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「君、301の赤木君だけど、よく見ておくようにね」
「はい」
看護師の本木早苗は笑顔を消して返事をした。通りすがりの医師は続けた。
「周りに尖った物など置かないように。紐のような物もだ。窓も必ずチェックするように。分かってるね。常に気を付けて見ておいて」
2日前の早朝、2月の終わりの寒い朝だった。十歳の少年が脇腹から出血し意識不明の重体で運ばれてきたのだ。
少年の家族は一人も付いて来ていなかった。疑問にはすぐに答えが出た。家族は皆、既にこの世にいなかった。父親の赤木照彦は長男の風馬とその妹の首を絞め、その後首吊り自殺をした。一家心中だった。
少年はタオルで首を絞められ、脇腹も刺されていたが、致命傷には至らず一命を取り留めた。妹の方には刺し傷はなく、首に絞められた跡があっただけだった。
少年の脇腹の傷は傍にあった血の付いた果物ナイフの指紋から父親によるものと分かった。隣の部屋の住人で赤木家と仲良くしていた主婦が、早朝のパートに行こうと赤木家の部屋の前を通った時に、開いている玄関ドアを覗いて発見した。少年と父と妹、という順に3人並んで倒れていたそうだ。最後に首を吊ったはずの父親は何故か少年と妹に寄り添うように倒れていたらしい。警察の調べでは、どうやら父親の照彦は部屋のドアノブで首を吊り、その後重みで紐が解け、少年と妹の傍へ倒れ落ちたのだろう、という事だった。
本木早苗はこの病院に勤めて7年になるが、動揺を隠せなかった。
301号室に行き、眠る少年を見た。まだまだ幼い、可愛らしい顔立ちをしている。搬送された日の夕方近くに少年の意識は戻り、それから医師の問いかけに淡々と頷き、大人しく処置を受けたが、言葉を発する事はほとんどなく、医師や看護師に話し掛けられても笑顔を見せる事はない。その表情を失った顔が、全てを理解している、と告げていた。
(お母さんも5年前に亡くなっているなんて、それじゃあこの子は…)
(可哀想にね)
と看護師達は皆、悲痛の表情で囁いた。警察も親戚を探したが、小学校の教師達の他は誰一人少年を訪ねる者はいなかった。
眠る赤木風馬を見つめ、起こさないようにそっと、頭を撫でた。柔らかい髪の毛に目が熱くなる。自分の子と重なった。
3月、日差しに穏やかな温もりを感じながら、早苗は今日も301号室に向かっていた。長い廊下の窓からは太陽の光が降り注ぎ、置いてある観葉植物の葉をキラキラと光らせている。
病室のドアを開けると、一番奥の窓際のベッドにいる風馬がフッと顔を上げて早苗を見た。301号室にはもう2つベッドがあり、1つは小学6年生の男の子がいたのだが、今は空いており、病室は風馬一人きりになっていた。
「今日は良い天気ね、風はまだまだ冷たいけど」
明るく話し掛けながら病室に入った早苗は、風馬の顔をじっと見た。しばらく切っていなかったのだろう、風馬の前髪は目が隠れてしまうほどに伸びていた。
「風馬君、前髪うっとうしくない? 明日切ってあげるわね」
早苗がそう言うと、
「いい」
と風馬は早苗の方を見る事なく、返事をした。
「顔が全部隠れちゃうわよ、じゃあ切らないんなら前髪三つ編みにしちゃう?」
早苗はからかうように言って笑った。
「…じゃあ切る」
「かっこよくしてあげるから安心しなさいって」
少しムスッとした風馬を見て、早苗はまた笑った。
(もう大丈夫ね)
早苗の頭に1週間前の事が過る。夜の10時頃だった。看護師が目を離した隙に、風馬は窓から飛び降りようとしたのだ。脇腹の傷は浅かったため、予想より早く回復していき、ある程度の事は自分で出来るようになっていた。時折笑顔も見せて、話もするようになっていた。その笑顔に看護師達も気を緩めてしまった。
早苗が激しく泣きながら、お願いだから止めて、死なないで、と叫び、痛いほどに風馬の体を抱きしめ、激しく暴れていた風馬はやっと落ち着いた。
痛む脇腹を手で押さえ、4階の窓枠に足を掛け、空を睨みつけて飛び降りようとした風馬の顔は、しばらく何人かの看護師の脳裏に焼き付いた。同室だった6年生の男の子はその一件で動揺してしまい、その話を聞いた男の子の母親が、病室を変えて欲しいと言い、そうして風馬は301号室に1人となった。
それから早苗は時間を見つけては風馬の所に行くようにした。風馬は大人びた子供だった。看護師達がいるときは穏やかな顔をしているのだが、一人になるとその表情は消え、目は光を失った。そんな風馬の姿を見かけるたびに、早苗は胸が締め付けられた。
「風馬君、これみてごらん!」
翌日、早苗はいつもの明るい笑顔で病室のドアを開けた。手には桜の枝を1本持っている。
「お隣の部屋の金田のおばあちゃんからよ。綺麗でしょう? 桜は散るからってあまり病室に持ち込まない事が多いんだけど、綺麗だから風馬君にもあげてねって。」
