、悪夢ばかり見た。日本へ帰る手前で見つかり、銃殺される夢だ。叫んでは目が覚める。自分の呻き声で目が覚めることもあった。娘はそんな谷の汗を拭き、毎晩付き添い、木の実をすり潰して口に含ませたり、雪を火で溶かして水を飲ませたりした。谷はその度に

「ありがとう」

と言って泣いた。娘に聞きたいことは、たくさんあった。君は何人で、それは何語なのか、なんでここに1人でいるのか。自分をどこで発見したのか。だが、言葉が通じないのと、寝込んでいたのとで、疑問はそのままになっていた。

そのうちに谷の熱は引き、体調は徐々に回復していった。何日も経っているが、警護兵が追って来る気配が全くないことから、ここが抑留地からかなり離れた山奥なのだろう、と推測できた。片足がなくなったことは、そんなに衝撃的なことではなかった。戦争で、ボロボロの遺体をたくさん見てきた。命とはあっけないものだ、と知った。足をなくすことよりも衝撃的な体験を、たくさんしてきたのだ。それは戦争によって変えられた感覚の一つだった。


娘とコミュニケーションがとれるようになり、谷は少しずつ日本語を教えた。そこで、驚くことになる。普通ではとても考えられない速さで日本語を吸収し、自分のものにしていったのだ。娘は谷に、もっともっといろんな話をして欲しい、と毎日せがんだ。

ある夜、谷は聞きたかったことを全て聞いた。

「君はどこの国の人なんだ? 家族はどうしたんだ? 何故こんな山奥に1人でいるんだ?」娘は黙って聞いていた。

「私はどうなっていた? どうして助けてくれるんだ?」

娘はそれらの質問に、困ったような、少し寂しさを含んだ顔をして、

「分からないよ、谷」

と言った。

娘は日本語で会話が出来るほどまで上達し、その性格も、だんだんと分かってきた。壊死した自分の足を切り落とすだけあって、かなり強靭な精神力を持つ、芯の強い娘だった。谷は、会話が出来るようになった最初の頃に、娘の名前を聞いたが、娘は教えてくれなかった。それから何度も聞いて、とうとう娘は覚悟を決めたように、自分の名前を言った。娘の名はリル ラといった。その発音が聞き取りにくく、谷は最初、リューラ、と言ってしまい、結局そのままリューラ、と呼んだ。

リューラの謎は、日が経つにつれ増えていった。リューラはほとんど食べないのだ。動けない谷のために、野ウサギや小鹿などを捕ってきてくれるのだが、自分は食べようとしない。お腹が空くだろう、と言うのだが、大丈夫だと言う。谷に食べさせ、余った残りの肉は、洞窟の奥にある、冷えた穴蔵に保管した。自分は時折木の実を食べるぐらいだ。謎は他にもあった。狩りに出かける時、リューラは一切の道具を持たずに行く。持ち帰るウサギや鹿は、外傷がなく、窒息死していた。足の速い動物たちを、どうやって捕ったんだ?と聞いても、

「教えるもんか」と笑うだけ。この土地に伝わる、秘密の狩りの方法があるのかもしれない、と谷は考えた。

ある時、「谷は日本という国の兵士なんだよな」と聞かれた。

「そうだ」と答えると、

「戦争というのを、私はたくさん見た。争いはなくならない。殺したり殺されたり、兵士とは、悲しいな」そうリューラは正しい日本語の発音で言った。

「そうだな。私のこの手も血で汚れている。私の撃った弾が敵の兵に当たり、倒れるところを見た」

リューラは谷を見た。その目は、澄んだ深い海のようで、何故だか怖くなり、まともに見れなかった。

木を松葉杖のようにして、なんとか歩けるようになり、谷は外に出るようになった。最初、洞窟から出る時は、辺りを何度も見回して、追っ手がいないか確認していたが、そのうち安心して、度々外の空気を吸うために出るようになった。

想像通り、この洞窟がある場所は、人の気配の全くない、かなりの山奥だった。白い凍土の世界に広がるのは、針葉樹の森だけだ。たくさんのゴツゴツとした雪山が、高くそびえ立ち、自分とリューラを隠してくれているようだった。

日中は、日本語の書き方や、数学、歴史など、様々なことをリューラに教えた。満足に歩けない谷は、リューラにほとんどの世話をしてもらっていたので、何も出来ない自分が情けなく、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。何か、恩返しがしたい、そんな気持ちを吐露したら、リューラは、それじゃあ谷が持っている知識を全て私にくれ、と言ったのだ。鉛筆も紙もないので、洞窟の岩肌を黒板にし、鋭角な石を使って文字を書いた。リューラの驚異的な学習能力の高さに、時折呆然としながらも、谷はこの授業を心の底から楽しんだ。日本での教師生活でも味わったことがない喜びだった。

