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風馬はいつもより1時間早く目が覚めた。昨夜は寝付きが悪く、ほとんど眠れていない。原因は前々日からの不規則な生活もあるのだろうが、それだけではない。時計を見ると、時刻は朝の6時半だった。外はまだ暗い。しばらくベッドの上で胡坐をかき、1つ、深い溜息を吐く、そして顔を上げた。その目は決意に満ちた、何かを覚悟したような目だった。

寒さに身を固くしながら、ベッドから出て暖房を点ける。インスタントコーヒーの粉を入れたカップに、沸かした湯を半分まで入れ、牛乳をたっぷりと入れた。冷蔵庫から残っていたタマゴ3つと1.5リットルのジンジャーエールのペットボトルを出す。タマゴ3つをフライパンに割り入れ、スクランブルエッグを作った。グラスにジンジャーエールを注ぐ。残っていた食パン2枚にスクランブルエッグを挟み、マヨネーズをつけて食べた。いつもは食べない朝食をゆっくりと食べた。テレビを点けると、朝のニュース番組をしていた。いつもの楽しい一日の始まりを教えてくれている。最後に珈琲牛乳を飲み干し、大きく息を吐く。少し気持ちが落ち着いた。キャスターの声のトーンが少し下がり、ニュースを伝えるコーナーになった。そこでテレビを切った。厚手のジャケットを羽織り、マフラーをして、一通り部屋を見回し、いつもより30分早く家を出た。

玄関ドアを開けると、肌にピリッとした冷気を感じ、風馬は首を竦めた。歩道の端には雪が小山を作っており、太陽の光にキラキラと照らされてる。家から職場までは歩いて20分かかる。いつもは自転車で通勤しているのだが、路面が凍結しているかもしれないので、歩いて行く事にしたのだ。

家を出てからの風馬の顔は厳しかった。前の夜に雪が降った寒い朝なので、通勤や通学の人達は皆厳しい顔つきになっていたのだが、その中でも風馬の顔は一際厳しかった。そして時折後ろを振り返ったり、左右を見たりする、そんな風馬の事を、周りを歩く人は不審がり、避けながら歩いてゆく。途中にあるマンション建設の工事現場を通りかかった時は、上も何度か見上げるので周りの人も何か上にあるのか、と見上げてしまうほどだった。

少しして、中学校の通学路の流れと合流した。皆、カラフルな手袋やマフラーをして、雪で遊びながら楽しそうに歩いている。白い息があちこちからホクホクと立ちのぼる。3、4人ぐらいのグループが一緒にかたまりとなって歩いているため、風馬を含め通勤の大人達はその中を縫うように歩いていた。

そんな通学川の流れの前方に、やけに騒がしい目立つかたまりがあった。見ると、通勤の大人達はそのかたまりを遠巻きに避けて歩いている。同じ中学生も見ないように避けて歩いていた。そのかたまりのせいで、後方の通学川の速度がいつもより落ちている。

それは6人の男子中学生だった。持っている鞄の汚れ具合や制服の乱れから、不良グループだというのが誰の目にも明らかだ。その不良グループの真ん中に1人、背の低い綺麗な制服を着た子がいて、どうやらその子をいじりながら登校しているようだった。いじっている周りの中学生と比べて、かなり背の低いその子の肩に、一番体格の良い1人が肘を掛け、足を小突きながら歩いている。その不良グループの体格や制服の年季から、中学三年生くらいだろう、と風馬は思った。いじめられている真ん中の子は、細く弱弱しい体つきだが、聞こえてくる会話から、どうやら彼も同じ学年のようだ。必死に言い返し、抵抗しながら歩いている。屈していない。戦っているのだ、と分かった。