そう言って悪戯をした子供のように笑った早苗は、持ってきた小さめの花瓶に入れ、大事そうにサイドテーブルに置いた。そこには早苗が風馬にあげた小さなオモチャがいくつか置いてある。
風馬の前髪を切り終わり、また後でね、と言って早苗は病室を出て行った。病室に1人になると、風馬はいつも現実に戻される感覚を味わった。あの出来事はやはり本当に起きた事なのだ、と。
病院に運ばれてからの数日は自分の身に起きた事を受け止められず、まるで実感がなかった。悪い夢の続きだと本気で思った。けれど父と妹の奈々は死んで、自分だけが生きている、というそれは、やっぱりどうしても現実だった。
風馬はいつものように窓から外の景色をしばらく眺め、頭を空っぽにしてあの時の事を考えないようにした。そうして何気なくサイドテーブルの桜を見た。こんなに近くで桜を見たのは初めてだった。ふと、小学校の門の近くで咲いていた桜が頭に浮かぶ。入学式の日に咲いていたのだ。雪に似た何かが舞っているな、と思った事を思い出す。と、一緒に父の顔が浮かんだ。少し緊張した顔でスーツを着た父。風馬は桜から目を逸らした。
(見るんじゃなかった)
そう思った。
夜、風馬は何を見るでもなく、天井をただじっと見ていた。するとそのうち、揺れがやってきた。
(まただ…)
最初は静かに緩やかに、だんだんと激しく、勢いをもって、波のようなうねりを上げ、その揺れは度々やって来るのだ。そうなると胸が急にぎゅうっと痛み始め、上手く息を吸えなくなる。まるで水中で息を止めているみたいに苦しくなるのだ。そんな時は決まって同じ様なイメージが風馬の頭の中に浮かんできた。
果てしなく広い、陸地は全く見えない海。右を見ても、左を見ても、そこには水平線があるだけだ。海の色は青黒く、あまりにも深い。風も波もなく、生きているものの気配はまるでない。そんな海に1つの小さな木片が浮かんでいて、小さな子犬が1匹乗っているのだ。足をガクガクと震わせて、キョロキョロと周りを見る子犬。子犬は風馬だった。そのうち空も海も全てが闇夜となり、星がチカチカと輝き始め、海の黒にその姿を映し出す。星は絵本のように美しく、愛の象徴のように輝いているのに、ちっとも優しさを感じられない。それどころか可哀想なその子犬、風馬を、高みから嘲笑っているかのように思える。星が冷徹さを感じさせながら、自分を拒絶しているのだ。星は「良いもの」だったはずなのに。
怖かった。
とてつもなく怖ろしい暗闇の海と星に耐え切れず、枕に顔を押し付けて、泣き叫んだ。声を出さずに。痛む脇腹が生きている、という事を容赦なく教えてくれた。
その日の深夜の病院はひどく静かだった。目が冴えて眠れない風馬は何度も寝返りを打っていたが、諦めて目を開けた。あんまりに静かで気味が悪いほどだ。全ての音は何か大きな手で塞がれてしまったかのように、異常なほどに物音一つしない。看護師や患者達の気配も感じられない。風馬はこの病院に自分以外の皆が消えてしまったのではないか、と思った。本当に全く、何の音もしないのだ。
時計を見た。午前2時を過ぎている。なかなか寝付けない。いつもとは違う夜に動揺し始めていた。眠らなくては、と思うのに、胸がざわざわとして意味不明に体は緊張し、強張っていた。一向に眠れそうにない。
一体自分はどうしたんだろうか。最近はまともに眠れるようになっていたのに。今日は何かがいつもと違う。でもその何かは分からない。
(ざわざわ、ドクン、ドクン)
自分の心臓の音が聞こえる気がする。
(ざわざわ、ドクン、ドクン)
ピリピリと体中全てが緊張し、力が入っていた。神経が昂ると眠れなくなる、と看護師が言っていたのを聞いたが、それだろうか。
(ドクッ、ドクッ、)
コトッ。
音がした。
息を呑む、誰かいる。一気に全身が固まる。
この病室には自分しかいないはずなのに、気配がハッキリとあるのだ。それも突然。さっきまではなかった気配だ。ドアも開いていない。看護師や医師ではない。その気配は足音も立てず、少しずつ自分に近付いてくる。
(ドクドク、ドクドク、ドクドク)
ものすごい恐怖に風馬は目を固く瞑り、毛布を強く握り締めていた。体はますます強張り、少しずつ震えてきた。あまりの緊張におかしくなりそうだ。
月明かりが少し入る、薄暗い病室。その気配は風馬のすぐ近くまで来て止まった。顔をじっと見つめている。目を閉じていてもそれが分かった。悟られないように唾を飲む。風馬は無意識に寝たふりをしていた。
看護師でも医師でもなく、患者でもない。泥棒? でもあまりに唐突に病室に現れた。ドアも開けずに…。するとやっぱりこれは…。幽霊…。
毛布をギュッと握っていた風馬の小さな手。その手をひんやりと冷たく細い手が、そっと触った。
「ひっ!」
声を上げ、風馬は目を開けてしまった。ベッド脇に人が立って自分を見ている。
薄暗くてよく見えないが、それは女の人だった。
(幽霊!)