谷とリューラは、天気の良い日はよく、付近を散歩した。外は極寒で、リューラは捕った獣から剥いだ毛皮を、谷に羽織らせた。リューラ自身も大型の肉食獣と思われる動物の毛皮を羽織っていた。肉食獣はリューラでは仕留めることは出来ないはずだ。その毛皮はどうしたんだ? と聞くと、リューラは少し間を空けて、死んでいたからもらった、と言った。

杖をついて歩く時、谷が、歩く練習になるから手を貸さなくていい、と言うと、そういう時のリューラは、谷が倒れても全く手を出さなかった。

リューラはあまり感情を見せることがなかったが、美しい自然を目にした時は違った。たまに出るオーロラを、雪の上に仰向けになって見る時、太陽に照らされ輝く純白の山々を見た時、リューラは、今にも泣き出しそうな、恍惚とした、そしてどこか哀愁に満ちた顔をした。谷もそれらの自然の美しさを目の当たりにした時、あまりに美しすぎて、その時間だけは、全ての残酷な出来事を忘れることが出来た。人が全くいないこの世界は、異常なくらい特別だった。戦争という言葉など、そこには微塵も存在しない。生きていることの素晴らしさを感じられた。

自分は生きている。谷は、そう実感する度、雪崩のように押し寄せてくる罪悪感を感じるようになっていた。自分は生きている、申し訳ないことに…。

罪悪感は、日に日に重くなっていった。相変わらず悪夢もよく見た。菊池や村上、仲間達が夢に出て来て、無言で自分をただただ見つめる夢。よく見ると、菊池達の後ろには、赤子を抱いた妻もいた。叫び声をあげ、目を覚ます。そんな時、少し離れた所で寝ているリューラは、洞窟の奥へ行き、谷を1人にした。前に、悪夢で取り乱した谷が、1人にしてくれ、と怒鳴ったからだ。あまりに酷い悪夢で、錯乱し、「何で自分を助けたのか、見殺しにしてくれたらよかったのに」と、リューラに喚き散らした。その時のリューラの顔は、とても辛そうだった。

あれから何か月もたった。妻や子はどうしているだろうか、日本はどうなったのか。脱走し、1人生き延びた自分は恥だ。皆は苦痛に耐え、あの過酷な労働に従事している。脱走したことは、日本の家族に知らされているだろうか。日本に帰国したら、皆に何と言われるだろうか。共に脱走した菊池を殺したのは自分だ。自分だけ助かってしまった。生き恥を晒すくらいならば、自害すべきだ。

しかし、それも出来ない自分に羞恥心は増し、日本で待つ妻と子の元へ帰らなければ、という谷の気持ちを削いでいった。

杖を使って歩くことにも慣れ、谷は1人で森の中を散歩するようになった。オオカミやクマ、トラなどが出るから気をつけろ、とリューラは心配したが、大丈夫だから、と谷は笑って言った。1人で歩きたかった。万が一襲われて死んだとしても構わない、そう思った。異国の静かな森の中で聞こえるのは、ざく、ざく、と歩く度に出る雪の音と、頭上から聞こえるオオワシの笑い声だけだ。

リューラは、見た目はか弱い娘だが、この極寒のシベリアの山奥で、1人きりで生き抜いてきた、たくましさがある。もしも、誰に見つかることもないのであれば、ここで生きてゆく道もあるのだろうか。谷は失った右足を見て、自分が失った人生を思った。そして、思い切り声を上げて泣いた。晴れた日の針葉樹の森に、谷の嗚咽がいつまでも響いていた。


ある日の事だった。リューラは朝早くから狩りに出ており、谷は1人で洞窟の周りの森を散歩していた。その日は、いつもより少し遠くまで足を延ばした。ゴツゴツとした岩と、降り積もった雪で歩きにくい坂を、なんとか上がると、見晴らしの良い所に出た。雄大で美しい、白い山脈が見渡せる。空気が恐ろしいほど澄んでいて、谷の肺を冷やしてゆく。ふと、遠くに動くものが見えた。一瞬体が硬直したが、よく見るとそれはリューラだった。腰に、捕った小動物をいくつかぶら下げている。自分には気付いておらず、ゆっくりとこちらに向かって歩いていた。相変わらず、狩りの道具らしきものは持っていない。どうしたら秘密の狩りの方法を教えてくれるだろうか、と谷が考えていた、その時、歩くリューラの斜め後ろに、うごめく大きな何かが見えた。

あの模様、トラだ。でかい!