その不良グループに近づいて、側を通ろうとした時、風馬の肩が不良達の一人にぶつかった。

「ってぇ、おい! 今ワザとぶつかっただろ!」

一瞬でその場の空気が止まる。周りを歩いていた人のほとんどが、足を止め、風馬とその不良達を見た。

「いや、悪い、わざとじゃないよ」

風馬は淡々と言った。不良達5人が風馬を取り囲む。通勤の大人達は見ていなかったかのように、足早にその場を離れてゆく。中学生達は興味深々、といった感じに集まり、様子を見ている。一部の女子中学生達が、先生を呼んだ方がいいのでは、と話しているのが聞こえた。

「会社に遅れるから行くよ」

風馬は囲っている不良の1人を体で押し退け、その輪から強引に抜けた。体格が良いとはいえ、まだ中学生だ。自分の方が背も高く、力もある。無茶な事はしてこないだろう。輪を抜けたすぐ近くに、いじめられていた子が不安そうな目をして立っていた。

(まだいたのか、先に行けば良かったのに)

そう思った時だった。

「おい! お前!」

不良達の中で一番体格の良い、リーダーらしき中学生が風馬を呼び止めた。周りの仲間達の手前、リーダーらしい行動をとらないと示しがつかないのだろう。声に力が入っている。1、2発やられるかもな、と思いながら振り返ろうとした、その瞬間、背中に強い衝撃と痛みを受け、体が前のめりに車道へ飛び出した。スピードをだした中型トラックが、最悪のタイミングでその場を走っていた。驚愕の表情で目を見開いた運転手のおじさんと目が合う。

(これか!)

「キャーーーー」という悲鳴が聞こえる。

風馬が目をつむった、その時、突如凄まじい突風が吹いた。中型トラックは反対車線に急速スピンしていく。後続車や対向車も一斉にブレーキを踏んだ。物凄いブレーキ音と、スピンによるタイヤの摩擦音が響き渡る。

 少しして、ザワ…ザワ…とやっと周りの音や声が、風馬の耳に聞こえてきた。

 目を開ける。生きている。

 風馬は自分の体を恐る恐る確かめた。道路に倒れた時に、体を支えて出来た手の擦り傷と、背中を蹴られた痛みしかない。あとは服が汚れているだけだ。

 確実にぶつかったと思った、目前にトラックが来ていたのだ。だがトラックとぶつかった衝撃はなかった。急にスピンして、今は反対車線だ。ぶつからなかったのだ。あんな目の前に来ていて。有り得ない。一体何が起こったんだ。

 風馬は通行人の視線を感じながら、周りを見渡した。中型トラックは、反対車線に斜めに止まっている。運転手のおじさんはハンドルを握り締め、呆然とこちらを見ている。他にも5台の車が不自然な方向を向いて停車し、その後ろに渋滞が出来つつあった。歩道は人だかりが出来ている。背中を蹴ったあの不良達の姿はなかった。風馬はパンパンと服の汚れを叩いて立ち上がり、あまり人が集まっていない反対側の歩道へと歩いた。中型トラックの運転席へ行き、「すみませんでした」とだけ言った。運転手のおじさんは呆然としたままだ。何が起こったのか分からないのだろう。もちろん風馬にも分からない。ザワザワとした通行人の声を背中で聞きながら、風馬は会社に行くため、歩き出した。

 「あの…」

 小さな声がして顔を上げると、あのいじめられていた中学生が立っていた。何か言いたげに、怯えた目つきで風馬を見ている。その様子を見ていた風馬の顔が、少しずつ厳しくなった。

 「死ぬなよ。生きるんだ」

 突然、風馬は鬼気迫るように、その中学生に言った。中学生は突拍子もない台詞に面食らった顔で、風馬を見る。するとオドオドとした表情がだんだんと消え、そして風馬を睨みつけた。

 「死ぬかよ!」と精一杯に風馬に怒鳴りつけ、その中学生は走っていった。まさか怒鳴られるとは思っていなかったので一瞬驚いたが、何故だか急におかしくなってきて、風馬は少し笑った。気味悪がられる事には慣れていたが、怒鳴られたのは初めてだ。歩き出した風馬の顔が、再び険しくなっていく。

