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はぁーっと白い息を吐く。どれくらい白くなるかで寒さを計る癖は、幼いなぁと思っていてもやめられない。
前田あきらはコートのポケットに入れていたピンクの手袋をはめ、バイトを終えたコンビニを出て家までの道を自転車で走り出した。3月に入り、18時を過ぎてもまだ明るい。川沿いの平坦な道には、未だ眠っている桜の木がパラパラと立っている。そこを滑るようにゆく。冷たい風が頬にチクチク痛い。
途中、川沿いにある古いアパートの前を通った。チラッと目を向ける。そこは12年前にある事件が起きた場所だった。その一室は未だに空室で、他の部屋にもほとんど人は入っていない。家や壁は汚れ、細かな亀裂も分かるほどに入っており、敷地の雑草は、とても人が住んでいるようには見えないほど伸びていた。最近になって隣にマンスリー型の新しいアパートが立ったので、そのアパートは余計に古く見えた。
冷たい風を受けながら、あきらはバイト仲間で同じ学年の、杉中奈穂との会話を思い出していた。
「人数足りなくなっちゃってさ。お願い! 早めに帰れるように上手く言うからさ。ね! けっこうかっこいい人も来るらしいよ、いいでしょ?」
いわゆる、コンパの誘いだった。
「ちょっと、私、別に外見重視ってわけじゃないんだけど。…まぁ、人が足りないんだったら…」
奈穂はハイハイ、と言い、すぐに相手の幹事の男の人にメールを打っていた。
(やっぱり断れば良かったな…。あぁ、面倒臭くなってきた)
明日の午前の大学の授業は、絶対に休む訳にはいかないのだ。今日の夜8時からのコンパが何とも億劫になってきた。
前田あきらは恋愛にあまり興味がなかった。ハッキリ物を言うサバサバした性格で、少々勝気な所があり、女子からの人気は高いのだが男子からはイマイチであった。そんなあきらでも小学5年生の時、当時好きだった男の子にチョコレートを渡した事がある。「好きです」と言ったわけでも、ラブレターを添えたわけでもないが、あきらにとってはそれが初めての告白だった。
その後中学、高校でも友達の恋愛相談に親身になるばかりで、自分はといえば全く、であった。よく友達から、あきらは本当に男の子に興味がないよね、と言われ、そうなんだよね、と明るく笑いながら答えてはいたが、本当は全く興味がない、ではなく、あまり興味がない、であった。あまり興味がない、のだから少しは興味があったのだ。大学生になり、何回かコンパに行っては見たが、男との距離がどんどん離れていくように感じるばかりだった。コンパという場が、その人の持っている人間的魅力を見事に消してしまっている気がした。男も女も、皆同じように見えてくる。なので、今回の話にも何の期待もなく、ただただ億劫なだけであった。
家の手前にある急な坂道を、えいっと勢いをつけて上る。昔からある団地の、昔からある坂道だ。荒れた道路の表面は、幼い頃に何度かあきらの膝を削った。クマのキーホルダーが付いた鍵を出し、家に入った。リビングの時計を見ると18時半だった。20時までまだ時間がある。明日の朝先生に提出するレポートを少しやっておこう。昨日までにほとんど仕上がっていたので、そんなに時間はかからないだろう。
すぐにはエアコンを点けず、着ていたコートを脱いだ。手を洗い、うがいを丁寧にすると、コンビニで買ったインスタントのカプチーノの粉末を自分用のキャラクター柄のカップに入れ、勢いよくポットの湯を注いだ。幸せな香りと泡が立つ。一口飲んでホッと息をつき、落ち着いた。急にお腹が空いてきたが、20時までは我慢しなくては、とレンジで温めて食べる肉まんを諦めた。窓を見ると、もう真っ暗になっていて、急に部屋が寒くなったように感じられた。カーテンを閉めてエアコンを点ける。洗濯物を部屋に干していたため、少し湿気た臭いがした。雨か雪になるかもしれないから、と母が部屋に干したのだが、今日は一日降ることは無かった。
課題のレポートを見て、ちらっと時計も見た。スカートで行こうか、でも今日の夜は冷えるとニュースで言っていたし…。メイクをちゃんとしてスカートで来なさいよ、と茶化すように言っていた奈穂が頭に浮かぶ。レポートが頭に入って来ない。
今日は雪になるかもしれません、と朝の天気予報で幼い顔をした女子アナウンサーが言っていた。夜に入っている予定を思い、ため息をつく。