白い雪の中に茶と黒の巨体。その恐ろしい存在感。谷の背すじが一気に冷える。トラは、獲物を狙う姿勢で低く構え、まっすぐ、リューラとの距離を詰めている。リューラと、その腰に下げた小動物を狙っているのだ。リューラは気付いていない。

「リューラ‼ トラだ! 後ろ!」

谷は必死の思いで叫んだ。リューラは谷の姿を見つけたが、手を上げただけだった。何と言ったか聞こえなかったのだ。何度も大声で叫ぶ。リューラの歩くスピードは変わらない。じりじりと、トラは迫っている。谷はリューラの元へ行こうと、慌てて杖を使って走った。けれどすぐ、バランスを崩して倒れる。自分の右足が憎らしい。雪の付いた顔を上げ、再び叫ぼうとした、その時だった。トラが、突如素早い動きで、リューラの背中に飛び掛かるのを見た。

声にならない叫びをあげる。気配に気付いたリューラが振り返る。

アッと思ったその瞬間。信じられないことが起きた。

リューラの体がフワリと浮き、一気にトラの上へと舞い上がったのだ。トラは再びリューラ目がけてジャンプする。しかし全く届かず、その爪は空を切った。トラは頭上のリューラをなかなか諦めなかった。リューラはふわっと、近くの、幹が太く背の高い木まで飛び、その木の上部を片手で掴むと、木の根ごとあっさり引き抜いた。リューラより、はるかに大きく太い巨木、それをズボッと、簡単に、まるで雑草でも抜くように引き抜いたのだ。リューラはその巨木を軽々と持ち上げ、トラに向かって凄まじい速さで振り下ろした。

ドーン、と、すごい轟音と衝撃がして、周りの木々が震え、雪を落とす。トラは驚き、森の中へ逃げていった。

リューラは抜いた巨木をまた元の位置へ戻し、ズッズッと地面に突き刺した。その体はずっと宙に浮いていた。当たり前のように。

谷は呆然と見ていた。そんな谷を、リューラも見た。その目はとてもせつなげに見えた。ふうっと息を一つついてから、リューラは地面スレスレの低い位置まで下りて、そのまま谷の所まで飛んできた。少し後ずさった谷の前に、ふわりと、鳥が舞い降りるように着地する。それは本当に自然で、翼の生えた生き物のようだった。

「トラがいるって、言ってくれてたんだな」リューラはそう言って、悲しげに笑った。

「驚いたよな」

それは冷たい空気の中に溶けてしまうような、小さな声だった。

谷は何も言えなかった。頭が真っ白だった。追いつかないのだ。今、目の前で起きたことを整理出来ない。手が震えていた。開いた口から出るのは、せわしない呼吸のみだ。谷の頭に、警護兵に殺されかけた時のことが浮かぶ。何で助かったのか、分かった気がした。

雪が静かに降り始めていた。2人の頭にも雪が乗っては消える。谷の口からは何の言葉も出て来ない。そんな谷の前に、さみしいような、苦しいような、そんな目をしたリューラがいた。谷に食べさせるためのウサギを2羽、腰に下げて。


それから、洞窟に戻るまでも、戻ってからも、どちらも口を開かなかった。谷の心の中には、恐れが芽生えつつあった。この何か月、リューラと共に生活し、その純粋で素朴な優しさに救われていた。それが、一変してしまったのだ。

けれど、それでも、共に洞窟に戻ったのは、他に行く所もなければ、満足に歩くことも出来ない、という事実と、リューラに対する不思議な信頼だった。リューラは命の恩人なのだ。そこには、たとえわずかであっても、絶対的な信頼がある。

「隠していて、ごめん」

リューラが口を開く。焚火の揺らめく炎を見つめ、ぽそっとそう言った。その声はさみしそうで、それを聞いた谷は、張りつめていた緊張が、ゆるゆると溶けてゆくのを感じた。

「いや・・あの時、殺されそうになった時、助けてくれたのはリューラだったんだな」

そう言って、谷はやっと、静かに笑った。

夜の冷え込みが増していく。暗闇の中に灯る焚火の炎が、心を、静かに、素直なものに変えてゆく。谷は思い切って切り出した。

「リューラ、教えてくれ。君はどうして空を飛べるんだ?」

「それにあのすごい力。狩りはその力を使ったのか?」

リューラはしばらく黙っていた。そしてゆっくりと、谷へ顔を向ける。その澄んだ深い目で、谷をじっと見つめた。炎で顔に影が出来る。何百年も閉じられていた扉を開けるかのように、リューラは口を開け、ゆっくりと深く息を吸い、吐いた。そして、語り始める。

「・・・谷。私の話をしよう」


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