 

あの中学生は2、3日中に死んでしまうだろう。いじめを苦に自殺するつもりなのか分からないが、間違いない。自分にはそれが分かるのだ。

あの中学生に見たもの、それは死だった。

オーラとでもいうのだろうか、それが自分には見えるのだ。病院で、あなたは霊感がありますよ、と診断されたわけでもないから、自分に霊感みたいなものがあるのか、よく分からない。幽霊の類は、ほぼ、見た事がないし、感じた事もない。だからそういう力はないんだと思う。ただ、幼い頃から、死のオーラが見える、という力だけがあった。人だけでなく、動物や植物のオーラも見えるのだ。動物のオーラと植物のオーラは、人とはかなり違う。特に植物は違っていて、とても綺麗だ。

生きているものは皆、もやっとした湯気のようなものを出している。サウナから出てきた時に出る湯気とは種類が違う。それを、オーラとか、気とかいうのだろうか、自分には分からない。魂の出しているエネルギーのような感じだ。とても綺麗な色で、美しい出方の人もいれば、そうでない人もいる。自分の中にある何かのスイッチをオンにすると、オーラが見えてくるのだ。よく、絶対音感を持った音楽家が、普段はそれ用のスイッチをオフにしていて、ただの音に音名を付ける時だけオンにする、と聞くが、おそらく自分もそれに近い気がする。だから普段は必ずオフにして、なるべくオーラが見えないようにしている。そうしなければ、外を歩く度、全てのオーラが目に入ってしまい、非常に疲れるからだ。年を取った人が側を通る時、病院へ行く時など、気合を入れてオフにした。幼い頃はオフにするコツが分からず、常にオンになっていた。幼少期独特の好奇心もあったからだろう、見たくない、とは思っていなかった気がする。そのため、要らぬトラブルも幾度か経験した。友達の飼っている犬が明日死んじゃうよ、と教え、本当にその通りになり、しばらく気味悪がられた事があった。その犬は車にはねられて死んでしまったからだ。そんな事が度々あり、これは口にしてはいけない事なんだと、悟った。

けれど、オフにしていても、顔を見ただけでオーラが見えてしまう事があった。それはほとんどが死のケースだった。助けを求める魂の叫びなのか、それとも、体から魂が抜けてしまう準備期間は、より強くオーラが出てしまうのか、分からない。先ほどの中学生の場合は、最初は何も見えなかった。だけど少し言葉を交わしたら、一気に見えてしまった。顔、体、全てが青白くなり、死の瞬間の映像まで見えた。それは落下している一瞬の映像だった。今回は、どこで、どのように死ぬのか、場所などの特定までは出来なかったが、スイッチをオンに切り替えて、長く話をすれば見えただろう。見え方にはばらつきがあり、調子が良い時はハッキリとした映像で、調子の良くない時は、オーラも映像もなかなか見えてこない。おそらくは、自分でこの力がコントロール出来ていないからだろう。例えばスイッチをオフにして、長く話をしていて、何も見えなかった人が、自らの死に関わる話をした時に急にオーラが出て、その色が変化してゆき、映像まで見える事もあった。

羽山さんがそうだった。最初、羽山さんと話をしていても何の変化もなかったのに、田舎へ帰る話をした途端、突然オーラが湧き出て、黒に近い色に染まっていった。そして映像が脳に飛び込んできた。高速道路を走っている羽山さんの車、その車が後ろから来たトラックに追突され、すごいスピードでガードレールに衝突し、さらに後続車が次々と突っ込んでくる。その後トラックが爆発し、羽山さんの車が炎上する、悲惨な映像だった。

羽山さんを死なせたくない、そう思い、覚悟を決めて、深夜、羽山さんの家に行き、タイヤをパンクさせた。パンクを直して出発したとしても、当初の予定の時間でなければ、追突事故に巻き込まれないはずだ。翌日、ニュースで玉突き事故の事が出ていたが、そこに羽山さんと家族の名前がない事を確認して、ほっと胸をなでおろした。