赤木風馬は、歩きながら曇り空を見上げた。冬の気配が漂っているのを感じたが、天気予報でそう聞いたからなのかも知れない。昼ご飯の弁当を買いに行こうと、近くのコンビニへ行ったのだが、弁当は売り切れていた。昼の1時を過ぎているのだから仕方ないのだろう。この辺りは会社や学校(中学、高校と、専門学校がある)が多く、最近はすぐ近くでマンションの建設工事をしている。大きなマンションが2棟建つようだ。なので、工事現場の作業員達が流れてきて、レジはよく行列が出来ていた。お昼時の弁当コーナーは、今や戦場だ。
向かいの弁当屋にするか。そこは少し待たされるが、温かくて美味い弁当が手に入る。風馬は、コンビニから道路を挟んで向かい側にある弁当屋へ向かっていた。コンビニの弁当がない時は、向かいの弁当屋か、もう少し歩いた所にあるスーパーに行けば、弁当があるのだ。パンやむすびなどで済ませてもいいのだが、何故か会社が休みの昼は、決まって弁当にしていた。今日はよく買うミックス弁当(唐揚げと白身魚のフライ、ポテトサラダや少量のナポリタンスパゲッティなどが入っている。)をやめて、シャケ弁当にしよう。ご飯の上に海苔とシャケと高菜などが乗っているやつだ。レジの横にいつも置いてある豚汁も買おう。
コンビニよりもだいぶ狭い店内へ入る。手動のドアを開けて、すぐ右側に丸椅子があり、すでに2人が待っていた。
「いらっしゃいませー。すみませんね、あと10分くらい待ってもらうようになるんですけど、よろしいですか?」
50歳ぐらいの、人の好さそうないつもの小柄なおばさんが、笑顔でそう言った。
「はい」
先に来ていた2人の客の隣へ座る。夜まで何の予定もないのだ、美味い弁当が手に入るのなら、20分でも30分でも待つ。
隣に座っていた客の一人は学生風の男で、もう1人は近所なのだろう、サンダルを履いたおばさんだった。学生風の男は週刊漫画雑誌を読み、おばさんの方は携帯電話でメールをしているようだった。弁当屋には、高い位置に小さなテレビが置いてあったが、そのテレビは映像を見るためというより、ほとんどラジオとして使っているようだった。ぼんやりとその小さなテレビを見ていたら、ガラッと手動のドアが勢いよく開き、また客が入ってきた。外の冷たい風も一緒に入ってくる。
「すみませんねぇ。15分か、20分くらい待ってもらうようになっちゃうんですけど、いいですか?」
弁当屋のおばさんは申し訳なさそうな顔で言った。
「あー。じゃあやめとくよ」
怒っているわけじゃないよ、という意味合いを含めた、明るい言い方で断ったお客を、何の気なしに見た。
「あっ」
そのお客も風馬を見る。
「あれ?風馬か!」
「羽山さん!」
「久しぶりだなー! おい!」
「遅いわね、中で待つことにしたのかしら。もう…」
羽山理恵はため息をついた。今日は息子の圭太の靴を買いに、朝から家族で出掛けていた。ファミリーレストランでお昼を食べようとしたら50分待ちになると言われたので、諦めて弁当屋に来たのだ。
「混んでるか、ちょっと見てくるな。焼肉弁当2つとのり弁当でいいな?」
そう言って出て行ったきり、もう15分くらい経つが夫の羽山修二は戻って来ない。後ろに座る圭太をバックミラー越しに見る。小学5年生の圭太はもう1時間くらい無言でゲームをしていた。ゲームに夢中になっている時の圭太はまるで知らない人のように見えてきて、自分の子供なのに何だか気味が悪くなる。前に買った圭太の靴はすぐにボロボロになってしまったので今回は丈夫な靴を買った。圭太は見た目は派手だが安い他の靴を気に入っていたのだが、何とか言いくるめ、地味だが丈夫な値段が高い靴の方にさせた。派手な靴は色とデザインが好みだったようだが、またすぐにぼろにされては困る。案の定その後の圭太は見る見る不機嫌になり、車に戻ると無言でゲームを始めた。話し掛けても無視だ。怒ろうかとも思ったが圭太の気持ちも分かるし、面倒だし、でやめた。怒るとこちらが疲れてしまう。
弁当屋のドアを出た所で、羽山修二と風馬は話をしていた。
「最後に会ったのはいつだったかな」
羽山は笑って言った。
羽山修二は12年前、風馬の心中事件を担当した警察官だった。その後、刑事となったのだが、刑事になってからも、当時小学生だった風馬を、羽山は何かと気にかけていた。一人きりになった10歳の男の子。事件や事故を扱う事が多い警察という仕事場にいれば、ない話ではないのだが、根っからお人好しの熱血漢だった羽山に、風馬は見過ごせなかった。
「多分、10年くらい前じゃないですか?」
風馬も少し笑って言った。その笑顔に、羽山は懐かしい胸の痛みを思い出す。