そう思った。けれど何か違う。足もあるし、透けてもいない。ハッキリと存在がある気がする。恐怖と緊張の中、僅かな時間で風馬の頭はフル回転していた。いつの間にか、開かないはずの重い窓が開いていて、春の優しい風がカーテンを揺らし、月明かりが病室に差し込む。女の人の姿がハッキリと見えた。
また息を呑む。怖いくらいに美しい顔をした、大人の女の人だ。月明かりに白い肌は照らされ、長い髪を後ろで束ねており、どこかの国の民族衣装のような、見た事もない服を着ている。その服はボロボロだった。
その異様な恰好に、不思議と恐怖は消え、風馬は女の人を観察した。靴も、いろんな色の布を巻き付けた、古い時代のブーツのような物を履いている。肩から斜めに掛けた水筒は、とても古く汚れていて、戦争ドラマで見た物にそっくりだった。
目線を上げた風馬の目と、女の人の目が合った。その目に一気に引き込まれる。静かでな闇夜の海に、ゆらゆらと映る月の光がそこにあった。何かを見抜くような澄んだ瞳に、吸い込まれそうな奇妙な感覚がした。女の人は、悲しいような、寂しいような、何とも言えない表情で風馬を見つめていた。風馬は何も考えられなくなり、呆気にとられていた。
一体どれくらい見入っていたのだろう、時間にすると、おそらくほんの数秒なのだろうが、風馬にはとても長く感じられた。
「 」
不意に女の人が口を動かした。
(何を言ったんだ?)
確かに口を動かしたが聞き取れなかった。話し掛けるというより、独り言を呟いた感じだった。その時、不意に強い風が吹き、カーテンを大きく揺らした。
女の人はいなくなっていた。
その後の記憶が全くない。気が付くと朝だった。
「おはよう風馬君。今日もいい天気よ。」
風馬はしばらく夢の中にいるような感覚で、早苗を見ていた。
(夢……)
ぼんやりとした頭で手を見た。すると、窓に目をやった早苗が言った。
「…窓、開けたの? すごく重いのに…。どうやって開けたの?」
(! )
早苗を見る。一気に目が覚める。早苗は心配している事を隠そうとしているのだろうが、上手く隠せていなかった。口元は笑っているのだが、目に出ている。
「…さっき、外の空気が吸いたくなって。それで、どこかのお見舞いに来てたお兄ちゃんにお願いした」
また飛び降りようとしたのでは、と思われたんだろうな、と察した風馬は、もそもそと言い、ニコッと笑って見せた。
「もう、だめじゃない、勝手に開けちゃ。そういう時は言わなきゃ。風邪引いちゃうわよ。外の空気を吸いたいって、気分でも悪いの? 大丈夫?」
早苗は安心した顔をして、話をしながら重い窓をなんとか閉めようとしたが、窓はなかなか動かない。
「もう大丈夫だよ」
風馬は返事を返した。
窓は何で開いたのか。あの窓はとても重たく、大人でも簡単には開けられないのだ、子供の自分に開けられるはずもない。じゃあ一体誰が開けたのか。昼間のうちに少し開いてしまっていたのか。全てはやはりただの夢だったのか。手を触れられた時のあの感触と、あの瞳を思い出し、自分の手をじっと見つめていた風馬に向かって、花瓶を手にした早苗が言った。
「あら? 桜は?」