そしてここからが、自分と「敵」との戦いの幕開けだ。

羽山さんを救う、それは覚悟が必要だった。人の死の運命を変える、という事だからだ。人の運命を変えてしまう、この代償は大きい。歪は自分へやってくる。「敵」は自分へと矛先を変える。

小学2年生の時だった。通学中、さして仲が良いわけでもないクラスメイトの女の子が、少し離れた所を歩いていた。見ると、顔の色が真っ黒になっていた。そしてそれを見た途端、映像が頭に流れ込んできた。その女の子に、赤い車がぶつかる映像だった。まだ幼い自分には、生々しく、衝撃的すぎる映像で、吐き気がしたのを覚えている。今の映像は、数分も経たないうちに起こる事だ、と直感で察し、横断歩道を渡っていたその女の子に体当たりして、歩道へ突き飛ばした。その直後、赤い軽自動車が、すごいスピードで風馬のすぐ後ろを通って行った。突き飛ばされた女の子は、両膝に擦り傷を作り、大声で泣いた。どうみても、自分がいきなり突き飛ばして、いじめたようにしか見えなかった。その日、学校でその事が話題になり、担任の先生にきつく叱られた。

次の日の事だ。夕方、一人で留守番をしていた。父は、病弱だった妹の奈々を連れて、病院に行っていた。お腹が空いたので、インスタントラーメンを作ろうと、いつものように鍋に水を入れ、コンロのスイッチをひねった、その瞬間、ボンッというすごい爆風と衝撃で、体が後ろへ飛び、台所のテーブルの角に頭を強く打ち付け、意識を失った。気が付いた時には病院だった。生死の境をさまよって、2日も目を覚まさなかったらしい。目を開けた時の、涙に濡れた父の顔は、今でも忘れられない。

その日、病院のベッドの上で、何か確信めいたものを感じた。「何か」が自分を殺そうとしたのだ。計り知れないほど、とてつもなく大きな何かが。その何かは、漠然とはしているが、地球、宇宙、この世界全てを超えた、巨大な圧力のようなものだ。その圧力は、間違いなく自分を殺そうとした。それを感じた瞬間、頭から足の先まで、全身に激しい鳥肌が立った。

何故自分を殺そうとしたのか。あの女の子を助けたからだ。間違いないだろう、運命を変えてしまったからだ。今までにも似たような事はあったが、偶然だろう、と気付きもしなかった。けれど、小学2年生のあの時に、ハッキリと確信した。死の運命から人を救うと、必ず自分に死にかけるほどの、もしくは死の、危険が迫る。それは翌日かもしれないし、2、3日後かもしれない、直後、という事もあるだろう。とてつもなく大きな、圧倒的且つ、絶対的な、得体の知れないとんでもないモノを、敵にしてしまったのだ、と、激しく呆然とした。

それはもしかしたら「神」と呼ばれるものなのか、分からない。姿形がなく、見えないのだから。その見えない何かは、何かしらの意志をもって、圧倒的過ぎる力で自分を確実に殺しにかかって来る。それは自然な流れで起きた事故だったり(そう見せかけているのだろうか)、どう考えても不自然な事だったり、あらゆる手段で自分を殺そうとする。全てが偶然を装った、意図的なものに思えてきて、疑心暗鬼になってしまう。

信心深い方ではないが、幼い頃から神様というのはいい人で、勝手に味方なんだろう、と思っていた。その神様が、見えない強大な力を使って、自分を殺そうとするなんて。

「神」は運命の計画を変えた自分に怒り、贖罪を求めているのだろうか。それは、小さな箱庭にいる自分を、上から覗き込んでいる巨人のような、空き瓶に入れた蟻を観察する人間のような、そんな、絶望感を感じる事だった。敵うはずもない。防ぐ事も、逃げる事も、対策を練る事も出来ない。敵は「神」だ。どれだけ抗ったとしても、敵わない、全ては無意味なのだろう。