(…変わらないな)
風馬は、事件の後、児童養護施設に入った。当時、そこの施設には片親だけがいない子供がほとんどで、両親共にいない子供は風馬だけだった。片親だけでも親がいる子供は、風馬に対して露骨に優越感溢れる態度をとっていた。
羽山の頭に、一人きりで遊ぶ風馬の後ろ姿が浮かぶ。その後程なく、生まれ育った区からかなり離れた区へ、風馬は養子に行った。
「今はどうしてるんだ?養子先は確か、江藤さんだったよな」
「はい、今、働いてます。一人暮らししてるんですよ。最初は江藤の父さんに反対されたんです。大学も行けって。自分の粘り勝ちです」
「そうか、お前は賢かったもんな、いい大学も狙えた成績だったんだろな。仕事先はどこなんだ?」
「あそこですよ」
風馬は弁当屋の前の車道を少し歩き、そのずっと先の方を指さした。遠く離れた海沿いの工場地帯に、大きな建物が立っている。
「へー! すごいな! あそこか、さすがだな!」
風馬は照れ臭そうに笑った。
「羽山さんは今日、休みなんですか?」
「あぁ。今日は子供の靴を買いにな。明日も休みになったから田舎に帰るんだよ、それでボロボロの靴じゃあって、かみさんがな」
羽山はやれやれ、という顔をする。
その話をした時からだった。風馬の、羽山を見る目つきが変わったのだ。職業柄、羽山はすぐに変化に気付いた、いや、そういった職業の人間でなくても分かるほど、風馬の目つきが明らかに鋭くなったのだ。
(何か、まずい事でも言ったかな…)
普段はあまり人に気を遣う事のない羽山だったが、今までの付き合いから、風馬に接する時は多少敏感になっていた。
風馬は何も言わず、ただじっと羽山を見ている。急にその場の空気が変わったような気がして、羽山は気まずくなった。
「田舎に帰るって、車ですよね? 高速で?」鋭い雰囲気のまま、風馬が聞く。
「え? あぁ、そうだけど?」
何でそんな事を聞くんだ?という顔つきと口調で、羽山は答えた。
「明日の高速はかなり混むそうですよ。行くのは別の日か、それか違う交通手段にした方がいいんじゃないかな」
「え、そうかぁ?」
確かに明日は日曜日だ。だが、特に混む原因など思い当たらない、ごく普通の日曜日だ。羽山が向かう田舎への道などいつも空いていて、渋滞になった事がない。
「まぁ、考えとくな」
依然厳しい目つきの風馬から目を逸らし、乾いた声で笑いながら、羽山は言った。
駐車場に戻ると、理恵はぶすっとした顔で文句を言おうとしていたが、羽山の後ろにいた風馬に気付くと、すぐによそ行きの表情に変え、会釈をした。
「じゃあな! こんど酒でも呑もうな!」
明るい笑顔で運転席から手を振る羽山とは対照的に、風馬は未だ険しい目つきのまま会釈だけした。
「会えてよかったよ、またなー!」
窓から軽く手を出し、車は進み始める。理恵は助手席からまた会釈をする。風馬は軽く手を振った。その手には、羽山から貰った名刺が握られていた。
手を振る風馬をサイドミラー越しに見て、羽山は少しほっとした。
「ねえ、さっきの子は?」理恵が聞いてくる。
「あー、何年も前の仕事の時の知り合いでな」
羽山はそれだけしか言わなかった。
「けーたぁー! ゲームばっかやってると弁当は2つとも俺が食うぞー」
笑いながら後ろの圭太に話し掛ける。
「ふうん…」
理恵は夫のこういう所が好きだった。家族の間でも守秘義務をちゃんと守る。当たり前の事ではあるのだが、家族に余計な心配をかけたくない、という夫の優しさを感じていた。
よく分からないけれど、あの目つきは嫌な感じがした。言いようのない不安が、もやっと心に広がる。職業柄、人に恨まれる事も多いはずだ。よく家族ぐるみでキャンプに行っていた、同僚の刑事の野中さんは被害者の父親に刺されて死んだ。ストーカーされた挙句殺されてしまった女子高生の父親で、もっと早くに警察が捕まえてくれたら娘は死なずにすんだんだ! と泣き叫び、署で暴れたそうだ。他にも警察官が暴走族数人から話を聞いていると、その暴走族の仲間が警察官目がけてバイクで突っ込んできた、という話を聞いた。警察官は頭を強く打ち、死亡した。
そんな話を耳にする度、理恵は背筋がぞくっとした。そして決まってその日の夜に悪夢を見た。夫が誰かに刺される夢だ。刺された夫を抱き締め、助けて!といくら叫んでも周りにいる人達は助けてくれず、警察なんだからしょうがないよね、という夢だ。
(ただの気のせいよ…。どうか何事も起こりませんように)
さっきの男の人の目つきを思い、心の中で祈った。