味方は誰一人いない。自分一人で、この恐ろしい敵に立ち向かわなくてはならないのだ。己の弱さに絶望しながら。

だから、なるべく人と関わらないように生きてきた。そのせいで、周りから様々な誤解も受けてきた。赤木風馬は冷たいやつだ、自分に会った人はそう思って当然だと思う。


風馬は朝の事故と、死のオーラが見えた中学生の事を考えながら、いつもより少し遅れて職場に着いた。風馬の会社は、大手自動車メーカーの工業地帯の中にある、子会社だ。警備員がいる正門を、社員証を見せて通り、中に入る。技術職ならあまり人と会う事もないだろう、と思い、この仕事に就いた。営業や接客よりは、会う回数は断然少ないだろう。

悶々とした気持ちで午前の業務を終え、昼休憩のベルがなった。仲良くなった、違う部署の先輩である田村と今井に見つからないよう、会社のお茶と、会社の近くのコンビニで買った焼肉弁当を手に、非常階段へ行った。弁当を食べ、お茶を飲み、自販機で買っていた缶コーヒーを開けた。一口飲んで、風馬は朝の事故の事を思い出す。

目前に迫りくるトラックは、何故自分にぶつからずにスピンしたのだろうか。路面が凍っていて、急ブレーキで滑ったのだろうが、あれだけの距離まで迫っていたのだ、自分にぶつかってからか、もしくは自分を巻き込んでスピンするのが普通ではないか。誰の目から見てもおかしい状態でスピンしたため、周りが異様なざわめきに包まれ、運転手は風馬が生きていることに驚き、呆然としていたのだ。あの場に居合わせた人達全員が間違いなくぶつかったと思ったはずだ。もちろん風馬も、もしかしたら「敵」の「神」でさえも。

何故死ななかったのだろう。理由は分からないが、今回自分は敵に勝ったのだ。生きて、ここにいる。助かったのだ。

言いようのない安堵感を感じている自分に、驚いた。こんなにも自分は生きたがっている。風馬は己を少し嘲笑った。


18時に業務は終了し、会社の門を18時40分に出た。帰りも同じ道を通って帰る。太陽は沈み、辺りは夜のように暗い。朝あった雪は、日陰の所に少し残っているだけだ。息も白さが増し、手は自然とポケットへ隠れた。もう敵は自分を殺そうとはしないはずだ、と確信はあるものの、けれどいつもの習慣で、ときおり周りをチェックする。朝ほどの慎重さはないが、こんな自分にうんざりしてしまう。

15分くらい歩いて、朝の事故現場に来た。朝は渡らなかった横断歩道を渡ろうとして、信号を見ると、青が点滅し始めていた。長い横断歩道なのに青の点滅時間は短く、すぐに赤になることで有名な、嫌われ者の信号だ。今も「オラオラ渡ってみろよ、すぐに赤にしてやるぜ」とでも言いたげに、チカチカ点滅している。いつもの風馬は「誰がお前の安い挑発に乗るかよ」と、渡らずに待機している。だが、今日は自然に足が走り出していた。もう大丈夫だ、という意識がそうさせたのだろう。左右、車もバイクもいない。少しのドキドキを感じながら、横断歩道を渡り切った。

(ほら、大丈夫だ)

無意識に体に入っていた力を、フッと抜く。いつもと違う行動をしてしまったことに、わずかながら動揺していた。

(情けないな、もう終わったというのに)

そう心の中でこぼして、いつもの帰り道を歩き出した。

その瞬間だった。

ドオンッと雷のようなすごい音が上から聞こえた。風馬が見上げた、その一瞬で、視界は真っ暗になった。

すさまじい衝撃を体に受ける。何か、すごく大きな重たい壁のようなものが、すごいスピードで上から落ちてきたのだ。体の骨は砕け、ぺったんこになった、はずだった。風馬は息を吐く。生きている。とっさに手で頭をかばうようにして、しゃがんでいた自分の体は、どうやらイカ焼きのイカのように、ペタンコにはなっていない。

まだ轟音の余韻が残る中、おそるおそる目を開ける。砂埃が目に入り、痛い。真っ暗で何も見えない。街灯の明かりが遮断されて、自分がどういう状態でいるのか、全くわからない。大きなコンクリート壁のようなものの下敷きになったのか。頭を少し動かすと、壁に当たる。立ち上がることが出来ない状態のようだ。急に手と足が震え始め、風馬は、しゃがんでいた状態から尻餅をついた。ひんやりとした感触がお尻から伝わってくる。雪がまだ残っていた歩道だったのだろう。お尻が濡れてゆく感覚に、やっと現実感を取り戻し始めた。死んでない。自分は生きている。荒い息が少し落ち着いてきた。

目も少し慣れてきて、辺りを見回してみる。巨大なコンクリート壁だ。それが、風馬の少し前にある何かに引っかかったように支えられて、折れ、鉄骨があちこちむき出しになっているようだ。その何かは、暗くて影のようにしか見えないが、それが折れれば支えが崩れ、本当にイカ焼きになってしまうだろう。だんだん周りのざわめきが聞こえ始めた。確かここはマンションの建設工事現場のはずだ。まだ残っていた作業員がいるのかもしれない。この巨大コンクリート壁は、建設工事現場から落ちてきたのだろう。ゴゴ・・とまた地響きのような音が聞こえた。パラパラと頭に砂のようなものが降りかかる。早く出してもらわなければ死んでしまう。自分の前にある、支えになっている何かだけが、命をつないでいる。

その時、コンクリート壁の割れ目から

「誰かいるか!! 大丈夫か!」と怒鳴り声に近い声と、明かりが入ってきた。懐中電灯だ。その光が支えになっているものを一瞬、照らした。

風馬は目を見開き、息を呑んだ。

その、支えになっているものはモノではなく、なんと、人だった。それも女の子だ。ひざまずき、片手を上にあげて、コンクリート壁を支えている。明かりに照らされ、頬から血を流しているのが見える。顔はよく見えないが、けれどそれは、どう見ても少女なのだ。

(まさか…)

まさか、このコンクリートの壁を支えているのか?そんなまさか。

その時また声が聞こえた

「誰か下敷きになってるぞ! おい! 大丈夫か! 返事は出来るか!」

再び明かりが少女と風馬を照らす。少女と目が合った。その表情は、苦痛に歪んでいるわけではなく、静かな湖のように、驚くほど冷静で、澄んでいた。その目を見て、どこか見覚えがあるような気がしたが、気が動転しているせいか、思い出せない。いや、それよりも、こんな少女に、このコンクリート壁が支えられるはずがないのだ。

風馬は自分も手を上げて、今にも自分達を押し潰しかねないコンクリート壁を支えようとした。すると少女は支えていないもう片方の手で、そばに散らばっていた柱のような大きな形状のコンクリート壁を、まるで本でも拾うように片手で持ち上げ、崩れないよう、支えになるように立てた。ゴゴ・・と地響きのようなすごい音がして、砂とコンクリのかけらが降ってくる。周りから「危ない!」という声と悲鳴が聞こえてきた。少女は支えていた自分の手を離す。軽々と持った柱代わりのコンクリは、重機でないと動かせないぐらい、かなり重いはずだ。

風馬はその光景を、ただただ呆然と見ていた。

「おい! 大丈夫か! もうすぐレスキューが来る、頑張れ!」

その声で我に返り、風馬は呆然としたまま明かりの方を振り返った。

 「だ、大丈夫です」

 上擦った声でなんとか返事をした。そしてまた少女の方へ向き直ると、そこにはもう、少女の姿はなかった。

地面に血だけを残して。


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